手塚治虫先生をはじめ、数々の偉大な漫画家を輩出したことで知られる「トキワ荘」ですが、そこでどのような仕事が行われていたのかは、これまでほとんど語られてきませんでした。
赤塚不二夫先生や石ノ森章太郎先生、藤子・F・不二雄先生のお二人など、顔ぶれをみると少年まんがのイメージが強い「トキワ荘」ですが、『トキワ荘パワー』(祥伝社/刊)によるとその実態はイメージとはかなり異なるようです。
今回は「トキワ荘」の紅一点として知られ、本作を監修した漫画家の水野英子先生にお話を伺いました。
―まずはじめに、水野先生がトキワ荘に入居するまでのいきさつを教えていただけますか?
水野「私が18歳の時、石森章太郎さん、赤塚不二夫さんと『U.マイア』という名前で合作をするお話が出て、そのお仕事のために入居しました。
実際はもうそのお仕事は始まっていたのですが、当時私は故郷の下関にいましたので、既にトキワ荘に住んでいた石森さん、赤塚さんとは離れていたんです。それで、やむなく郵送で原稿をやり取りしながら仕事をしていたんですけど、時間がかかって大変だったので、トキワ荘が一部屋空いていたということもあって上京しないか、という声がかかったんです」
―『U.マイア』の構想というのはどのように持ちあがったのでしょうか。
水野「当時『少女クラブ』の編集者だった丸山昭さんは、少女漫画の原稿がたくさんほしいけど書き手が圧倒的に足りない、という状態だったんです。石森さん、赤塚さんはすでに『少女クラブ』で描いていたのですが、彼らの作品が何本も並ぶのはおかしいので、『U.マイア』というペンネームで新しい作品を書こうということになったんです。
石森さん赤塚さんはそれまでにも『いずみあすか』というペンネームで合作を作っていました。そこで、今度はその二人の間に私を入れたらもっと面白いものができるんじゃないかというお話になったらしいです。私はお二人の作品をよく読んでいたので、大変喜びまして一緒にやることになりました」
―合作をするにあたってどんなことを心がけていましたか?
水野「心がけていたことは特にありませんでした。ただ、それぞれに画風があるわけで、皆が好きに描いてしまうとバラバラになってしまいます。できるだけ他の方たちの絵に近づけていこうとは思っていました。だから私はなるべくお二人の画に近づけようとしましたし、彼らもそうだったと思います。それでもそれぞれの個性は出るものですけどね。
私はトキワ荘に入る前は下関で一人ぼっちで描いていましたから、合作をしたことで他の人の原稿に初めて触れて“こんな風に描けばうまくいくんだ”“こんなペンの使い方をすればこんな効果が出るんだ”とか、様々な発見がありました。だから、トキワ荘で仕事をした後はそれまでと全然違いましたね。絵が極端にうまくなっていましたし、構成力も全然違っていました」
―御三方で合作した際は、それぞれどのような分担だったのでしょうか。
水野「石森さんが作品の構成、構図を全部一人でやっていました。絵は私が主人公の男女二人を描き、石森さんが作中のスペクタクルな場面を描いて、赤塚さんが背景等を描くという分担でしたね。でも、そういう大体の分担はあったんですけど、実際は入り乱れていましたね」
―それは三人で話し合って決めたんですか?
水野「いえ、最初から決めていたようですよ。主人公の二人を描きますか?と私は提案されたので、いいですよ、と。つまりですね、男性の方はかわいい女性を描きにくかったんです(笑)それで私がヒロインとヒーローを描くことになったんだと思います」
―作画のお話が出ましたが、水野先生の描くキャラクターはすごく目が大きくて特徴的ですよね。
水野「当時の代表的なパターンの画ではありましたよ。目に関しては皆さんそうでしたね。当時は“こんな絵がいいかな”という感じでみんな試行錯誤で書いていた時期でした。それが段々とパターン化して“おめめがキラキラ”が少女漫画と呼ばれるようになったのはもう少し後のことです」
―作画のデザイン的に影響を受けた、という方はいらっしゃいますか?
