第53回目となる今回は、小説家・京極夏彦さんが登場です!
京極さんの新シリーズ『書楼弔堂 破暁』(集英社/刊)は明治20年代の東京を舞台に、古今東西の書物が集う“弔堂”にやってくる文人や軍人らと、膨大な知識量を持ちながら何か過去を持つ主人のやりとりを描く、本をめぐる連作短編集。京極さんの別の小説シリーズと交わる部分もあり、ファンは必読の一冊です。
さらに「書店とは何か」「本を読むこととはどういうことか」といったテーマも物語に重なるなど、読みどころの多い本作について、インタビューをしました!
■ 出版のシステムは古くからある不変のものではない
― ついに『小説すばる』で連載されていた新シリーズ『書楼弔堂』が単行本化しました。
京極 「そうですね。最初は新シリーズにするつもりはなかったのですが、結果的に新シリーズになりました(笑)」
― 物語の時代背景が明治25年から26年頃、ちょうど明治時代の中頃に設定されています。この時代を選んだ理由は?
京極
「ちょうどこの頃、出版業界は大きな転換期にあったんです。今は本屋さんは本を売るところだし、出版社は本を作る会社ですが、当時はそうではなかった。書店の組合ができたのも明治二十年代ですし、新刊書の小売と版元が分かれ、取次と書店が分離して、現在のシステムが整いました。製造・販売・流通の仕組みが分離して、整理された時期なんですね。
それまでは、庶民にとって本は買うものではなくて借りるものでした。お坊さんや学者などのような一部の人たちを除いて、本を個人で所有することは少なかった。ふらっと立ち寄った書店で面白そうな本を買うなんてことはなかったし、通勤通学の途中に本を読むなんて文化は、まったくといっていいほどなかったわけです。でも現在、私たちは、本は手軽に買えて普通に読めるものだと思っているんですが」
― もうそれが当たり前の文化として育ってきたので。
京極 「生まれたときからそうですからね。また、古書店と新刊書店もまったく違うものだと思っていませんか?」
― そうですね。違うものという感覚です。
京極
「大量の新刊が全国で一斉に発売され、それが大勢に買われ、それが定期的に繰り返されるという仕組みがなければ、古書も新刊もない。単に発行年が違うというだけですし、個人が“所有する”ということがなければ、ユーズドという概念は生まれません。レンタルDVDを古DVDと呼ぶことはありませんよね。市場に出ればユーズドですが。古書店というのはこの明治20年代の大きな転換を経てでき上がった業態で、江戸時代にはなかったんです。『書楼弔堂』はその移行期が舞台です。
出版不況といわれて久しいですし、業界自体がいろいろと揺れていますが、そもそも今のシステムが当たり前かつ盤石なものかというと、そうじゃないんですよ。今のシステムが伝統的に続いてきた不変のものだというのは誤った認識です。常にその時代のニーズに合わせて、送り手がいろいろと工夫を凝らした結果、今の形になったに過ぎない。合わなくなったら変えればいいんだと思いますが」
― その大きなテーマをこの『書楼弔堂』という小説を通して描こうとした。
京極 「研究書や新書ではないので、そういうテーマ性のようなものはありません。あくまで小説なので、面白ければいいという程度のものです。読者は現代人ですから、時代による認識の差を面白く読んでいただければ」
― 確かにこの物語は、明治20年代を舞台にしながらも現代的なテーマを内包しているように思いました。情報の接し方、本の読み方など、弔堂の主人の言葉がすごく胸に突き刺さるものがあって、なぜ自分は本を読むのだろうという疑問と対峙しながらページをめくる感覚がありました。 この書楼弔堂という奇妙な書店のモチーフはあるのですか?
京極 「あんな建物はないですね。作中には丸善さんや東京堂さんのように実在する書店も出てくるのですが、僕は明治時代から生きているわけではないので(笑)そちらも想像です。そもそも、この弔堂が東京のどこにあるのかも僕は知らないです」
― そうなんですよね。まったく書いていない。
京極 「作中でも、実在してるかどうか怪しいですね。3階建てと書いてありますが、主人と小僧以外階上には上がっていないし、その主人も小僧も人間っぽくない(笑)。作者が存在に自信が持てないくらいですから、モデルはないです」
― 弔堂は読めば読むほど不思議な書店というか、どれだけ本があるんだという気がしました。
京極 「だいたい僕の小説には、たくさん本を持っている人が出て来るんですね。なぜだかわからないけれど(笑)」
― それは、京極さんご自身が本をたくさん持っていらっしゃるからじゃないですか?
