第35回の今回は、著書『平成猿蟹合戦図』を上梓した吉田修一さんです。
徹底的なリアリティで知られる吉田さんのこれまでの作品とは対照的に、今作『平成猿蟹合戦図』の物語は、どこかおとぎ話を意識したような、やわらかい語り口で書かれています。
バラエティに富んだ吉田さんの作品の中でも異彩を放つこの作品はどのような背景と土壌を持って生まれてきたのでしょうか。
- 1. 『平成猿蟹合戦図』は「今、自分が見たいもの」を書いた
- 2. 登場人物たちを最終的に居心地のいい場所に立たせるという一点は決まっていた
- 3. 24、5歳の時に見えた「道」があまりにお粗末だった。
- 4. 取材後記
■ 『平成猿蟹合戦図』は「今、自分が見たいもの」を書いた
―本作『平成猿蟹合戦図』はタイトルの通り、現代版のお伽話だといえます。これまでの吉田さんの作品とは趣が異なるかと思いますが、こういった物語を書いてみようと思われた理由はありますか?。
吉田 「リアリティを追求してきましたと言うのも恥ずかしいですけど、デビュー以来、人間感情や場所を含めてリアルなものを書きたいと思ってやってきました。それもあって、今回はその縛りを少し緩めてみたらどうなるのかな、と思ったのかもしれません。
書き始めた時にはぼんやりとした思いでしたが、実際書き終えてみて、はっきりとそう思いますね」
―ただ、現代にコミットしているというところは変わっていないですよね。
吉田 「“今”を書きたいというのが昔からありますから。昔はよく、“今、自分に見えることを書いていきたいんです”ということを言っていたんですけど、今回に関して言えば、“今、自分が見たいもの”を書いたということになりますね」
―これまでとは作風の異なった作品を書くということで、苦労した点はありましたか?
吉田 「今まで『これはリアリティがないな』ということで立ち止まっていたものが、今回その縛りを緩めたことで、その2、3歩先に進むことができました。だから、縛りがあった時と比べると軽やかな足取りで書けたような気がします。もちろん2、3歩進むための苦労はあるんですけど、そういう意味での新しい発見もありました」
―今おっしゃっていたような、「リアリティの縛りを緩めた」経験は、今後の作品にも生かされていくのでしょうか。
吉田
「今まで立ち止まっていたところの先に少し出たことで、リアリティがあるかないかの境界がわかったんですよね。その境界はこれまでもぼんやりと見えてはいたんですけど、越えてみないことにはそれがどんなものだかわかりませんでした。今回、それを越えてみることで、境界線がどこにあるのかがはっきりわかったんだと思います。
だから、今後はその境界線を思い切り越えて書くこともできるでしょうし、リアリティのあるものを書くとしても、境界線がきちんと見えているということで、これまでとは違った作品になるのかもしれません」
―執筆時のエピソードがありましたら教えてください。
吉田
「『悪人』の映画が完成した時期が執筆時期に重なっていたんですよ。映画の脚本を監督と一緒に書いていたので、制作発表とか完成披露試写会にも出たのですが、そういう不慣れなことが続いていた時に連載が重なっていたので多少バタバタしました。
制作発表などは普段出ないのでどれくらい疲れるかとかがわからないじゃないですか。それはそれで楽しかったんですけど、割とダメージが大きかったりして執筆が遅れてしまったりはしましたね」
■「登場人物たちを最終的に居心地のいい場所に立たせるという一点は決まっていた」
―本作は『週刊朝日』で連載されていましたが、連載ならではの難しさというのはありますか?
吉田
「締め切りですかね、やっぱり(笑) 毎週ですからね。
連載って必然的に毎回読者がいるということなので、書き下ろしであればできること、つまり途中で場面を入れ替えたり、設定を書き直すことができません。そういう意味では、この作品も連載ならではの縛りはありましたね」
―執筆を始める段階ではどの程度構想が固まっていたのでしょうか?
吉田
「まず、あとは主人公の一人である美月が歌舞伎町で赤ん坊を抱いてしゃがみこんでいるという場面が頭の中にありました。一番のとっかかりとしてはそこですね。
そこから毎回書くたびに話が広がっていった感じです。登場人物にしても、最終的に8人が語り手になりますが、書き始めた段階ではそこまで増えるとは思っていなかったですし」
―書き始めた当初は、後に出てくるひき逃げ事件や選挙のことは頭になかったんですね。
吉田 「ひき逃げはぼんやりあったんですけど、選挙は全然なかったですね。連載の第2回で純平が初めて出てくるんですけど、その登場シーンを書いている時は、まさかこの人が将来的に選挙に出るなんてまったく思っていなかったです」
―連載小説でプロットを決めていないというのは不安ではなかったですか?