水野「私は手塚先生の大ファンだったので手塚先生と、あとは中原淳一さんもきれいな絵を描いていらして、中原さんの影響も受けたと思います」
―水野先生がトキワ荘に初めて入った時に、まず感じたことはどんなことだったのでしょうか。
水野「“大きなアパートだな”ということでした。故郷には工場の社員寮みたいなのはありましたけど、アパートというものがなかったんです。
ちょっと古びた感じで階段はギシギシいっていましたね。できて5,6年でしたから実際はそんなに古くはなかったはずなんですけどね。
とにかくちょっと古びた大きなアパート。広い廊下を挟んだ両側に四畳半の部屋が並んでいて、左側の奥から二番目の部屋に通されたんですけど、そこが石森さんの部屋でしたね。さてどんな人が出てくるんだろうと思って一人で座って待っていました(笑)」
―トキワ荘には石ノ森先生のお姉さんですとか、赤塚先生のお母さんも住んでいらっしゃったようですね。
水野「男性だけで置いておいたらどんな生活をするかわからないからご家族は心配だったと思うんですよ(笑)それでお母さんやお姉さんがお世話しに来ていたんです。石森さんのお姉さんの場合は喘息を持っていて、その治療のために東京に出てこられていたということもあったのですが。時折私たちが仕事にかかりきりになると、故郷に帰っておられたみたいです。あとは全面的に赤塚さんのお母さんが生活の面倒を見て下さっていたので助かっていましたね。私たちは仕事をすればいいだけでしたから。」
―当時の水野先生の感覚からいって、赤塚先生や石ノ森先生と会うというのはどんな感覚だったのでしょうか。
水野「実はですね、『漫画少年』という手塚先生が審査員をされていた投稿雑誌がありまして、そこで皆さんの作品を見ていたんです。“この人がこんな作品を描いてるんだ”というのは知っていたので、初対面でも初めて会った感じがしませんでしたね。“この人が本物の赤塚さんか、石森さんか”という感覚はありましたけど、全く他人という感覚はなかったです」
―割とすぐに仕事仲間として見ることができた、と。
水野「はい。トキワ荘というところは漫画家の方々がたくさん入っていると前もって聞いていましたから。しかも『漫画少年』の投稿の常連ということでもう作品は知っていて、尊敬している方たちばかりだったので、楽しみな気持ちが大きかったです」
―水野先生がトキワ荘に入られたのは1958年で、その同年にはさいとう・たかを先生が「劇画工房」を立ち上げています。当時のトキワ荘の方々の中で劇画というものが話題にのぼることはありましたか?
水野「劇画の方面のことは、お付き合いがなかったので私はわからないんです。石森さんがたとのお付き合いがあったかということもあまり聞いておりません。
トキワ荘は外から遊びにくる方々にはウェルカムでしたけど、こちらからどこかに行くというようなことはあまりなかったような気がしますね。私は7カ月しかいませんでしたから、その間のことしか良くは知らないのですが。当時は色々な方が見えていたんですけど、いちいち紹介してもらうこともなかったし、意識にはなかったです。“あの方がそうだったのかな?”というのはありますね」
―頻繁にお客さんが来ていたみたいですね。
水野「もうのべつまくなし(笑)それと、あの頃は『新漫画党』や『東日本漫画研究会』などの会誌を出していた人達や、通い組の人もいて、一日中ごった返していましたね」
―水野先生が上京した当時の漫画界のトレンドはどのようなものだったのでしょうか。
水野「『少年ケニア』などの絵物語が全盛でした。小松崎茂さんの戦艦ものや、少し古くなりますが『砂漠の魔王』などが主流で、新人作家がそういったお仕事をもらうことはなかなかできなかったんです。
ただ、少女誌には仕事があった。それで少女誌の仕事をすることになっていたんです。