京極 「そんなつもりはないんですが。ただ、本というのは不思議なもので、一般に嫌われている黒光りする虫と同じように、1冊見つかったら30冊はあると思った方がいいですよ。『俺、本なんて1冊しか持ってないよ』という人も、家捜ししてみてください。きっと30冊はあります。「本は読まない」と断言している方も、必ず家のどっかに本はあります。それは認めたほうがいい(笑)。そして、本のある生活と向き合いましょう」
■ 『書楼弔堂』は「視点を空欄」にした小説
― この『書楼弔堂』という小説は「高遠」という、妻子を実家に置いてきて働きもせずにふらふらしている男の視点――というか、「高遠」の存在が中央にいて物語が進んでいきます。ただ、最後の章はその「高遠」が中心になるものの、それ以外の章においては、「高遠」がいてもいなくてもどちらでもよい存在のように思えたんですね。「高遠」がいなくても物語は成立してしまう。
京極
「高遠という人は“要らない人”ですね(笑)。全く世のため人のための役に立っていない。
明治というのは激動の時代といわれます。明治を舞台にする物語の多くは、時代立ち向かう英雄や、新たな時代を切り開いていこうとする偉人を中心に描かれることが多いんですが、別にそういうヒーローばかりがいたわけじゃない。いつの時代もそうですが、ぼーっとした人やびくびくした人や迷ってる人や、そういうグダグダな人の方が圧倒的に多かったはずです。明治維新があって、近代国家の礎が築かれていくなかで、じゃあ庶民は何をしていたのかというと、ほとんどの人は、“起きて、食って、仕事して、寝て”いたんですね。自由民権も四民平等も、とても大事なことです。ただ、四民平等になっても豆腐屋さんは変わらずに毎日豆腐を作っていたわけで、日常生活に何も変わりはない。じゃあそういう人達は時代の転換に一切寄与していないのかというと、決してそんなことはないんですね。世の中というのはひと握りの人がぐいぐい変えられるようなものじゃない。そういう風に見えるだけで、実はその他大勢が受け入れてくれるかどうかの方が大きいと思う。ドラスティックな転換というのは頭の中で起きるものでしかなくて、実はソフトランディングに変わっていくものだろうと思います。そうすると、明治時代にもいい歳をして働かず、妻子とも一緒に住まずにぶらぶらしている、いわゆる“ダメな人”もいたはずですね。こういう人が本を読んでも何の役にも立たないわけですが(笑)、実は読書というのはそういうもんなのではないかと。読んで役に立つとか、人生が変わるとか、そんなことはない。本は読んで面白ければいいもんだと思うんです。本って基本的に役に立たないものですから。役に立つのはマニュアルくらいのものですよ。
弔堂の主人は、訪れる客に対して一冊の本を渡しますけれど、それはその人を更生させようとしているのではなくて、その人の人生を後押ししてるだけなんですね」
― 確かにそうですね。その人とは逆の本を渡しません。
京極 「ダメな人には、ダメっぷりを後押しする本を渡してますし。高遠はいろいろ悩んでいるようなんですが、あれは悩むフリをして自己正当化を図っているだけで、まさに下手の考えなんとやら、ですね。人生に決断は必要ですが、結論は必要ない。ものごとには結果がありますが、人生は終わるまで結果なんか出ない。人は死ぬまで未完です。同時に、人は簡単には変わらないし、成長もしません。なら悶々としているより、ダメな部分を含めて自分なんだと知ることの方が有意義ですね。高遠もまったく成長しないですから」
― 最後に少しだけ成長をうかがえる部分があるようにも見えましたが…。
京極 「どうでしょうか。むしろ退化しているんじゃないかという気もします」
― この連作短編が「未完」という章タイトルで終わるのも、とても印象的でした。終わらせないというか、終わりがないというか。
京極 「そうですね。エンドマークが出るのは小説やドラマだけです。私たちの住む世界は終わりません。人は何かと節目や折り目をつけたがりますけど、例えば誕生日を迎えたからといって、翌日から新しい人生が始まるわけではないですね。目が覚めればいつもと同じ一日です。生まれ変ったような気になるのは良いことでしょうが、生まれ変りたいと願うのは、ない物ねだりです」
― 短編それぞれの章の最後が「誰も知らない」という言葉で締めくくられているのは、京極さんがリアリティを突き詰めていった結果なのでしょうか。
京極
「それは、僕が知らないからです(笑)。なら誰も知らないはずです、その後のことは。
それから、あまり指摘されないんですが、実はこの小説、厳密ではないものの一人称がないんです。『私は』『僕は』を使ってない。でも三人称一視点でもない。視点を空欄にする感じで書いてみたかったんですね。高遠がぼやっとした人というのもあるんですが、内的言語では『オレ』は省略されるはずで、読者が視点人物の空席にはまるような感じは出せないかなと」
― 「視点を空欄にする」というのは、すごい発想です。
京極 「これは娯楽小説なので徹底してやっているわけではないのですが、試みとしてはありかなと思ったもので」
■ 京極ファン必読!? あの2つの人気小説シリーズが…
― 「未完」の章では、京極さんの小説のファンの皆さんが喜ぶ展開が待っていますね。
京極 「喜ぶというか、怒るというか」
