■道尾秀介はどうして「子ども」を主人公に据えるのか?
―本作『月と蟹』は1980年代後半、具体的に言いますと1988年頃が舞台となっていますが、そうした時代設定にしたのは何故ですか?
道尾 「もともと今作は子どもを主人公に据えるというところから始まったんですが、ある時代以降の子供は日常の中に携帯電話やゲームが入り込んじゃっているので、普遍的なものが書きにくい。だから少し舞台を昔にして、僕が小学5年生の頃を中心に、その前後で作品の内容にそぐう年を探しました」
―本作では慎一、春也、鳴海という小学5年生の子どもたちを主人公に据えています。子どもを主人公にするのは、道尾さんの作品としては久々ですよね。
道尾 「メインの視点で使うのは久しぶりです。編集さんの方にどんなのが読みたいですかと聞いたときに、『道尾秀介の書く子どもが読みたい』という意見を頂いたこともあったし、僕自身、もう一度やってみたかった。子どもを主人公にすると普遍的な物語をつくることができて、何十年後でも読み味の変わらない小説になってくれるので」
―私自身は26歳なのですが、小学5年生の頃は既にゲーム機が家庭に入り込んでいた一方で、まだ池でザリガニを釣ったりもしていました。だから、それ以前の小学生の生活という点で、新鮮に思える部分がありました。
道尾 「それ以前の子どもの遊びや生活は、ずっと似たようなものだったと思いますね。ゲームや携帯電話の登場で変わったのはごく最近ですから。
さっきも言いましたけど、はじめは時代背景を僕が小学5年生の頃(1985年頃)に一致させようと思っていたんです。でも実は、その時まだペットボトルが全く普及していなかった。だから、3年くらいずらしたんです。ペットボトルは作中で重要な役割を果たすので。そうやって時代をずらしたことで、それで美空ひばりさんの復活コンサートとか、『9の机事件』とか、いろんなものをモチーフとして取り込めるようになった。小説って自由でいいですよね(笑)」
―道尾さんの代表作でもある『向日葵の咲かない夏』も主人公が子どもです。道尾さんの書く“子ども”は無邪気な一方ですごく繊細で残酷的であるという、人間の普遍的な部分が描かれているように思うのですが、道尾さんは“子ども”を書くということについてどうお考えですか?
道尾 「先ほど言いましたが、子どもを主人公にすると普遍的なものを書ける可能性が高まります。また、大人を主人公にするのと、子どもを主人公にする、どちらが難しいかと言うと、子どもの方が圧倒的に難しいんです。使える語彙も限られてきますし、大人だと性格というのがしっかりしているので、動かしやすいんですが、小説に出てくる子どもはしっかりと描写しないとすぐに齟齬が出てしまう。でも僕は作家なので、難しいことと簡単なこと、どっちをやりたいか聞かれたら難しいことやりたい。出来たときに得るものが格段に大きいですから。そういうのも、子どもを描く理由の1つでした」
―ご自身の子どもの頃を、出てくる子どもたちに投影されることはありますか?
道尾 「自分の経験は反映させないようにしています。『月と蟹』の慎一君も、僕とは性格から家庭環境から育った場所から、全く違いますし。僕自身は転校もしたことがないし、友達ができなくて寂しい思いをしたこともあまりないし」
■『月と蟹』に見る、子どもにとっての“神様”とは
―本作では子どもたちが「ヤドカミ様」という神様を創り出し、残酷ともいえる遊びをしますが、道尾さん自身は子どもの頃、「神様」を信じていましたか?
道尾 「うーん、どうなんだろう。信じてなかったと思いますね。いわゆるコックリさんとかはやりましたよ(笑)流行りましたから。でも、そういうことを遊びで出来るということは、信じていなかったんでしょうね。心霊写真が流行したときにもワイワイやっていたけど、それだってつまり幽霊を信じていなかったってことですからね」
―そういう風に遊ぶというのは、神様を信じていないからですね。
道尾 「子どもは既成の神様を信じる能力を持っていないですよね。だから自分たちで創るしかない。慎一君と春也君は、小学5年生だからおそらくは仏教やキリスト教は知識として知っているとは思うけど、それを信じる能力がまだない。だから、ヤドカミ様という神様を自分たちで創ったんです」
―すごく繊細ですね。
道尾 「もう少し上の年齢…小学6年生や中学1年生くらいになると、人の嫌な部分やいざこざと直面しても逃げ出すという手段が出てきますけど、小学5年生ではまだそういうことができないんですよね。だから、どうしても正面から全部受け止めてしまう。それが、神様を創って自分たちを救おうという発想につながってしまったんだと思います」
―でも、そういうことって実は子ども時代に経験しますよね。勝手に神様や世界を創って、それが1つの遊びになる。
道尾 「そうなんですよ、みんな実はやっていますね。程度の差こそあれ」
―本作はミステリーとはまた違う、“トリックが仕掛けられていないミステリー小説”…言い方がちょっと見つからないのですが、すごく「読ませる小説」という印象を受けました。こうした物語の構想にしたのは何故ですか?
