第51回目の今回は、新刊『キアズマ』を刊行した近藤史恵さんです。
『キアズマ』は人気シリーズ、「サクリファイス」シリーズの最新刊ですが、これまでの作品とは違い、舞台は大学の自転車部。作風も変わり、近藤作品の新しい魅力を感じることができます。
この変化も含めて、『キアズマ』はどのように書きあげられたのか。近藤さんにお話を伺いました。
■ 「取材をすると書く時に邪念が入る」
― 『キアズマ』は近藤さんの「サクリファイス」シリーズの最新作ですが、自転車ロードレースを題材にしながらも、舞台は大学の自転車部となっています。このシリーズでは、これまでプロのロードレースチームが中心に据えられてきましたが、今回学生スポーツを扱った理由は何だったのでしょうか。
近藤さん(以下敬称略) 「これまでの3作は日本のプロとヨーロッパのプロを書いてきたんですけど、私自身がロードレースのファンで楽しく書いているせいか、書く時についミーハーな心が出てしまうところがあって、もう少し読者の方が自分の身に引き寄せて、主人公を身近に感じてもらえる話が書けたらいいなと思っていました。それを踏まえて実業団か大学かっていうのを考えたんですけど、大学の自転車部なら入学後にいきなり始めることに無理がないんですよね。競技経験のない人が大学から始めるっていうのはおもしろいと思いました」
― 執筆にあたって、大学の自転車部に取材などをされたりはしましたか?
近藤
「取材はしませんでした。というのは、取材をするとお話を伺った人に気をつかってしまって、書く時に邪念が入るので、事前に取材などで人間関係を作るのが好きじゃないんです。だから取材はしませんでしたけど、自転車部のブログがあちこちにあったので読んだりはしましたね。
あとはゲラの段階で、自転車部に所属していてロードレース経験がある方に読んでいただいて、おかしなところがないかチェックしていただきました」
― 取材した相手に気を使ってしまうというのは、悪いことを書きづらいということですか?
近藤
「そうですね。作中で嫌な人にできないじゃないですか(笑)外見などもできるだけ連想しないようにしないといけないなと思っています。
自分の気持ちの問題なんですけど、どうしてもわからない時は別として、一人の人に詳しく話を聞くっていうのはあまりしていません」
― 自転車部の部室の描写などはすごく雰囲気が良かったです。
近藤 「ありがとうございます。大学の運動部の部室って結構どんなところでも共通するものがあるので、大体こうなっているかなというのは想像できました」
― ストーリーのおもしろさもさることながら、この作品からはロードレース競技の魅力がよく伝わってきます。ご自身もロードレースファンということですが、どんなところに魅力を感じていますか?
近藤
「『キアズマ』ではそういった描写は少なめなんですけど、チームで戦って一人を勝たせるっていうレースの戦略の部分が、ロードレースは他のスポーツとは違います。チームの誰かが囮になって前に出たり、捨て駒になったりして、誰か一人がレースに勝てば、他の選手を使い捨てにしてもいいというところがあるんです。それは非情でもあるんですけど、ある種の人間ドラマが生じるおもしろさがあります。
スポーツと言うと、“みんなでがんばって全員で勝利を目指すという”イメージがありますけど、一人のエースを勝たせるために自分は我慢する、自分の成績は下でもいいというのがロードレースです。そうやって割り切って戦うところが好きですね」
― この作品でいうと、大学対抗戦ではなくあくまで個人競技なのに、エースを勝たせるために他の選手が犠牲になるというところですね。
近藤 「エースを勝たせるという点だと、大学はプロほど顕著ではないんです。かといってそれぞれがバラバラに戦うと、まとまっているチームには勝てなくなってしまいます。その加減も大事なところですね」
― 近藤さんがロードレースのファンになったきっかけはどんなことだったのでしょうか?
