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序
二〇〇〇年八月一一日。
招待所からに向かう列車は、午後一一時に専用駅を静かに出発した。
私は自分に割り当てられた車輌でのんびりと寝そべり、CDウォークマンを聴いていた。
前の日、バナナボートに乗ってジェットスキーで引っ張ってもらい、スピードが上がったところで頭から海に落下するという遊びをやったのだが、打ち所が悪かったようで、今日一日、首が痛んで仕方がなかった。
列車の揺れはそんな疲れた体に心地よく、このまま眠ってしまってもいいかと、私はハンカチを顔の上にかぶせ、うつらうつらしていた。
出発して一〇分ほど経ったころだろうか、部屋のドアが開けられる気配を感じた。
ハッとして起きあがった私が目にしたのは、いつになく真剣な面持ちをしたキム・ジョンウン大将だった。すぐに飛び起き、
「なんでございましょうか?」
と尋ねると、ジョンウン大将は、
「いいよ、いいよ、休みなさい」
と言って、踵(きびす)を返し、出て行った。
突然のことに驚いた私は、おそらく大事な話があるのだろうと、すぐに後を追った。
ジョンウン大将は、部屋の前の通路に立っていた。
「何かお話でもございますか」
と私が話しかけると、
「あっちへ行こう」
と娯楽車輌を指さし、中に入るとウェイターを呼んで酒を用意させた。
「藤本、オレは思うんだけど……」
それが、夜明けまでの五時間に及ぶ、ジョンウン大将との長い「会談」の始まりだった。
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めぐみさんが王子の教育係という説も
ところで、王子たちに専属の家庭教師が付いていたと書いたが、誰が教育係なのか、私には最後までわからなかった。北朝鮮という国は、余計なことを詮索すればスパイと疑われて命取りになる。特に金正日ファミリーのことについて細かく質問でもしようものなら、「なぜ、そんなことを知りたがるのか」と不審がられ、後でどのような不利益をこうむるかわからない。ファミリーや側近、お付きの人たちが自分から話してくれたことをもとに推測するしかないのだ。
日本に戻ってから聞いたことだが、新潟から拉致された横田めぐみさんが金正日ファミリーの家庭教師をしていたのではないか、という説がある。たしかに王子たちは幼いころから漢字を誰かに習っていた。「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」など、日本語の簡単なあいさつも、私と出会う前から知っていた。朝でも夜でも「アンニョン ハシムニカ」ですむ朝鮮語と違って、「日本語のあいさつは三つもあるんだなあ」と、ジョンウン大将が不思議そうに話していたのを覚えている。
王子たちに外国語を教える係は、それ相応の語学力がなければ務まらないのは言うまでもない。日本語に堪能な教育係、場合によっては日本語を母語にする教育係がいたとしてもおかしくはないのだ。
さらに印象に残っているのは、ジョンウン大将が七、八歳のころ、誘われて元山招待所内の映画館に入ったときのことだ。一緒にいたお付きの女の子二人に対して、ジョンウン大将
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秘書室員になり、生活が一変
北朝鮮、そして金正日将軍の、公には決して明らかにされることのない秘密まで私が知るようになったのはなぜか。単に私の作る料理が気に入られただけでは、そうはならない。理由のひとつには、北朝鮮の女性と結婚し、朝鮮労働党員になったことが挙げられるだろう。
北朝鮮でを妻にめとった私は、将軍から党員になるように勧められ、一九九〇年の元日に党員証をもらい、正式に労働党員となった。と同時に、「朴哲(パク・ッチョル) 」という朝鮮名を与えられた。ちなみに「朴哲」というのはジョンチョル王子がヨーロッパで使っていたのと同じ名前である。
北朝鮮では労働党員となることが最高の名誉であるだけに、簡単には承認してもらえない。「自分はこれからこんな人間になりたい。だから党員になったら、これこれのことをやります」などと記した申請書を出し、受理される必要があるのだ。私も将軍に言われたので、申請したけれども、最初はダメだった。
料理人というのは、徒弟制度が残っている職業なので、下の者に教えるときに、怒鳴ったりするのは普通のことだ。しかし、必要があって怒鳴っていたとしても、そうしたことはすべて上に報告される。そして、「藤本は怒りっぽい」といった評価が下され、党員にしてはもらえないのである。でも、私は料理人としての技術を、そうやって怒鳴られ殴られ、身体で覚えてきたのだから、いきなり変えろと言われても難しい。
そのために、申請は却下され続けたのだが、九〇年の正月、「藤本、来い!」と言われて、将軍のもとへ行くと、これを持って行けと渡されたのが、党員証だった。念願が叶った瞬間だった。そして、主席の名が刻まれた金時計も渡され、まわりにいた人たちはみんな立って拍手をしてくれた。
ただ、党員になったからといって、生活はそんなには変わらない。変わったのは、党の秘書室員になってからである。
一九九四年七月二八日、江東(三二号)招待所の射撃場で射撃を楽しんだ後、突然将軍が「藤本、これを上げよう」といって渡してくれたのが、秘書室員の証明書だった。
そこにはこう書かれていた。
「証明書
朝鮮労働党中央委員会
この同志の身分を証明する
朝鮮労働党中央委員会秘書局
1994年7月28日
No 55
パク・チョル
党中央委員会書記室部員」