道尾
「今作は正面から勝負したいという気持ちがあって、文章の瑞々しさだけで書き上げたかったんです。もし、この作品の中にミステリーの仕掛けを入れろと言われたら、1日くらいあればトリックなんて考えつきますし、1週間あればそれに沿って改稿もできてしまいます。非常に簡単なんです。でも、『月と蟹』でそれをやってしまうと、物語が崩れて台無しになってしまう。
僕は解釈の仕方がたくさんある作品を書きたいと思っているのですが、ミステリーという型を使うと、いわゆる真相というのがあってそれ以外に結末がなくなってしまうんです。そうじゃないミステリーも中にはありますし、『向日葵の咲かない夏』や『ラットマン』もそうじゃないつもりなんですが、ある程度の枠はどうしても決まってしまいます。でも、この手の小説は年代、性別、家庭環境などによって読み方が変わってきますから、書き甲斐もありますよね。読み手の中に余韻が深く残る作品であって欲しいです」
―道尾さんは小説を執筆するにあたり、ご自身で一貫したメッセージはあるのでしょうか。
道尾 「一貫して書きたいと思っているのは、“救い”です。その具体的な書き方は毎回違いますし、とても難しいことなんですけどね。読者を突き放して物語を終わらすというのはとても簡単なんですが、その真逆、つまり救いを描くことはすごく難しい。でも、これまでもそれは意識してきたし、これからも変わらないですね」
―先ほど道尾さんは色んな解釈の仕方がある小説を書きたいとおっしゃいましたが、その解釈の仕方を読み手に委ねて、その読み手がそれぞれの救いを物語から得るということですか?
道尾 「僕が出来ることは、登場人物たちにとっての救いを書くこと、ただそれだけです。それを読んで救いを感じてもらえれば有り難いですし、小説ってそういうものでしょう」
■ “人間失格”をきっかけに作家の道へ
―道尾さんが作家になろうとしたきっかけを教えて頂けますでしょうか。
道尾 「あちこちで同じことを喋っていますが、きっかけは太宰治の『人間失格』ですね。初めて読んだとき、文章ででしか出来ないことがあるんだって、本当にびっくりしたんですよ。そのとき初めて、小説というものに興味を持ったんです」
―その前はバンドをされていたそうですけど、自分で創作するということが好きなのですか?
道尾 「いくら大好きなミュージシャンでも、“もっとこうしたらいいのに”って思いますよね、曲を聞いてると。だから自分で、下手くそなりに弾いて、新しく作ってみたりする(笑)。小説も同じです」
―『人間失格』のほかに衝撃を受けた読書体験はありましたか?
道尾 「次は都筑道夫さんの『怪奇小説という題名の怪奇小説』かな。わけの分からないストーリーなんだけど、小説としては完璧に成立しているというすごい作品です。作家になってからは、自分で書いたほうが楽しいから、あんまり人の作品は読まなくなりました」
―では、道尾さんが最近読んだ本で面白いと思った本がありますか?
道尾 「子供の頃に絵本というものを読んだことがなくて、最近になって興味を持って読んでいるんですが、良かったのは『モチモチの木』ですね。何処の本屋行っても売っている有名な絵本ですけど、読んだことがなかったもので。絵本って余計なことが何も書いていないから、いいですね」
―道尾さんが「座右の銘」としている言葉を教えて頂けますか?
道尾
「そうだな…“事実は小説より奇なり”ですね。現実ってやっぱり面白いんですよ。こういう風に人と話していても面白いし、色んなことが起きる。
作家さんの中には“事実は小説より奇なり”は一番嫌いな言葉だという言う方もいらっしゃいます。でも、物語が現実を超えるときっていうのは、作家が現実の面白さをしっかりと認識したときだと思うんですね。現実に対して強烈な興味や欲求を持っていないと、書いた作品はどうしても薄っぺらくなってしまう。そういうのが好きな書き手も読み手もいますけど、僕はまったく興味を持てません
」
―今後、道尾さんが挑戦したいことはありますか?
