「幸福」を目指すのは無意味。「信頼」を目指せ。
作家・村上龍が雑誌で30年来書き継いでいるエッセイ「すべての男は消耗品である。」の最新版が出た。題して『賢者は幸福ではなく信頼を選ぶ。』(KKベストセラーズ/刊)。
英国ガーディアン紙への寄稿を含む特別エッセイも加えて、この一年半の動き、たとえば幸福論の流行、ブラック企業の出現、アベノミクス、2020年東京オリンピックの開催などをキーワードに、閉塞の時代といわれるいま、どこに希望を見出すかを論じた一冊だ。
現代は、高度成長期のように日本全体が豊かになっていく時代ではない。その象徴が格差で、たとえアベノミクスが功を奏してデフレから脱却できたとしても、その恩恵がすべての国民に等しく行き渡ることはなく、格差はさらに拡がっていく。若者の間では、恵まれた環境でポテンシャルを伸ばし能力を発揮して「快適で充実した暮らし」をするごく少数と、こき使われて心身ともに疲労しどん底の生活を強いられる底辺層、その中間のグレーゾーンにますます分化していくだろうし、底辺層や母子家庭などを中心に貧困層はますます増えていくことになる、と村上氏は見ている。
そうした社会の歪みは、かつてはそれを指摘し、露わにすることに意味があったが、いまや必要はない。なぜなら歪みは埋もれたり隠れたりしていなくて、満ちあふれているからだ。歪みの犠牲となり、犯罪によって社会への復讐をはかる人間、発作的に凶悪犯罪に走る孤独な人間は、新聞の三面記事やワイドショーに頻繁に登場し、やがて世の中は、敗者であふれかえるというのだ。
では、どこに希望を見出せばいいのか。2020年東京オリンピックに求めても、結果を得ることはむずかしい。開催が決まると、メディアは連日、お祭り騒ぎで、「景気が上向く」と喧伝したが、他人事と思った人は少なくなかったはずだ。オリンピックで利益を得るのは、大手メディア、広告関連、観光業などごく一部であり、それらに携わる人以外には実質的な「経済効果」はなく、恩恵が底辺まで及ぶことはない。行き詰まり感のある日本に風穴を開けてくれることはあるまいと、多くの人がすでに気付いている。
このエッセイで村上氏は、希望を見出すためのキーワードとして、「信頼」をあげる。
人は自分の人生の価値を「幸福かどうか」に求めがちだが、村上氏は、幸福を至上の価値とするのは、「思考停止」に陥った人だという。幸福かどうかは、結局のところ「自分が今の状態に満足しているか、いないか」という主観の問題にすぎない。ホームレスでも「自分は幸福だ」と答えるではないか。「幸福」を感じたければ、今の自分に満足してしまえばすむことなのに、無自覚にもそれを追い求めるのは、思考停止に陥っているからだ。であれば、幸福かどうかを問うのは、どうでもいいことになる。
「幸福」に代わって生きる基準となりうるのは「信頼」だ。自分に満足した瞬間に得られる「幸福」と違い、他者の「信頼」を勝ち取るには、コミュニケーションに長い時間をかける必要があるが、築かれた信頼関係によって救われる場面は必ず出てくる。それを未来への希望と呼べるかどうかは別にして、少なくとも漠然とした「幸福」よりは、生きるうえでの確かな手がかりになるだろうと、うなずける。
「幸福」ではなく「信頼」。村上氏が示したこの価値観こそ、新しい時代の幸福論といえるかもしれない。
村上 龍 :作家
1952年、長崎県生まれ。武蔵野美術大学中退。在学中の76年に『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞、芥川賞を受賞。
以後、『コインロッカー・ベイビーズ』『村上龍映画小説集』『インザ・ミソスープ』『希望の国のエクソダス』
『13歳のハローワーク』『半島を出よ』『歌うクジラ』『55歳からのハローライフ』など旺盛な作家活動を展開。
かたわらTV番組「カンブリア宮殿」のMCとして毎週、出演。
メールマガジン「JMM」主宰のほか、「キューバ・コンサート」を20年に亘り毎年、主催している。
月刊誌「文藝春秋」に長編小説『オールド・テロリスト』を連載中。電子書籍を制作・販売する「村上龍電子本製作所」という自身のブランドを持つ。
http://ryumurakami.com/
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