― とても感銘を受ける言葉がたくさん詰まっている本で、最後まで止まらずに読みました。78歳の今、本書を執筆されたのはどうしてですか?
舘野さん(以下敬称略):藝大を出てデビュー・リサイタルを開いたのが、1960年。今年は演奏活動55年目です。右手の自由を失い、「左手のピアニスト」として再起してからも、すでに11年の歳月が流れました。来年の秋には80歳になります。
本を出さないかと声を掛けていただいたのは、2年ほど前。集英社の『kotoba』という雑誌の取材を受けたのがきっかけでした。すでに何冊かエッセイ集を出しているし、大きなコンサートツアーの最中だったので、ちょっと迷ったんですが、編集の方がくどき上手でね。「舘野さんのお話を聞いていると、すごく勇気づけられます」なんておっしゃる。僕の体験がお役に立つなら……と、失敗談も含めて飾らず隠さず、いろんなエピソードを盛り込むことにしました
― 1960年代にヘルシンキに住み始めるなど、舘野さんの選択はいつでもユニークであり、挑戦的に感じられます。こうした舘野さんの行動基準はどのようなものか教えていただけますか?
舘野:本にも書きましたが、僕の行動の基準は、やりたいか、やりたくないか。「やりたい」と思ったら、周囲のみんなに反対されてもやってしまいます。というより、「人からどう思われるだろう」とか、「違う道を選んだほうが後々のためだ」とか、「失敗したらどうしよう」なんてことを考える間もなく、もうそっちに向かって駆け出しちゃっているんですよ。やりたいという思いだけで心がいっぱいになって、ほかのことは目に入らなくなる(笑)。それは、子ども時代からずっと変わりません。
後先を考えずに行動するため、いろいろ失敗もしてきました。でも、できるかできないかすら考えずに走り出し、夢中になってやり続けていると、どんどん協力しくれる人が現れる。「絶対に不可能。やめたほうがいい」と言われていたことだって、いつの間にかできちゃったりするんですね。
― 若い頃はどのようなピアニストを志していたのでしょうか。
舘野:う~ん、こういうピアニストを目指したいという理想みたいなものはなかったですね。むしろ、決まった型にはまるのが嫌で、自由自在であり続けたいと思っていたというか。
僕は、そのときどきの「これをやりたい」という気持ちに突き動かされるようにして生きてきました。フィンランドに渡ったのも、北欧の文学と自然に魅せられ、住んでみたいと思ったから。「クラシックを学ぶなら中央ヨーロッパだろう。なぜそんな北の果てに!?」と、誰もがあきれたけれど、音楽の勉強に行ったわけじゃないんです。
ヘルシンキを拠点に活動を始めると、評論家たちから「北欧音楽のスペシャリスト」なんて呼ばれるようになりましたが、これも違います。若い頃から、洋の東西や時代を問わず、ありとありとあらゆる国の音楽を弾いてきました。好きなのはクラシックに限りません。フラメンコ、ファド、サンバ、ジャズ、シャンソン、タンゴも大好きです。
― コンサート中に脳溢血で倒れ、65歳で右半身が不随となったとき、ほとんど焦りを感じなかったと本書で書かれています。そのときの心境についてもう少し詳しく教えていただけますか?
舘野:医師によれば、ほんの少し出血箇所がずれていたら命はなかったそうです。意識が回復したら、右半身は麻痺し、舌がもつれてうまくしゃべれない。記憶力や思考力もかなりダメージを受けていました。
でも、2カ月間の入院中は、周囲の人が驚くほど明るかったですね。一人で立ち上がることもできなかったのが、車椅子を卒業し、歩行補助器を使って動けるようになり、やがてステッキを支えに歩けるようになっていく……。そんな具合に、リハビリの成果が少しずつとはいえ確実に現れるのがうれしかったし、ほかの患者さんや病院のスタッフを観察するのも面白かったんです。
もちろん、つらくなかったと言ったら嘘になります。倒れてから9カ月後、2002年1月の段階で、医師から「もうこれ以上よくならないのでリハビリは終了」と見放されてしまったしね。でも、一度として絶望にのみ込まれることはありませんでした。自分一人でリハビリも続けていました。たぶん心の深いところに、「いつか必ずステージに復帰できる。音楽のもとに戻れる」という確信みたいなものがあったんだと思います。
― 左手一本になってからご自身の音楽観が変わったという記述が見られました。人は得てして、「新しいことへの挑戦」よりも「失うことの恐怖」や「失ってしまったものへの執着」が勝ってしまうものですが、舘野さんの文章を読んで、一歩を踏み出し、妥協せずに進んでいく大切さに気づきました。
舘野さんは右半身不随だということを聞いてから、失うことの恐怖などをどのように受け止め、消化していったのですか?
舘野:右手の自由を失ってから長いこと、僕は、ピアノというのは両手で弾くものだという思い込みにとらわれていました。でも、第1次世界大戦で右手を失ったピアニストのために書かれたある曲との出会いをきっかけに、左手一本でも十分にして十全な表現ができることに気づかされます。それからは、左手の世界を究めていくことが面白くてしょうがないんですよ。左手だけで不自由だとも、また両手で弾けるようになりたいとも、まったく思いません。ピアノが弾けるという、ただそれだけで幸せで、生きる喜びが溢れてくる……。
そう思えるようになったのは、音楽に対する飢えのすさまじさをいやというほど体験したからでしょうね。脳溢血で倒れてから左手の音楽の豊かさに気づくまで、1年3カ月の間、ひもじくてひもじくてたまりませんでした。あのとき味わった、魂を苛まれるような飢餓感が、今も僕を突き動かし、新しいことに挑戦する意欲をかき立てている気がします。
それに、よく「膨大なレパートリーを一瞬にして失ってしまい、さぞや悔しいでしょうね」と聞かれるけれど、弾けなくなった曲たちも消えてしまったわけじゃない。僕の中に蓄積され、左手の曲を弾くための土台となり、今の僕を支えてくれているんですよ。
― 左手一本で見つけた「音楽の本質」とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?