吉田 「もう不安だらけですよ(笑)ただ、今回は最終的に登場人物たちに居場所をみつけてやろうというか、幸せになってほしいという一点は決まっていて、この人たちをどうすればそれぞれの場所に立たせてあげられるのか、ということを考えて書きました。細かい設定は決まっていないにしろ、登場人物たちが最終的にどうなるかは決まっていたというのは小説を書くうえでかなり大きかったです。それがなければ今回みたいな書き方はできなかったと思いますね」
―今おっしゃっていたことに関連しますが、この作品からは「再起」というテーマを読み取ることができますね。
吉田 「僕も含めて、どんな人でも立つ場所が少し変わっただけで、まったく違う道が広がったりするじゃないですか。人間にとって、立っている場所というのはすごく大切で、単純に場所さえ変われば人生うまく転がる人もいるんだろうし、そういう意味で、今回は立ち位置を変えることで再起が可能なんだなと思いながら書きましたね」
―吉田さんの作品に一貫するテーマというのはありますか?
吉田
「それをサラッと答えられればいいんですけどね…。色々なタイプの小説をこれまで書いてきましたが、なぜ色々なタイプのものを書きたいのかというと、あるジャンルの作家として特定されたくないんですよね。たとえば恋愛小説家と呼ばれると、自分を狭められる感じがあって。
とにかくいろんなものに挑戦して、属性をあいまいにしたいんだと思うんです。僕が小説の中で何を書いているかというと、まさにそのことを書いているんじゃないかと。世の中にあるいろんな仕切りを取っ払いたいわけではなくて、どうせ取っ払えないものなら逆にもっと仕切りを増やして、仕切りなんて一つだと大きな壁だけど、あれもこれもと増えていくうちにそれは低くなって、仕切り自体を無効にするというか、結局そこでも自分の属性があいまいになるというか、説明するのが難しいのですが、そういうことを小説の中で手を替え品を替えやっているような気がします」
―確かに、本作も含め、作品のタイプというか幅はどんどん広がってきていますよね。
吉田
「デビューしたのが文學界新人賞からだったので、デビューして芥川賞をとるまでは“純文学の新人作家”というのが冠としてついていて、そうなるとそういう風にしか読まれなくなるじゃないですか。だから『パレード』みたいなものを書いてみたり『東京湾景』を書いてみたり。そうしたら恋愛小説家として見られるようになって、今度はそこから抜け出そうと『悪人』を書いてみました…というような(笑) 今は“『悪人』の吉田修一”なので、またそこから抜け出さないといけませんね。
だから、書きたいことって“捕まるな”ってことなのかな。何かに“捕まって”しまうと身動きとれなくなるじゃないですか」
■ 24、5歳の時に見えた「道」があまりにお粗末だった。
―文章を書くということをお仕事とされている吉田さんですが、そのなかでも特に好きな仕事はありますか?
吉田 「ゲラになった原稿に自分で赤を入れるのが一番楽しいですね。削ったりするのが好きなんですよ」
―吉田さんは高校まではずっと水泳をされていたそうですが、そのようにスポーツをずっと続けられていた方が文章に興味を持ち、小説を書いてみようと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
吉田 「大学に入るタイミングで東京に出てきて、24、5歳の時に特にきっかけなく書き始めたんですよね…。書く作業としては短いものなんですけど日記をつける習慣があって、その延長で小説になったのかな…。単純に小説っていうものを書いてみたいと思ったのがきっかけといえばきっかけかもしれません」
―特にきっかけがないというのは珍しいですよね。
吉田
「以前、対談させてもらった高橋源一郎さんにもそこを深く突っ込まれたんですけど、考えても出てこないんですよね。「ありえない」って言われました。
でも24、5歳の時って何となく先が見えてしまう感じがありませんか?この道を行くのか、っていう。僕の場合はその時に見えた道があまりにお粗末だったんですよね(笑) 卒業してからずっとフリーターをやっていたりしたので。それで小説っていうわけじゃないんですけど」
―24、5歳で将来に思い悩んだ末に書き始めたというわけでもないんですね。
吉田 「思い悩んではいたんでしょうけどね。でも、その打開策として小説を選ぶっていう時点でもう間違っているでしょう(笑)」
―最近読んだ本がありましたら教えてください。
吉田 「一番最近読み終わったのはイアン・マキューアンの『ソーラー』ですね。それとマリオ・バルガス・リョサの『チボの狂宴』とか、楊逸さんの『獅子頭』も面白かったです。あとは新潮クレスト・ブックスなどでベトナム系アメリカ人とか、タイ系フランス人とか、移民の若い人が書いた小説が出ているのですが、『ボート』(ナム・リー)とか『観光』(ラッタウット・ラープチャルーンサップ)とか、ああいうのは本当に面白いですね」
―書店で本を選ぶ時はどのように選んでいますか?