近藤 「自転車を買おうとして、どんな自転車があるのかを調べている時に、自転車のレースがあることを知ったんです。うちでは「J SPORTS」(スポーツ専門チャンネル)を見られたので、レースが行われているヨーロッパの景色が映ることもあって、ある意味環境ビデオ的に見始めました。でも、見ていると選手がかっこいいんですよ(笑) それでファンになって本格的に観戦するようになりましたね」
■ 「『キアズマ』は『サクリファイス』の別の形での表現」
― それぞれに傷を持ち、葛藤している登場人物たちが、同じ部活で同じ競技に打ち込むことで衝突したり離れたりする様子は非常に読みごたえがありました。近藤さんはこの作品でどのようなことを描きたかったのでしょうか。
近藤
「『サクリファイス』の頃から考えていることではあるのですが、“自分が勝たなくても、エースが勝てばいい”というロードレースの考え方は、レースに出ていない人がレースに出ている仲間に“あなたが勝てばいい”という風に気持ちを繋いでいくことにもなります。そうやって互いの気持ちが交差して、繋がっていくというのは『サクリファイス』からずっと書いていたことで、『キアズマ』で書いたことはそれの違う形での表現だと思っています。
レースでは力尽きて完走できない選手もいますが、だからといって負けたわけではなく、その選手が働いた結果を受け継いでエースが勝っていくんです。ロードレースで起きるそういうことを人生に置き換えてみたらどうなるのかな、というのはこの作品を書く時に考えました」
― 最初はエースだった櫻井が、どんどん正樹に追いつかれてしまう、というようなことは実社会でもありますよね。
近藤
「ええ、作家の世界でもそういうのはありますしね(笑)
才能を持って生まれたのにモチベーションが低い人もいますし、モチベーションは高いのに才能がない人もいます。“天才VS努力家”っていうのはいろんな物語で使われていますし、永遠のテーマだと思うのですが、このお話ではそういう構図にはしたくなかったんです。
主人公の正樹はどちらかというと才能があるタイプではありますが、だからって何も葛藤がないわけではありません。彼のように競技に対する気持ちがついていかないというのは、それはそれでしんどいことだと思いますし。エースの櫻井の方も素質があって、最初はすごく輝いているように見えますが、正樹にどんどん追いつかれていきます。才能とモチベーションを違う形で持っている二人っていうのを対照的に書きたいと思っていました」
― 主人公の正樹ですが、才能がありながらもあまりスマートなタイプではないのが魅力的でした。
近藤 「そうですね。なるべく類型的ではない登場人物を作ろうと思っていたので、正樹のように体格のいい主人公にしました。体格がいいとどうしても自転車を始めたら絞らないといけなくなるので、そういうおもしろさもあるかなと」
― やはりロードレースは大きいと不利なんですか?
近藤
「体が大きいとスプリントやタイムトライアルでは有利なんですけど、山登りなどでは筋肉の量が多い分負荷がかかってしまうんです。体が大きいとダメというわけじゃないんですけど、体重はできるだけ減らすというのがセオリーですね。
ただ、スプリントは筋肉量がある方が有利なので、大柄で筋肉質な人が得意です。戦える場所がその人の適性によって違うのもロードレースのおもしろさです」
■ 「スポーツものを書くとは思っていなかった」
― ミステリ作家というイメージが強い近藤さんですが、実際はかなり幅広いジャンルの作品を書かれています。ご自身の作家としてのルーツはどのあたりにあるとお考えですか?
近藤
「小説を書くようになったきっかけは、高校3年生から大学生くらいの時に盛り上がっていた新本格ミステリを読んで、自分でも書きたいと思ったことです。真実がわかった時に世界が一転するような感じが好きで、当時は夢中になって読みましたね。
『凍える島』のトリックとかお話の構造が思い浮かんだ時に、そのままにしておくのはもったいなくて、形にしてみよう思ったのが直接のきっかけだと思います。もちろんそれでデビューできるとは考えていませんでしたけど。
読む方についてはファンタジーっぽいものとか耽美的なものが好きだったりします。読者として好きなものと自分が書いているものには乖離がありますね」
― 今おっしゃったデビュー作の『凍える島』はミステリでしたが、そこから徐々に作品の幅が広がっていきました。
近藤
「そうですね。正直に言うと、ミステリはあまり向いていないんじゃないかと思うことがあって(笑)
きっちり論理立てて謎を解いていくのは結構難しくて、そこにこだわりすぎると不自然さが生まれますし、書くものも広がりません。そういうミステリの不自然さも愛してはいるんですけど、そこだけ浮いてしまうのは小説としてどうなのかな、というのもありました。それで、ミステリ的な仕掛けを残しつつ、ミステリ仕立てではないものを書いていきたいと思うようになったんですけど、スポーツものを書くなんて当時は考えていませんでした。
このシリーズで言うと、『サクリファイス』はミステリですし、『エデン』もそういう要素が多かったのですが、『キアズマ』はほとんどミステリ色がないですね」
― デビューしたのが24歳と、かなり若いうちから作家として活動されてきた近藤さんですが、小説家になってよかったと思うことはどんなことですか?
