第33回の今回は、著書『ピース』が文庫化され25万部を超えるベストセラーになっている樋口有介さんです。
この作品は秩父で起こった連続殺人事件を扱っているのですが、実は樋口さんの実体験にもとづいています。
青年時代の樋口さんが体験した“事件”とはいったい何だったのでしょうか。
- 1. いつか何とかして書かなければいけないと思っていた
- 2. どうにもならない人生を、愚痴を言わずに淡々と生きる。他に人間の生き方はないだろう
- 3. 気の済むまで小説を書いてダメだったら他の道を考えようと思った
- 4. 取材後記
■ 「いつか何とかして書かなければいけないと思っていた」
―樋口さんの著書である『ピース』が文庫化以降売れつづけ、とうとう25万部を突破しました。これだけ読者に受け入れられたことをどうお考えですか?
樋口 「暗い話ですから、そんなに売れるとは思いませんでした。嬉しいことではありますが、気持ち悪くもありますね」
―どういったところからこの作品のアイデアが生まれたのでしょうか。
樋口 「デビューする前から、いつかは書かなくてはいけないなと思っていたテーマです。作中で主人公の青年がある廃村へ入っていく場面があるのですが、そこは私か住んでいた場所を、リアルに描写したものです。もう二十五年も前のことですが、そして、そのときにあの航空機事故がありました」
―『ピース』で描かれている御巣鷹山の航空機墜落事故ですね。
樋口 「ええ、私が廃村に住んでいた時の話です。当時、私は自給自足のようなことをやりながら売れない小説を書いて暮らしていたんですよ」
―実際に、墜落していくところはご覧になったんですか?
樋口 「そこまでは見てないです。事故があったとき、私は出かけていましたし、事故現場と私が住んでいた場所は山をひとつ隔てていましたしね。ですが事故の第一報は両神山に墜ちた、というもので、大変な騒ぎになりました。ただ、すぐに事故現場は秩父でなく県境を越えた群馬だということが判明して、そうなると秩父側は“知らないや”ということに」
―当時の騒ぎをどんな気持ちで見ていましたか?
樋口 「遺体から何からぜんぶ群馬県側の学校に集められて、私も近くを通りましたが、大混乱でした。マスコミも来ていましたし、あとは医者だの警察だの消防だの…とてつもない騒ぎでした。私は群馬の前橋生まれだったので、実家へ行くときはその大混乱のなかを通るわけですよ。あの惨状は今でも忘れられません」
―実体験が盛り込まれた作品だったんですね。
樋口 「それこそテレビで、子供たちがこの作品に書いてあるような騒ぎを起こしたわけです。私はまだデビュー前でしたが、彼らのあの振る舞いだけは許せない、子供の無知な行為というだけではなく、根底にはそれを許した親や社会があるわけです。ですから、いつかは書かないといけないテーマだと、ずっと思いつづけていました。あの子供たちを実際に殺そうとは思いませんが、どこかでひとこと言っておかなければ、という思いはありました。デビュー以降も自分の執筆能力がついてきませんでしたが、『今なら』、ということで書いたのがこの作品です」
―『ピース』を書くにあたって苦心した点はありますか?
樋口
「作品自体というよりも、私生活の話にトラブルがあって、『もう人生が終わったかな』という感じになったときでした。ちょうど50枚くらい書いたときでしたかね。そんなことがあって、先を書けなくなってしまったんです。
この作品にしても、もう少し明るく、梢路と樺山咲を中心にした軽いタッチのものにしようと思っていたのですが、そのトラブルの影響で、とてもじゃないけどそんな軽い小説は書いていられなない、と思うようになり、急遽廃村に自分が住んでいた時代の“ずっと頭にひっかかっていたテーマ”に変更したわけです。ですから最初の予定とはだいぶ違う雰囲気の小説になりました」
―そのトラブルの方も気になりますが…、今はそのトラブルというのは…?