道尾 「毎回、そのとき自分自身でこんな本があったらいいな、こんな小説があったら読みたいなと思うものを書いているんです。それだけ聞くと、なにやらじつに好き放題やっているように思えるかも知れませんけど、自分の読みたいものって、自分以外に判定する人がいない、つまり相手がいないから、実はとても誤魔化しがききやすいんですよ。“そうそう、こんなのが読みたかったんだよ!”と思うのはすごく簡単なんです。だから“本当はもっと高いものが読みたかったんじゃないのか?”と自分に問いかける作業が必ず必要になる。それは今後も忘れないでいきたいですね。挑戦っていうと、そのくらいかな」
―では、『月と蟹』の読者の皆さんにメッセージをお願い致します。
道尾 「『月と蟹』は僕の出来ることを全て詰めた長編小説です。内容としては、いろいろな人に楽しんでもらえるのではないかと思っています。この作品に登場する人物は特殊な境遇の人々ではなく、誰にでも覚えのあるところで悩んで、葛藤して、泣いて、笑っている。だから、自分の過去と重ねて読んで頂いてもいいですし、彼らの物語そのものを楽しんでもらってもいいです。いろいろな読み方をしてください」
■ 取材後記
インタビュー終了後に盛り上がったのが、道尾さんが好きだという劇団「ナイロン100℃」のお話。実は私、金井もファンでよく観に行くため、話を切り出してみたのだ。そんな「ナイロン100℃」の劇である『わが闇』に「大切なのは、この人達が、これから先も生きていったってこと―。」という台詞が出てくる。そう、『月と蟹』という舞台は幕を閉じるけれど、登場人物たちはみんな、そのあとも生きていくのだ。
それについて、道尾さんは「彼らがどうなったかは、読み手の中で決めてもらえればいいですね」とおっしゃっていました。是非、『月と蟹』を最後まで読んで、その後のストーリーを余韻として想像して楽しんでみてはいかがだろう。道尾さん、ありがとうございました!
(新刊JP編集部/金井元貴)
道尾 秀介さんが選ぶ3冊 |
|||||||
『人間失格』 |
『モチモチの木』 |
■道尾秀介さん
1975年生まれ。2004年に『背の眼』でデビュー。2007年『シャドウ』で第7回本格ミステリ大賞受賞。2009年『カラスの親指』で第62回日本推理作家協会賞受賞。今年に入ってからは『龍神の雨』で第12回大藪春彦賞、『光媒の花』で第23 回山本周 五郎賞を受賞。今最も注目されている作家だ。
解説
小学5年生の慎一と春也は、ヤドカリを神様に見立てて「ヤドカミ様」という遊びを考え出す。その遊びは、いつしか彼らの周りにいる大人たち、そし て自分たち自身にも刃を向けていく―。1980年代終わりの鎌倉を舞台に描かれた、今、最も注目を集める作家・道尾秀介の最新長編。
■インタビューアーカイブ■
第81回 住野よるさん
第80回 高野秀行さん
第79回 三崎亜記さん
第78回 青木淳悟さん
第77回 絲山秋子さん
第76回 月村了衛さん
第75回 川村元気さん
第74回 斎藤惇夫さん
第73回 姜尚中さん
第72回 葉室麟さん
第71回 上野誠さん
第70回 馳星周さん
第69回 小野正嗣さん
第68回 堤未果さん
第67回 田中慎弥さん
第66回 山田真哉さん
第65回 唯川恵さん
第64回 上田岳弘さん
第63回 平野啓一郎さん
第62回 坂口恭平さん
第61回 山田宗樹さん
第60回 中村航さん
第59回 和田竜さん
第58回 田中兆子さん
第57回 湊かなえさん
第56回 小山田浩子さん
第55回 藤岡陽子さん
第54回 沢村凛さん
第53回 京極夏彦さん
第52回 ヒクソン グレイシーさん
第51回 近藤史恵さん
第50回 三田紀房さん
第49回 窪美澄さん
第48回 宮内悠介さん
第47回 種村有菜さん
第46回 福岡伸一さん
第45回 池井戸潤さん
第44回 あざの耕平さん
第43回 綿矢りささん
第42回 穂村弘さん,山田航さん
第41回 夢枕 獏さん
第40回 古川 日出男さん
第39回 クリス 岡崎さん
第38回 西崎 憲さん
第37回 諏訪 哲史さん
第36回 三上 延さん
第35回 吉田 修一さん
第34回 仁木 英之さん
第33回 樋口 有介さん
第32回 乾 ルカさん
第31回 高野 和明さん
第30回 北村 薫さん
第29回 平山 夢明さん
第28回 美月 あきこさん
第27回 桜庭 一樹さん
第26回 宮下 奈都さん
第25回 藤田 宜永さん
第24回 佐々木 常夫さん
第23回 宮部 みゆきさん
第22回 道尾 秀介さん
第21回 渡辺 淳一さん
第20回 原田 マハさん
第19回 星野 智幸さん
第18回 中島京子さん
第17回 さいとう・たかをさん
第16回 武田双雲さん
第15回 斉藤英治さん
第14回 林望さん
第13回 三浦しをんさん
第12回 山本敏行さん
第11回 神永正博さん
第10回 岩崎夏海さん
第9回 明橋大二さん
第8回 白川博司さん
第7回 長谷川和廣さん
第6回 原紗央莉さん
第5回 本田直之さん
第4回 はまち。さん
第3回 川上徹也さん
第2回 石田衣良さん
第1回 池田千恵さん