近藤 「人間関係に煩わされることが少ないことと、朝が遅くても誰にも怒られないことですかね…。毎日顔を合わせる人がいないっていうのは、私はすごくありがたいんです」
― 毎日同じ場所に通って、同じ人に会うというのが苦手なんですね。
近藤 「あまり得意じゃないですね。会社で働いた経験は1年ちょっとなんですけど、人間関係で結構ストレスが溜まったりしていたので、一人で仕事する方が向いているなと思います」
― 反対に、作家になって辛いことがあれば教えていただければと思います。
近藤
「誰も助けてくれないことです(笑)
孤独だなと思うこともありますし、常に作品が評価の対象になる仕事なので、読者の方が本当に満足できるものが書けているのかというのも気になります。ただ、読者の方からの感想って見ないようにしてもしんどいし、見てしまうとそれもしんどいんですよ」
― いい感想であっても見るのが辛いんですか?
近藤 「褒められたら褒められたで“いやいや、そんなにいいものじゃない”と申し訳ないような気持ちになってしまったりするので(笑) 読んでよかったと思える感想もあるんですけど、ちょっと苦手ですね」
― 近藤さんの作品はネット上でも評価が高いものが多いですが…。
近藤 「そんな中でも“星1つ”とかつける方がいるじゃないですか。性格なのかもしれないですけど、褒められたことよりも、そういうものの方が頭に残ってしまうんですよね。なのでもう見ないようにしようかなと思っています。でも、お会いした時に感想を言ってくださるのはうれしいですよ」
― ご多忙かと思いますが、読書の時間というのは取れていますか?
近藤 「良くないとは思っているんですけど、だいぶ減ってしまっています。何十年も生きられるわけじゃないし、もう少し仕事のペースを落として本を読みたいなと思うんですけどね。」
― 子どもの頃から今までずっと好きな本というのはありますか?
近藤
「食いしん坊なので食べ物がおいしそうな本が好きでしたね。絵本の『フランシスシリーズ』に『ジャムつきパンとフランシス』っていうのがあるんですけど、食べ物がすごくおいしそうなんですよ。アナグマのフランシスが好き嫌いをして、ジャムつきパンしか食べないってわがままを言うんですけど、お母さんが他のものを食べさせるためにおいしそうな料理をたくさん作るっていうお話です。
あとは、今年何十年かぶりに続編が出た、加古里子さんの『からすのパンやさん』も好きでした。今も思い出すのはそういったものですね。
母が保育士だったので、保育園から本を借りてきてくれたりしたんですよ。私は本を読んでいたらおとなしかったので。家にある本の他にも、保育園から持って帰ってきてくれた本を読んで返してということをしていたので、色々な本に触れる機会はありました」
― おすすめの本がありましたら、3冊ほどご紹介いただければと思います。
近藤
「マルジャン・サトラピっていう、フランスのバンデシネ(漫画)作家の『ペルセポリス』かな。サトラピはイラン出身で、フランスに留学してそのままフランスに移り住んで書いている方なんですけど、イランということで政治的な問題があったりイスラム教の価値観があったりするなかでも、ロックが好きだったり西洋文化も受け入れています。自分と同年代という共感もありつつ、自分とまったく違う環境にいるということでおもしろい存在です。
もう一冊はネレ・ノイハウスの『深い疵』。これはミステリなんですけど、エンターテイメントとしてすばらしかったです。ドイツの作家さんの作品なんですけど、本国でも売れたみたいで、日本語訳も次々とされています。最近翻訳本を読めなかったんですけど、これは夢中になって読みました。
最後はスペンサー・クインの『チェット、大丈夫か?』です。これは探偵と犬がコンビで事件を解決していくお話で、犬の視点で書かれているんですよ。そういう小説自体はこれまでにもあったと思うんですけど、大事な話を聞いている時に落ちているハンバーガーを見つけてそっちに気を取られてしまったりとか、あまり長いこと物事を憶えていられないとか、より犬っぽい(笑)愛犬家の人が書いているんですけど、私も犬が大好きなので読んでしまいますね」
― 「サクリファイス」シリーズの今後について、可能な範囲でお聞かせ願えますか?
