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半七が暴く江戸の闇
岡本綺堂の御養嗣子で、平成二十二年十一月十五日に百一歳で亡くなられた岡本経一氏(以
下、翁)に、『半七捕物帳』を高座に掛けさせていただくお許しを願いに本郷の青蛙房に伺ったのは、今から二十数年前の秋でした。翁はそれこそ、シリーズ第一作「お文の魂」の結び近くの“半七は七十を三つ越したとか云っていたが、まだ元気の好い、不思議なくらいに水々しいお爺さんであった”……を思わせました。以前より青蛙房には噺家全集、江戸に関する書籍を求めに行っていた私は、翁を拝見すれば短い挨拶ですませていましたが、半七を噺に、という想いがいよいよ昂じて、菓子折を持って改めて御挨拶に伺ったのでした。
翁は開口一番「ほうー、半七を噺に……お若いのに珍しい……」(シリーズの「半鐘の怪」を先代林家正蔵師匠が口演したのは六十代)。このとき私は四十過ぎで、「お若いのに」という言葉に戸惑いを覚えました。もっとも噺家は四十・五十はまだまだ、六十・七十で上手、八十で名人、九十で臨終というのが理想の世界だから、それを踏まえてのジョークかと思ったが、どうもそうではないらしい。「お若いお前さんに、半七は無理だから、お止しなさい」という諭しかと思い、昂ぶる気持ちが萎えていくのを感じました。
ところが翁は「半七はわりと陰惨な事件が多いので、若いあなたはそういうものを避けて、比較的おだやかな作品をお演りになったらいいでしょう」と仰った。これは嬉しかった。許可と同時に作品の選択の助言までして下さったのだ。「おだやかな作品……」私は腹の内でほくそ笑んだ。というのは、かねてより半七の「その一」の噺は「奥女中」と決めていたからだ。
この作品は殺人もない物語で、生まれも境遇も違う三人の女が登場するが、わずかなセリフで町娘、奥女中、毒婦がくっきりと浮かび上がってくる。半七の受け答えも、町娘にはさっくりと、奥女中には敬い言葉で、毒婦には伝法に。半七の無駄のない見事な江戸弁は、全作品に宝石のように散りばめられていますが、個人的にはこの作品の江戸弁に魅せられました。
後日、「奥女中」の高座のテープを翁に聴いてもらい、ご批評を仰いだところ、「活字は何度も読み返すことができるが、噺は一遍きりなので、なるべく地の部分(状況説明)を少なくして、会話で筋を運ぶようにした方がいいでしょう。それからあまり原作にこだわらずに、自分の解釈で好きなよう脚色してもいいのですよ」と仰って下すったが、私の頭では、到底それはできない助言でした(今にして思うと翁は、小説[原作]を小説どおりに噺にしたところで、しょせん敵うわけはなく、小説に触れたという形を取って、あとは自分の世界を構築しなさい、ということだったかも知れない)。
それから話は江戸の岡っ引の生地になり、「ほとんどの岡っ引は十手をちらつかせて醜聞を嗅ぎつけ、堅気の町人から金銭をいたぶるという質のよくない輩で、半七のように御用をかさに着て弱い者いじめなど、けっしてしない岡っ引は小説の上でのことです」という身になる話を聞かせてくれ、さらに綺堂が弟子に叱言を言うときは少し半身になり伝法な早口でまくしたてたという。「あれは、半七の稽古をしていたのかもしれないなぁ」という貴重な逸話を披露して下さった。
さて、綺堂と噺の接点だが、『綺堂劇談』(昭和三十一年二月青蛙房より発行)によると、綺堂が十三、四歳のころ、圓朝の「怪談牡丹燈籠」を聴きに行った件くだりがあります。 「“お前、怪談を聴きに行くのかえ”と母は嚇すよう云った。“なに、牡丹燈籠なんか怖くありませんよ”速記の活版本で多寡をくくっていた私は、平気で威張って出行った。ところが、いけない」
ここで綺堂少年は大いにおびやかされて、暗い雨の降る夜道を逃げるように帰っています。綺堂は明治十七、八年ころ発行の圓朝口演、若林かん蔵速記の『怪談牡丹燈籠』を読んで圓朝の高座に臨んだのであるが、速記本ではさほど怖いと思わず、どうしてこの話がそんなに有名なのかと不思議がっている。だが、圓朝の話が進むにつれて、「周囲に大勢の聴衆がぎっしりと詰めかけているのにも拘らず、私はこの話しの舞台となっている根津のあたりの暗い小さな古家のなかに座って、自分ひとりで怪談を聴かされているように想われて、ときどきに左右を見返った」とあります。
高座に臨んだのであるが、速記本ではさほど怖いと思わず、どうしてこの話がそんなに有名なのかと不思議がっている。だが、圓朝の話が進むにつれて、「周囲に大勢の聴衆がぎっしりと詰めかけているのにも拘らず、私はこの話しの舞台となっている根津のあたりの暗い小さな古家のなかに座って、自分ひとりで怪談を聴かされているように想われて、ときどきに左右を見返った」とあります。
圓朝の怪談は旧来の因果応報、仇討(「牡丹燈籠」もベースは仇討の物語)を扱った作品が目立ちます。綺堂は十二、三歳で圓朝の名人芸の妙を覚ったが、珠玉の怪談集『青蛙堂鬼談』には圓朝の存在は薄い。綺堂が生まれたのは、江戸そのままの武家屋敷で、次に引っ越したところは、化物屋敷で有名な家でした。綺堂はいつも江戸の怪異を隣にして育ったのであるから、江戸の因縁因果を語るのかと思うと、けっしてそうはしない。
