【はじめに】
不老不死を願った人々
不老不死は太古の昔から人々の永遠の望みであった。現世の栄華を極めた絶対権力者も大富豪も、老いと死から免れる術はない。四苦、すなわち生・老・病・死は万人に等しく訪れ、これを究極的に回避する方法は、今のところは見当たらない。しかし、ないものねだりもまた世の常である。
幼少の頃から病弱だったと言われる秦の始皇帝は、候生と盧生に不老不死の仙薬を作るよう命じたと言う。うまくいかなかった二人は始皇帝の怒りを恐れて逃げ出したらしい。不老不死の仙薬などはないのだから、作れと言うほうが無茶なのだ。
しかし、始皇帝はよほど死ぬのがいやだったとみえて、この後も徐福に命じて、神仙が住むという蓬山に不老不死の仙薬を探しに行かせている。蓬山は実は日本だったという説があり、日本の各地に徐福が住んだという伝説が残っている。
候生、盧生、徐福らは方士と呼ばれ、西洋で言うところの錬金術師(アデプト)のような存在であったようだ。呪術師、薬剤師、占星術師、祈師を合わせたようなものだ。誰よりも不老不死を願った始皇帝は、皮肉なことに四十九歳の若さで急死している。仙薬として飲んでいた水銀の中毒死だったという説もある。
西洋でも不老不死の願いは強く、十六~十八世紀には錬金術師がヨーロッパ中を徘徊し、不老不死の霊薬を飲んで数百年の寿命を保っていると信じられていた。有名な錬金術師パラケルススは、イオウと水銀と塩を使って様々な病気を治そうと試みており、秘薬を使って病気を治したり、寿命を延ばしたりできるとの考えは、洋の東西を問わず根強いものだと思われる。
現在でも、若返りの妙薬なるものがあるとの信仰はけっこう蔓延しており、市場規模もそれなりに大きいようだ。しかし、一九九七年に百二十二歳で死んだフランスの女性、ジャンヌ・カルマンさんを超えて長生きした人はまだいないので、若返りの妙薬なるものがあるとしても、最大寿命を延ばす効果が本当にあるのかは疑問であろう。
バクテリアの細胞系列は不死身
ところで、寿命はなぜあるのか。読者の多くは、生物はすべて死ぬのだから寿命があるのは当たり前だと思っているだろうが、最も原始的な生物であるバクテリアは、エサが豊富にあり、無機的な環境条件が好適な限り、原則的には死なないのだ。
たとえば、大腸菌を寒天培地(寒天を用いた培地のこと。微生物学や植物学の分野で、微生物や細胞を培養するために用いられる)で培養すると栄養条件を含む環境条件が好適な限り、どんどん増え続ける。単細胞の大腸菌は分裂して二つになり、さらに分裂して四つ、八つ、一六、三二と数を増やしていく。捕食者に食われたり、事故死したりしない限り、細胞系列は不死である。
私は中学生の頃、もし大腸菌が心をもっていたら、一つの大腸菌が分裂して二つになった時に、心はどうなるのだろうと考えたことがある。私は心をもつ。私は個体である。だから、個体はみな心をもつのではないだろうか。中学生の私は、恐らくそのように考えていたのではないかと思う。
当時、家で飼っていたコロという名のイヌは私によくなつき、私はコロが心をもっていることを疑わなかった。しかし、同じ個体といっても、コロは多細胞生物で脳をもつが、大腸菌は単細胞生物である。心は脳の機能であり、少なくとも多細胞生物にならなければ生じないと思われるので、単細胞の大腸菌が心をもつのであれば、私の体を構成している六〇兆個の細胞の一つ一つはそれぞれ別の心をもつことになるはずだ。そんなことはありそうもないから、単細胞の個体と多細胞の個体は全く別の存在物だと考えたほうがよい。中学生の私は、個体というコトバに呪縛されていたのだろう。
人間もまた最初は単細胞の受精卵から発生する。大腸菌と同じように二つになり、四つになり、どんどん分裂していくが、大腸菌と違ってこれらの細胞はバラバラにならないで、ひとかたまりになって一つの個体を作っていく。稀に発生の初期に、これらの細胞群が二つに分かれてしまうと、それぞれは別の個体に発生していく。いわゆる一卵性双生児である。しかし、ヒトの体を構成する大部分の細胞は何回かの分裂の後で必ず死んでしまう。大腸菌の細胞系列は不死なのに、ヒトの体細胞の細胞系列は死すべき運命にあるのだ。
不死の細胞系列から死すべき細胞系列への変換が、生物の進化の歴史のどこかで起きたのである。個体としての私たちはよほどのヘソ曲がりでなければ、たいてい死ぬのはいやだろう。進化というのは必ずしも下等から高等へ、あるいは劣等から優等へと変化するわけではないのだけれども、多くの人は進化に向上の跡を見ようとするのもまた事実であろう。
この観点からすると、死すべきものから不死のものへ、あるいは短命なものから長命なものへと進化するならばともかく、不死なるものから死すべきものへ「進化」して、生物の個体は寿命をもつものになったという話に釈然としないものを感じるかもしれない。