舘野:左手だけで演奏するようになって、「両手でピアノを弾いていた60年間、僕は自分の左手をなんて粗末に扱っていたんだろう」と思いました。その気になれば左手は、それこそ両手でもできないことを見事にやってのける力を秘めていたんですから。
たとえば、カッチーニの『アヴェ・マリア』という曲は、一本の手で一音一音と対話するように丁寧に音をたぐりよせていったら、初めはただの音符に過ぎなかった音が歌い始めました。波がたゆたうような、独特のうねりが生まれた……。コンサートのアンコールで、よくこの曲を弾きますが、日本でも海外でも、涙を流す方が多いですよ。
音楽をするのに、手が一本だろうと二本だろうと関係ありません。大事なのは、何を表現するか、聴く人に何を伝えられるか。右手が動かなくても、思考や感覚は自由に羽ばたきます。右手の自由を失ったことで逆に、一音一音の大切さ、一つ一つの音にどれほど深い思いと幅広い表現を込められるかがわかってきました。両手で弾いていたとき以上に、音楽に直に触れられていると、日々感じています。
― ステージ上にあがったとき、どのようなことを考えてピアノを演奏しているのですか?
舘野:なんにも考えていません(笑)。最初の一音を弾いた瞬間から、その音楽の世界に入り込んでしまいますから。
僕が心がけているのは、ただニュートラルでありたいということだけ。自分の型みたいなものを決めて完璧を目指したり、意識的に前と違う弾き方をしようと思ったりはしません。作曲家の生涯や、曲が誕生した背景も考えない。演奏を通して自分の個性や考えを主張したいという気持ちも、まったくありません。よけいなものを全部取り払って、ただひたすらピアノと、音楽と、聴衆と対話していくんですね。
音楽というのは生きものです。特にコンサートの場合は、聴衆と演奏者が呼応し合うことで生じる変化が加わります。ピアノの状態、会場の音響や大きさ、天候などによっても感じ方が異なる。どんな演奏も一回限り、そのときだけのもの。音楽は流動的で、変化し続けるものだからこそ、永遠に生き続けることができるんじゃないでしょうか。
― 舘野さんにとって、人生において一番大切なものはなんですか?
舘野:難しい質問ですね。妻のマリアや子どもたち、孫たちも大切だし、かけがえのない友人もたくさんいます。ピアノの演奏だけじゃなく、読書や自然の中で過ごすことも大好きです。大切なものに優先順位なんかつけられませんよ。
ただ、マリアや息子のヤンネにもよく言われますが、音楽がなければ生きていけない人間だということは確かでしょう。音楽は、僕にとって呼吸であり、人生そのもの。死ぬ瞬間まで、音楽を通して人と心を通わせ続けたい。世界と一つに溶け合っているような、あの喜びを味わい続けたい……そう願っています。
― 80歳を迎える2016年11月10日に東京オペラシティでコンサートを行うとのことですが、どんなコンサートにしたいとお考えですか?
舘野:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団とコンチェルトを4曲やります。「オーケストラとの共演は2曲だって大変なのに、無謀だ」と忠告されましたが、楽な道よりワインディングロードを選びたくなるのが僕の性分(笑)。大変だからこそ、やりがいがあるし、やっていて面白いんですよ。
4曲のうち2曲が、僕のためにつくってもらったピアノ協奏曲です。11年前に復帰した当初、弾きごたえ、聴きごたえのある左手用の曲は、ごくわずかしかありませんでした。それで、世界じゅうの作曲家に委嘱し、新しい作品を書いてもらうことにしたんです。2015年4月の段階で、すでに66曲。今も次々に新作が生まれています。
― 舘野さんが一番好きな言葉はなんですか?
舘野:母がよく口にしていた、「はみ出すくらいが面白いのよ」でしょうか。小学生の頃、習字の授業で紙からはみ出すほど大きな字を書いて先生に叱られ、帰宅するたび、母はニコニコしながら、そう言っていたんです。
その後も僕は、何かにつけてはみ出してしまうので、みんなから「舘野くんは常識がない」とあきれられていました。でも、そんな母と、やはり枠に収まる必要などないと考える父のおかげで、いつも人生で大きな心の空間を持てた。自分が人と違うことにコンプレックスを感じることなく、むしろ、人と同じじゃつまらないと思うようになった。のびのびとはみ出し続けることがてきたからこそ、今の僕があると感謝しています。
― 本書をどのような人に読んでほしいとお考えですか?
舘野:この本のサブタイトル――「左手のピアニスト、生きる勇気をくれる23の言葉」は、編集者がつけてくれました。生きる勇気なんておこがましい気がしますが、今、何か大きな苦しみを抱えている人、希望を失ってしまいそうな人たちが読んで、ほんのちょっとでも元気になってくれたなら、すごくうれしいですね。
●コンサート情報
11月10日には「79歳バースデー・コンサート」をヤマハホールで開催予定。
共演は草笛光子さん。
問い合わせは ジャパン・アーツぴあ ☎ 03-5774-3040