― 少しインターネットで読者の感想を見たのですが、怒っている声は見られませんでしたよ(笑)
京極
「僕がちらっと耳にしたのは、“あそこ”に連れていった猫が、他のシリーズに出てくる猫の先祖なんじゃないかという推理ですね。でも、それはないです(笑)。あれはもらってきたと書いてありますし。
もろもろの設定は最初からから決めていたもので、この作品のために創った設定ではありません。まさかこの作品で言及することになるとは思わなかったですが」
― なるほど。でも、一つ結びつくと他にも何かあるんじゃないかと探してしまいますね。
京極 「世界観の共有は僕の他の作品間にもあって、特に『百鬼夜行』シリーズと『巷説百物語』シリーズなんかには顕著なんですが、ただこの2作品の時代設定は100年以上空いているので、登場人物が直接重なることはありません。『書楼弔堂』の時代はちょうどこの2作品の中間になります。それなら、誰か出さない方がかえって不自然ではないかと。小説の中では虚実の差はありません。虚構の人物も作中では実在していますし、実在の人物も作中では虚構です」
― このベストセラーズ・インタビューでは毎回同じ質問をしていて、人生に影響を与えた3冊の本を選んでいただいています。京極さんはいかがですか?
京極
「これは……選べないですね! 影響を受けた本というと、全ての本に影響を受けていますから。甲乙つけられないです。どちらが面白いですか? と聞かれても、面白い部分が違うだけで、どの本も面白いと思いますし。人によって好き嫌いはあるのかもしれないけれど、僕はまったく好き嫌いがないですし。面白さは数値化できませんから、その手のランキングって僕はまったく受け付けないんですね。人気投票とか売り上げ順位とか、そういうことならわかりますけど、ならその順位は『読書の楽しみ』にとってあまり意味のあるものではないです。
本は楽しんで読むものです。本は全部面白いので、読んで下さい。面白さを感じられなくても諦めないでください。いつか必ず当たります。ライトノベルでも、マンガでも、字を読むのがどうしても嫌ならば、オーディオブックでもいい。本に貴賎はありません。読んで面白がるというのが、本に対する本当の接し方だと思います。
なんでもいいから、自分以外の人が発信した何かを受け取って、それを楽しむ力がつけば人生も豊かになります。『書楼弔堂』の主人もそんなことを言ってますし」
― この『書楼弔堂』はこの「破暁(はぎょう)」で終わりではないんですよね?
京極 「そうなんですね。連載が進んで書籍化が見えてきた段階で、版元に『これどうするの?』と聞いたんですが、『続けてくれ』と言われてしまって。続けるのなら弔堂の主人を殺すこともできないかなと(笑)」
― え、主人が死んでしまうシナリオがあったんですか!?
京極 「いや、面白くないから終わりにしましょうと言われたら、もう続きはないわけですから、弔堂を火事にしてしまうとか、なんでもできたんですけど。続けるならプランを立てないといけないですし。僕は1冊ずつ独立して作るたちで、“1巻、2巻”という書き方ができないので、今回は“破暁”という タイトルでまとめました。これは、夜から急に朝になる瞬間のことですね。一瞬にして明るくなるあのタイミングです。朝が来たので次は昼です。そうなると夕方とか夜とかもないと収まりが悪いんですが、いずれ再開すると思います。ただ“破暁”はもうまとまってしまったので、高遠はもう出てきません。次は女性の視点人物を予定しています」
― それは気になっていました。「未完」の章の終わり方から、どうつないでいくのだろう、と。
京極 「まあ『誰も知らない。』という終わり方なのに、続編に高遠がひょっこり出てきたら、お前知ってたんじゃん!となりますからね」
― 高遠は何をしているんでしょうね。
京極 「さあ。何をしているんでしょうね。それは、誰も知らない(笑)」
■ 取材後記
このインタビューは11月29日、京極さんが所属する大沢オフィスの朗読会イベント「リーディングカンパニー」のリハーサルの際に、楽屋にお邪魔して行わせていただきました。翌日に大きなイベントを控えているという大変お忙しいなかでも、新シリーズ『書楼弔堂』について、出版業界のことについて、「本を読む」ということについて、いろいろなことを語っていただきました。
インタビューの最中にも新しい発見の連続だったのですが、この『書楼弔堂』、さらにいろいろな仕掛けがありそうです。けれども、本を読むということは同じ。まずはページをめくって、その物語の世界にどっぷり浸かってみましょう。まずは細かいことを考えずに、本を楽しむこと、それが私たち読者に与えられた最大の特権なのですから。
(新刊JP編集部/金井元貴)
■京極夏彦さん
世界妖怪協会、全日本妖怪推進委員会肝煎。古典遊戯研究会紙舞会員。お化け大學校・水木しげる学部教授。1963年北海道小樽市出身。1994年『姑獲鳥の夏』刊行。1996年『魍魎の匣』第四九回日本推理作家協会賞長編部門受賞。1997年『嗤う伊右衛門』第二五回泉鏡花賞受賞。2003年『覘き小平次』第一六回山本周五郎賞受賞。2004年『後巷説百物語』第一三〇回直木三十五賞受賞。2011年『西巷説百物語』第二四回柴田錬三郎賞受賞
大極宮
http://www.osawa-office.co.jp/index.html
電子書籍でも発売!