その頃は女性ものだろうと少年ものだろうと男性が描くのが当たり前でした。だから男性漫画家が少女漫画を描くのは全然おかしいことじゃなかったんです。これはあまりよく知られていないのですが、トキワ荘にいた漫画家さんたちはほとんど少女ものの漫画を描いていたんです」
―それは知りませんでした。確かにトキワ荘というと少年漫画というイメージが強いですね。
水野「そうなんです。だからその後ですよね、少年誌が漫画を受け入れ始めてから、皆さんが少年誌のほうに行ったというのは。そのことはあまり語られていないので、この本がきっかけになったらいいなと思います。
実は男性の漫画家さんたちは、少女ものを描いているっていうのはたぶん恥ずかしくて言っていなかったんですよ。こういったことがあまり知られてこなかったんです。別に秘密にしていたわけではないんでしょうけど。だから最近になって調べてみたら“ずいぶん少女ものが多いじゃない”ということになっているわけです」
―トキワ荘に住んでいた漫画家の方たちの間にライバル意識のようなものはなかったのでしょうか。
水野「ライバル意識はありませんでした。本当に皆仲間だったんです。仕事をしているのを見ても“あいつはこんな面白いことをやっている、俺もやってみよう”と意欲を掻き立てられはしても、羨ましがるというのはなかったです。同じ仕事をしている人がいること自体がとてもうれしかったんです」
―現在のように漫画を描く方が増えるということは予想していましたか?
水野「まったく予想していなかったです(笑)当時、漫画というのは一度雑誌に載ったら、それっきりで再販されることはなかったし、単行本になることもなかったんです。だから本当に使い捨ての仕事で、自分たちがこれからどうなっていくかなんてわからなかった。描いて、描いて、描いてということしか考えていなかったです。漫画業界はこれからどうなるんだろう、というようなことを考え始めたのは遥か先でしたね」
―トキワ荘に住んでいた方々で、漫画作りに対する共通の信念のようなものはありましたか?
水野「とにかく人の描かないものを描こうと思っていました。それと、とにかく描きたいと思ったものはとことん描くこと。それは編集さんと相談してOKが出ないと描けなかったんですけど」
―それは他の方々も同じだったのでしょうか。
水野「そうだと思います。石森さんなんかは描きたいものは山ほどあって、強烈な個性を持っていました。丸山さんがよく言っていましたけど、打合せの段で“ああそうだね”なんて言っていてもその通りにしたことがないって(笑)私にもそういうところがありましたね」
―水野先生の、トキワ荘での忘れられない出来事はどんなことですか?
水野「石森さんのお姉さまが亡くなられたことですね。普段は寝ていらっしゃることがなかったんですけど、ひどい喘息の発作を起こされてその時は寝ていたんです。そんな時に石森さんが姉の具合が良くないと言って飛び込んできて、タクシーを呼んで病院に運んだんですね。とりあえず運び込んだ後、トキワ荘に戻って一息ついたんです。
当時は息抜きによく映画を観に行っていたのですが、その時も行こうということになって、夕方頃に映画評なんかを話ながらのんびり帰ってきたんです。そうしたら赤塚さんのお母様が、石森さんのお姉さんが亡くなったとおっしゃったんです。それからあとはしっちゃかめっちゃかでしたね。大騒ぎで、もうそのあたりのことは覚えていません。
すごいなと思ったのが、お姉さんがなくなられて精神的にも辛い状況だったはずなのに、石森さんは仕事を始めたらそんな気配をまったく出さないんです。いつもどおり仕事をしていて、本当にすごい方だと思いましたね」
―トキワ荘でご一緒された漫画家の方々から学んだことで一番大きかったものは何でしょうか。
水野「どれだけ個性のある作品を描きこなせるか、どれだけ自分の言いたいことを漫画で表せるか、ということだったと思います」
※水野先生の発言内では、石ノ森章太郎先生のお名前については当時のペンネームである「石森」章太郎先生と表記しています。
(インタビュー・記事/山田洋介)