吉田 「小説に関しては、“この人新しい本を出したんだ”ということで手に取ったり、さっきの『観光』のような気になり方をすることもありますね。読んで面白かった作家の過去の作品を遡ってみたりもします。ノンフィクションは装丁とか帯のコピーで買うことが多いです。読む量でいうと、今は小説よりノンフィクションの方が多いかもしれません」
―吉田さんが、人生において影響を受けた本がありましたらご紹介いただけますか?
吉田 「難しいなあ…。こういう質問でいつも上げるのは、ヨシフ・ブロツキーの『ヴェネツィア』っていう本ですね。紀行文のような小説のような本なんですけど」
―最後に読者の方々にメッセージをお願いします。
吉田 「平成猿蟹合戦図はこれまでの作品とは多少毛色が違いますが、現代のお伽話としてぜひ読んでみて下さい」
■ 取材後記
言葉を選びながら、ものすごく真剣に取材に応じてくださった吉田さん。ご本人がリアリティの境界がわかった、と語っていたように、今回刊行した『平成猿蟹合戦図』で、吉田さんは次回以降の作品の大きな手がかりをつかんだようでした。
多彩な作品群にさらなるバリエーションが加わることに期待です。
(取材・記事/山田洋介)
■吉田 修一さん
1968年長崎県生まれ。法政大学経営学部卒業。1997年「最後の息子」で第八四回文學界新人賞を受賞し、デビュー。2002年、『パレード』で第十五回山本周五郎賞、『パーク・ライフ』で第一二七回芥川賞、2007年『悪人』で第六一回毎日出版文化賞、第三四回大佛次郎賞、2010年『横道世之介』で第二三回柴田錬三郎賞を受賞。著書に『静かな爆弾』『さよなら渓谷』『空の冒険』『キャンセルされた街の案内』ほか多数。
解説
ひょんなことからひき逃げ事件を目撃してしまったバーテンは、歌舞伎町で知り合ったホストと共謀して犯人を脅迫、大金を得ようと目論むが、事件は意外な方向へ…。世界的チェロ奏者、政治家の秘書を目指す女、無実の罪をかぶり服役する元教員の娘、秋田に暮らす老婆、多くの登場人物たちを巻き込んで物語は転がり始める。
■インタビューアーカイブ■
第81回 住野よるさん
第80回 高野秀行さん
第79回 三崎亜記さん
第78回 青木淳悟さん
第77回 絲山秋子さん
第76回 月村了衛さん
第75回 川村元気さん
第74回 斎藤惇夫さん
第73回 姜尚中さん
第72回 葉室麟さん
第71回 上野誠さん
第70回 馳星周さん
第69回 小野正嗣さん
第68回 堤未果さん
第67回 田中慎弥さん
第66回 山田真哉さん
第65回 唯川恵さん
第64回 上田岳弘さん
第63回 平野啓一郎さん
第62回 坂口恭平さん
第61回 山田宗樹さん
第60回 中村航さん
第59回 和田竜さん
第58回 田中兆子さん
第57回 湊かなえさん
第56回 小山田浩子さん
第55回 藤岡陽子さん
第54回 沢村凛さん
第53回 京極夏彦さん
第52回 ヒクソン グレイシーさん
第51回 近藤史恵さん
第50回 三田紀房さん
第49回 窪美澄さん
第48回 宮内悠介さん
第47回 種村有菜さん
第46回 福岡伸一さん
第45回 池井戸潤さん
第44回 あざの耕平さん
第43回 綿矢りささん
第42回 穂村弘さん,山田航さん
第41回 夢枕 獏さん
第40回 古川 日出男さん
第39回 クリス 岡崎さん
第38回 西崎 憲さん
第37回 諏訪 哲史さん
第36回 三上 延さん
第35回 吉田 修一さん
第34回 仁木 英之さん
第33回 樋口 有介さん
第32回 乾 ルカさん
第31回 高野 和明さん
第30回 北村 薫さん
第29回 平山 夢明さん
第28回 美月 あきこさん
第27回 桜庭 一樹さん
第26回 宮下 奈都さん
第25回 藤田 宜永さん
第24回 佐々木 常夫さん
第23回 宮部 みゆきさん
第22回 道尾 秀介さん
第21回 渡辺 淳一さん
第20回 原田 マハさん
第19回 星野 智幸さん
第18回 中島京子さん
第17回 さいとう・たかをさん
第16回 武田双雲さん
第15回 斉藤英治さん
第14回 林望さん
第13回 三浦しをんさん
第12回 山本敏行さん
第11回 神永正博さん
第10回 岩崎夏海さん
第9回 明橋大二さん
第8回 白川博司さん
第7回 長谷川和廣さん
第6回 原紗央莉さん
第5回 本田直之さん
第4回 はまち。さん
第3回 川上徹也さん
第2回 石田衣良さん
第1回 池田千恵さん