樋口 「もうぜんぶ片付きました。それで今は家などをすべてひき払って、沖縄へ移住しています」
■ 「どうにもならない人生を、愚痴を言わずに淡々と生きる。他に人間の生き方はないだろう」
―実際に暮らしていたとおっしゃるだけあって、秩父方言に非常なリアリティを感じました。
樋口 「読みにくいという人もいますけどね(笑)。私があそこへ住んだのは5年間だったのですが、土地の人はみんなああいうしゃべり方をします。ただ、あれから20年以上経っているので、今の人はどうかわかりませんが」
―この作品では、秩父で起きた連続バラバラ殺人が中心に据えられていますが、読んだ感想として事件そのものよりも、登場する人間たちそれぞれが抱える葛藤の生々しさが心に残りました。執筆時に特に心がけていたことはありますか?
樋口 「特にありませんが、とにかく登場人物の一人一人を、ていねいに書こうと。都会では、郵便屋さんなんかただ郵便物をおいていくだけ。ですけど秩父では、お茶を飲みながら一時間も世間話をしていくような感じで。小説では端役でも、四十歳の人間には四十年分の人生があるわけですから」
―確かに、人間のおどろおどろしさが細かく描かれていますね。
樋口 「人生のどうにもならなさ加減といいますか、誰にもどうすることもできない人生を書くというのは、この作品だけではなく、私の小説にすべて共通しています。昔も今もミステリー作家になろうと思ったことはないのですが、一応世間では『ミステリー作家』ということになっているので、それらしく書いていますけどね(笑)」
―ラストも印象的でした。殺人などの事件を扱った小説では、最終的に犯人がわかってすっきり、という形で終わるものが多いなか、この作品は違いますね。
樋口 「ラストについては尻切れトンボだと言う人もいます。その通りといえばその通りなんですよ。私もああいうふうにする予定ではなかった。犯人とその動機が分かって、そのまま終わらせようとかね。ただ脱稿してから、もうひとひねり欲しいと。本来は『ピース』の意味が分かったところで、あの小説は完結。以降は読者サービスでしたが、ラストは賛否両論でしたね」
―登場人物の描き方やラストの結び方などから、ミステリーというジャンルには括れない作品だと思いました。
樋口 「事件があって布石があって謎があって、刑事なり探偵なりが事件を追って、そして最後には犯人が判明するという、いわゆる“ミステリー”とは違います」
―樋口さんの作品に共通するテーマがありましたら教えてください。
樋口 「ハードボイルドですよ。どうにもならない人生ではあるけれど、『愚痴を言わずに淡々と生きましょう』というね。他に人間の生き方はないだろう、と。もちろん作家ですからストーリーはいろいろなものを考えますが、そういう理念はどの作品にも共通していると思います」
―その理念は樋口さんご自身の人生にも通じるのでしょうか。
樋口 「いや、私の日常はなんかいい加減ですよ 。飲み屋へ行って奇麗なお姉さんをからかったりね(笑)、そんなもんです」
■ 「気の済むまで小説を書いてダメだったら他の道を考えようと思った」
―作家になる前は劇団員や業界記者などさまざまなことをされていた樋口さんですが、作家を志したきっかけは何だったのでしょうか。
樋口 「作家になりたかったから、ろくに仕事もせずに職を転々としていた、というだけのことです。今でいうフリーターみたいなものですかね。作家になろうと思ったのは16歳のときです」
―ずいぶん早くから作家になることを志していたんですね。当時作家になりたいと思ったのにはどのような理由があったのでしょうか。
樋口 「私は中学を卒業するまで、小説なんてひとつも読んだことがなかったんですよ。教科書もろくに開いたことがないようなバカな兄ちゃんでね、高校も行かずに母親の実家だった看板屋の手伝いをしていました。そのうちに夜学へ行くようになったんですけど、そこもすぐにやめてしまったので、一生を田舎の看板屋で過ごすしかないかな、と思っていたんです。でも、その次の年に夜学のときの友達が、田舎へ行くとまったく勉強をしなくても入れる高校があるって言うものですから、それならということでもう一度高校へ行くことにしました。『まったく勉強の必要はなし』なんですから、そのとき生まれて初めて、小説というものを読みました」
―ちなみにその小説は何だったか覚えていますか?