『三浦老人昔話』の「置いてけ堀」という怪談は、本所の置いてけ堀へ、内職の釣りに出かけた御家人が、鈎にかかった油じみた女の黄楊げの櫛
に崇られて、怪しい体験をするという筋ですが、どこへでもついてくる「置いてけえ」という不気味な声、捨てても捨てても、いつの間にか出現する櫛、その因果関係はどうなっているのか? 三浦老人はわからないと言っています。その方が本筋の怪談だとも言っている。綺堂の怪談は怪の不思議さ、怖さをいっさい説明しない作品が多い。その方が不気味さの余韻が漂って余計に怖い。読後に自分なりの解釈を付けるというのも、綺堂作品の楽しみ方の一つだと私は思っています。
半七の怪談仕立ての作品で、私は「奥女中」「春の雪解」「一つ目小僧」を高座に掛けたが、芝居好きにはたまらないのが、「春の雪解」でしょう。「あなたはお芝居が好きだから、河内山の狂言を御存知でしょう。三千歳の花魁が入谷の寮へ出養生をしていると、そこへ直侍が忍んで来る。あの清元の外題はなんと云いましたっけね。そう、忍逢春雪解。わたくしはあの狂言を看るたんびに、いつも思い出すことがあるんですよ」と始まるこの作品は同じく花魁が出養生として出向くのも同じ入谷、話のカギとなる人物も按摩師でございます。そしてその結びはこうです。「事実はかの直侍と三千歳との単純な情話よりも、もっと深い恐ろしいもののように思われてならない」と。
それではシャアロック・ホームズの頭脳と、フィリップ・マーロウの“しっかりしていなかったら、生きていられない。やさくしなれなかったら、生きている資格がない”を胸に秘めた半七が暴く「江戸の闇」にご案内いたしましょう。
〔半七先生〕 弟子に厳しく「雷師匠」と恐れられている手習師匠に、ひどく叱られた十三歳のお直が、朋輩のお力と稽古帰りの途中、姿を消した。事件は年に二度の大清書、七月の七夕祭りに起きたが、お直の書いた清書草紙から彼女の軟禁場所を突き止めた半七の眼力は鋭い。この作品に接する度に、倅が小学校三年生の頃を思い出す。倅が漢字の書き取りで、鉛筆の芯と、何事も起きません。再び姉のを着て出ると襲ってくる。これを繰り返すこと五回、ついに町子さんは「ニワトリはキモノの色を見分ける」という結論に達します。大森の鶏は、お六の亭主の安蔵が死ぬ前に仕入れた番いで、お六を見ると飛びかかりそうになる。気持ちが悪いので農家の者に売ったのが、はからずも休み茶屋でめぐり逢ったという訳だった。長谷川町子さんの研究発表から、鶏は旧主人の仇を討とうとしたと、私は思いたい。
〔唐人飴〕 新歌舞伎の劇作家として綺堂の名声は高いが、ここでは「国姓爺合戦」が過不足なく組み込まれています。青山の羅生門横町で唐人飴衣装の片腕を初めに見つけたのは、常磐津の師匠文宇吉だったが、こいつが「男女」(レズ)で、若い女役者をたぶらかし関係を付け、弄んだ獲物にいい人(男)が出来ると、これを嫉妬して同性愛の相手を絞め殺すという鵺のような女。噺に出てくる遊芸の女の師匠は、町内のアイドル的な存在で野郎どもはあわよくば師匠をころがして食っちまおうという「アワヨカ連」ばかりで楽しいが、何かの間違えで文字吉のような師匠に付いたら怖い。だから私の常磐津の師匠は男です。
〔青山の仇討〕 「忠臣蔵」を例にとるまでもなく、忠臣・孝子・孝女の仇討は美談として、日本の伝統芸能に深く根付いているが、この作品は美名を隠れ蓑にした汚れたもので、苔を被った味わいのある石燈籠の下に、ウジャウジャと地虫が這っているような……、気味の悪さをさある「木魚」の中から女文字で「十五や御ようじん」という結び文を半七が見つける。罪を犯した男女と婆さんの三人は、九州「長崎」に縁が深かった。死屍、謎の文、犯罪者の過去、今も変らぬミステリーの定法を踏えて、しかも江戸が味わえる、綺堂ならではの作品です。
〔吉良の脇指〕 半七老人も言っているが、この仇討は「青山の仇討」のような、怪しいものではありません。黒船防禦のため、幕府は品川沖にお台場を築くことになる。工事の人足の手間賃は一日一朱。その支払いのための新しい一朱銀を発行しました。江戸がそろそろキナ臭くなってきた時代を背景に、仇討を作品のベースにしたのは、綺堂の旧き良き江戸への郷愁ではないでしょうか。
〔弁天娘〕 昭和三十年代ごろだったか、「桃色遊戯」なる言葉が流行りました。これは思春期の男女の性交渉手前の戯れを指しましたが、こっちは容貌はいいが二十六、七になるまで生娘で、弁天娘と綽名されている質屋のひとり娘が、十六になる美しい小僧と出来ちまう。二人の障子ごしの桃色遊戯で、小僧は「わたしは店のお此さん(娘の名)に殺された」という言葉を残して謎の死をとげる。昨年十二月、立川談志師匠のお別れ会で、石原慎太郎氏が弔辞を述べていましたが、もし何かの機会があって石原先生にお目にかかった折、「先生の『太陽の季節』の障子の件は、綺堂の『弁天娘』からヒントを得たのですか?」と聞いたら、氏は目をパチゝ