近藤
「プロのロードレースチームの話をもう一本書いてみようかなと思っています。ただ、その後どうするかは決めてないですね。ミステリにするかはわからないですけど、何か謎があったほうが物語の吸引力は強くなるかなとは思っています。
『キアズマ』は、櫻井の過去とかラストの形は決めつつ、謎は特に作らなかったんです。そうしたら際限なく書いてしまって、どこで終わらせていいかわからないというのがあったので、謎を作って書いた方が小説としてまとまりがいいのかもしれません」
― 最後に読者の方々にメッセージをお願いします。
近藤 「私は大長編は書かないのですが、ショートトリップのような形で短い時間でも、日常と違う世界に行って楽しんでいただければうれしいです」
■ 取材後記
都内某喫茶店にて、新刊『キアズマ』やロードレースの魅力についてユーモラスに語ってくださった近藤さんでした。
自転車ロードレースという、多くの人にとって未知の競技を扱いながらも、読者にレースを追体験させ、登場人物たちに感情移入させずにはおかない本書。ぜひ手にとって、近藤さんのいう「ショートトリップ」に浸ってみてください。
(取材・記事/山田洋介)
■近藤史恵さん
1969年大阪生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。1993年『凍える島』で、第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。複雑な人間心理を細やかにすくい取り、鮮やかに描き出す筆致に定評がある。2008年には『サクリファイス』で、第10回大藪春彦賞を受賞、同作 は第5回本屋大賞第2位にも選ばれた。その後『エデン』『サヴァイヴ』と続編が書き継がれ、『キアズマ』はシリーズ4作目となる。他の著書に『桜姫』『ふたつめの月』『寒椿ゆれる』『モップの精と二匹のアルマジロ』『ホテル・ピーベリー』『シフォン・リボン・シフォン』『はぶらし』など多数。
あらすじ
ふとしたことから1年間限定で大学の自転車部に所属することになった主人公の正樹。めきめき上達しチームのエースと肩を並べるまでになるが、二人の間にアクシデントが起こる。助けられなかった友達、誰かを傷つける恐怖…ともに走ること、共に戦うことがメンバーそれぞれの葛藤を浮き彫りにする、「サクリファイス」シリーズ最新刊。
■インタビューアーカイブ■
第81回 住野よるさん
第80回 高野秀行さん
第79回 三崎亜記さん
第78回 青木淳悟さん
第77回 絲山秋子さん
第76回 月村了衛さん
第75回 川村元気さん
第74回 斎藤惇夫さん
第73回 姜尚中さん
第72回 葉室麟さん
第71回 上野誠さん
第70回 馳星周さん
第69回 小野正嗣さん
第68回 堤未果さん
第67回 田中慎弥さん
第66回 山田真哉さん
第65回 唯川恵さん
第64回 上田岳弘さん
第63回 平野啓一郎さん
第62回 坂口恭平さん
第61回 山田宗樹さん
第60回 中村航さん
第59回 和田竜さん
第58回 田中兆子さん
第57回 湊かなえさん
第56回 小山田浩子さん
第55回 藤岡陽子さん
第54回 沢村凛さん
第53回 京極夏彦さん
第52回 ヒクソン グレイシーさん
第51回 近藤史恵さん
第50回 三田紀房さん
第49回 窪美澄さん
第48回 宮内悠介さん
第47回 種村有菜さん
第46回 福岡伸一さん
第45回 池井戸潤さん
第44回 あざの耕平さん
第43回 綿矢りささん
第42回 穂村弘さん,山田航さん
第41回 夢枕 獏さん
第40回 古川 日出男さん
第39回 クリス 岡崎さん
第38回 西崎 憲さん
第37回 諏訪 哲史さん
第36回 三上 延さん
第35回 吉田 修一さん
第34回 仁木 英之さん
第33回 樋口 有介さん
第32回 乾 ルカさん
第31回 高野 和明さん
第30回 北村 薫さん
第29回 平山 夢明さん
第28回 美月 あきこさん
第27回 桜庭 一樹さん
第26回 宮下 奈都さん
第25回 藤田 宜永さん
第24回 佐々木 常夫さん
第23回 宮部 みゆきさん
第22回 道尾 秀介さん
第21回 渡辺 淳一さん
第20回 原田 マハさん
第19回 星野 智幸さん
第18回 中島京子さん
第17回 さいとう・たかをさん
第16回 武田双雲さん
第15回 斉藤英治さん
第14回 林望さん
第13回 三浦しをんさん
第12回 山本敏行さん
第11回 神永正博さん
第10回 岩崎夏海さん
第9回 明橋大二さん
第8回 白川博司さん
第7回 長谷川和廣さん
第6回 原紗央莉さん
第5回 本田直之さん
第4回 はまち。さん
第3回 川上徹也さん
第2回 石田衣良さん
第1回 池田千恵さん