樋口 「忘れてました。光文社文庫だったと思うんですけど、たまたま家にあった本でした。それが面白かったんでしょうね。たった一冊小説を読んで、よし作家になろう、と思ってしまったんですから 、バカは恐ろしい」
―それはまたすごい方向転換ですね。
樋口
「親も悪いんですよ、止めればよかったものを(笑) 。教科書もろくに開いたことのないバカ息子が小説を一冊読んだだけで『作家になる』とか言ったら、『それはいい!』だなんて。普通は止めますよね。
それからコツコツ小説を書いて『文學界』の新人賞に年二回応募しつづけて、東京の大学へも進学したんですけど中退して、いい加減な暮らしをしながらもずっと小説は書いていました。でも、どうしてもデビューできず、そのうちに長いこと交際していた女性にも捨てられて、秩父の山奥へ入ったわけです
」
―そういう経緯があったんですね。
樋口 「とにかくそこで『好きなだけ小説を書いてみよう』と思ってね。気の済むまで書いてダメだったら他の道を考えようと。そして5年目に何とか賞にひっかかったわけです。書き始めてから20年以上かかりましたね。デビューしてから22年経ちますから、私はもう40年以上も小説を書いている(笑)」
―樋口さんが人生で影響を受けた本がありましたら3冊ほどご紹介いただければと思います。
樋口 「ジェイムズ・サーバーの『虹をつかむ男』。これを読んだときに、小説は面白くなくてはいけないなと思いました。どうでもいい難しいことを、ああだこうだと書くのは作家の恥。ユーモアだとか可笑しさだとか人生の滑稽さだとかを読者に提供する、それが作家の仕事だと。あとはフレドリック・ブラウンの『未来世界から来た男』。この人の作品は全部読みました。もう一冊は坂口安吾の『風博士』です」
―今後作家としてこんな作品を作っていきたい、というものがありましたら教えてください。
樋口 「そういうのはないですね。書き始めてから40年以上、単行本ベースでも40冊以上は出していますから、いくら好きでも飽きますよ。今書いているものが一段落したら、また昔のバックパッカーでもやりますか」
―最後に読者の方々にメッセージをお願いします。
樋口 「私の作品には青春ミステリーとか、中年ハードボイルドとか捕り物帳とかいろいろなジャンルがありますから、いくつか読んでいただければ幸いです」
■ 取材後記
5年間、秩父の廃村にこもって小説を書きつづけて、作家デビューにこぎつけたという樋口さんの根気にはただただ敬服するばかり。目的を達成するために、ブレずに訓練を重ねるという同氏の姿勢は、おそらくどんなことをやるにも必要なのだろう。
このインタビューで語ってくれた御巣鷹山の航空機墜落事故や当時のマスコミ報道は『ピース』において大事なカギになっている。事故ついて多少の知識を仕入れておけば、この物語をより深いところまで読みとれるはずだ。
(取材・記事/山田洋介)
■樋口 有介さん
1950年(昭和25年)群馬県前橋市生まれ、88年に『ぼくと、ぼくらの夏』で第六回サントリーミステリー大賞読者賞を受賞。次作『風少女』が直木賞候補となる。主な著書に『彼女はたぶん魔法を使う』にはじまる<柚木草平シリーズ>、時代小説『船宿たき川捕物暦』のほか、『林檎の木の道』『木野塚探偵事務所だ』『月への梯子』『刑事さん、さようなら』などがある。
■インタビューアーカイブ■
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第38回 西崎 憲さん
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第36回 三上 延さん
第35回 吉田 修一さん
第34回 仁木 英之さん
第33回 樋口 有介さん
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