がん細胞の不死性
しかし、進化は不適応の産物とは考えられないので、寿命をもつことで何か得をしたこともあるに違いない。そのあたりのこみ入った話は本編に譲るとして、ここでは、がん細胞の不死性について述べてみたい。
現代人にとって、がんは恐ろしい病気のトップであろう。がん細胞は何の治療もしなければ、無限に分裂を続け、やがて正常な細胞の機能を奪って、個体を死に至らしめる。なぜ、そうなるかというと、がん細胞の系列には寿命がないからである。
HeLa細胞と呼ばれるがんの培養細胞がある。ずっと昔に亡くなった女の人の子宮頸がんの細胞に由来するもので、世界中の研究所で、様々な実験に使われている。He・Laとは亡くなった女の人の氏名の頭文字だという。この細胞系列は条件が好適な限り、何回分裂しても死なない。大腸菌と同じである。だから実験に使えるのだ。がんで死にそうになったら、医者に頼んでがん細胞を培養してもらえば少なくとも細胞レベルでは不死になれる。逆に言えば、がん細胞の系列に寿命があれば、しばらく分裂するとがん細胞自体が死んでしまうので、個体ががんで死ぬことは稀になるに違いない。個体にとって細胞の不死性は必ずしもよいこととは限らないのだ。
バクテリアの細胞系列がどうして不死なのかというと、DNAの総量が小さいため、突然変異の蓄積速度を上回るスピードで分裂して増殖するからだ。たとえば、大腸菌のDNAは四六〇万の塩基対からなるが、ヒトのDNAは三〇億塩基対からなる。長さにして六五〇倍以上もの違いがある。DNA量がこれだけ増加したおかげで、ヒトは複雑な体を作れるようになり、その一部として大きな脳を手に入れたのだ。私たちが死にたくないなどと考えることができるようになったのは、ひとえに細胞系列が寿命をもつようになったおかげだと言えないこともない。死にたくないからと言って、進化の歴史を遡ってバクテリアに戻りたいと思う人はいないだろう。
そう考えれば、寿命をもつようになったことと、複雑な体をもつようになったことは相関していて、複雑な体を不老不死にしたいというのは、不可能な夢のように思えないこともない。しかし、いつの時代でも、人々は不可能な夢を追い求め、科学技術は時に、不可能と思われた夢を実現してきたのも事実である。
ヒトの寿命を延ばす夢
最近、遺伝子組み換え技術やクローン動物の作成技術が進展し、生命工学的にヒトの最大寿命を延ばすことが可能ではないかとの言説もちらほら見かけるようになってきた。不老不死は無理としても、生命工学的にヒトの寿命を延ばせる可能性はあるのだろうか。そのあたりの事情は本書の後半で論じてみたい。
ところで、仮に生命工学的にヒトの最大寿命を延ばせたり、老化を遅らせたり、あるいは生命工学的な若返りが可能になったとしたら、社会はどう変化するのだろうか。これには科学とは別の社会学的な考察が必要である。長寿それ自体は喜ばしいことであるが、必ずしもメリットばかりとは限らない。
たとえば、今の日本のように六十五歳以上の人は基本的に年金で生活するという社会では、仮に平均寿命が九十五歳になったとしたら、平均三十年もの間、年金をもらうことになるわけで、社会的な負担は大変大きなものになる。したがって、社会的な負担を減らすためには老人にも働いてもらう他はなくなる。そのためには、心身共にある程度健康なまま寿命が延びることが必要で、無闇に寿命だけを延ばしても困ることになろう。ボケた人を十年も二十年も長生きさせる医療は、ボケた本人はともかく、家族を含めた社会にとっては、むしろ有害であろう。
しかし、現行の老人医療を見る限り、クオリティー・オブ・ライフを保つ技術より延命技術のほうがより速く進みそうで、社会的な負担はますます増えそうな予感がする。本編でそのあたりのことも少し議論してみたい。
あまり暗い話ばかりでも読後感が悪いだろうから、最後にバラ色の未来(があるとしての話だが)についても少し論じてみたい。
生命工学の進展により、人々が健康なまま九十歳とか百歳まで生きられるようになるとして、社会システムはどう変化するのだろうか。多くの人が九十歳くらいまでは元気で働けるようになるのだから、年金の問題はなくなるとして、世代交代のサイクルが長くなるわけで、年功序列の社会だと、課長になるのに四十年、部長になるのに五十年もかかるということになりかねない。
あるいは、若くして権力を握った人が、半世紀以上にもわたって権力の座にしがみつくといったことも起きるかもしれない。もしかしたら、完全な実力本位制になって、歳をとったら降格するのは当たり前という社会になるかもしれない。厳密に未来を予測することはもちろん不可能ではあるが、様々な可能性について思考実験をしてみたい。