http://www.shueisha.co.jp/tomuraidou/
あらすじ
明治20年代、東京の郊外に佇む「書楼弔堂」。そこは古今東西の書物が集う“書の墓場”。一人、日々を無為に過ごす高遠は、そんな異様な書舗の中と出会い、物語は始まる。晩年の月岡芳年や若かりし頃の泉鏡花、後に妖怪博士として名を馳せる井上円了、児童文学の扉を開いた巌谷小波などが登場。時代の大きな変わり目の中で、迷える人々が“書”を求める――。
どうして私たちは本を読むのか? 本とはどういうものなのか? 本と読者のつながりを描く、京極夏彦の新シリーズがついに始まる。
■インタビューアーカイブ■
第81回 住野よるさん
第80回 高野秀行さん
第79回 三崎亜記さん
第78回 青木淳悟さん
第77回 絲山秋子さん
第76回 月村了衛さん
第75回 川村元気さん
第74回 斎藤惇夫さん
第73回 姜尚中さん
第72回 葉室麟さん
第71回 上野誠さん
第70回 馳星周さん
第69回 小野正嗣さん
第68回 堤未果さん
第67回 田中慎弥さん
第66回 山田真哉さん
第65回 唯川恵さん
第64回 上田岳弘さん
第63回 平野啓一郎さん
第62回 坂口恭平さん
第61回 山田宗樹さん
第60回 中村航さん
第59回 和田竜さん
第58回 田中兆子さん
第57回 湊かなえさん
第56回 小山田浩子さん
第55回 藤岡陽子さん
第54回 沢村凛さん
第53回 京極夏彦さん
第52回 ヒクソン グレイシーさん
第51回 近藤史恵さん
第50回 三田紀房さん
第49回 窪美澄さん
第48回 宮内悠介さん
第47回 種村有菜さん
第46回 福岡伸一さん
第45回 池井戸潤さん
第44回 あざの耕平さん
第43回 綿矢りささん
第42回 穂村弘さん,山田航さん
第41回 夢枕 獏さん
第40回 古川 日出男さん
第39回 クリス 岡崎さん
第38回 西崎 憲さん
第37回 諏訪 哲史さん
第36回 三上 延さん
第35回 吉田 修一さん
第34回 仁木 英之さん
第33回 樋口 有介さん
第32回 乾 ルカさん
第31回 高野 和明さん
第30回 北村 薫さん
第29回 平山 夢明さん
第28回 美月 あきこさん
第27回 桜庭 一樹さん
第26回 宮下 奈都さん
第25回 藤田 宜永さん
第24回 佐々木 常夫さん
第23回 宮部 みゆきさん
第22回 道尾 秀介さん
第21回 渡辺 淳一さん
第20回 原田 マハさん
第19回 星野 智幸さん
第18回 中島京子さん
第17回 さいとう・たかをさん
第16回 武田双雲さん
第15回 斉藤英治さん
第14回 林望さん
第13回 三浦しをんさん
第12回 山本敏行さん
第11回 神永正博さん
第10回 岩崎夏海さん
第9回 明橋大二さん
第8回 白川博司さん
第7回 長谷川和廣さん
第6回 原紗央莉さん
第5回 本田直之さん
第4回 はまち。さん
第3回 川上徹也さん
第2回 石田衣良さん
第1回 池田千恵さん