古事記の秘める数合わせの謎と
古代冠位制度史
著者:牧尾 一彦
出版:幻冬舎
価格:1,650円(税込)
著者:牧尾 一彦
出版:幻冬舎
価格:1,650円(税込)
歴史には真相がわかっていない謎が多くある。
特にはっきりとした記録がほとんど残っていない古代史は、未だ謎のベールに包まれている。
日本最古の書物とされる『古事記』は、古代日本を読み解く貴重な資料であるとともに、そこに孕まれた多くの謎が研究者たちを惹きつけてきた。『古事記の秘める数合わせの謎と古代冠位制度史』(牧尾一彦著、幻冬舎刊)は、『古事記』を、本文中に頻出する「数字」に着目して読み解くことを試みる野心的な書である。
古くから多くの学者や知識人が『古事記』を読み解こうとしてきたが、その本質に至ったかといえば、決してそうは言えない、と指摘するのが本書の著者の牧尾一彦氏である。
古事記は、一体何を語ろうとした書物であったのか、ということすら釈然としない、そのような書物であり続けていると言って言い過ぎではない。古事記は、いまだに深々とした謎を秘めた書物である。(P4より)
たとえば、古事記の中には、「仁徳天皇が又丸邇池(わにのいけ)、依網池を作った」など、天皇が池を作ったとする記事がある。5人の天皇について同様の記述があり、のべ10の池を作ったことになっている。
ただ、10の池のうち1つが重複しているため、実際の池の数は9だった(10-1=9)と考えられる。また第12代景行天皇の最初の妻には5人の皇子(「五柱」という分注が添えられている)があり、この分注がないその他の6人の妻との間に計10人の皇子を設けた。しかし、最後の1人は景行天皇が自分の玄孫を妻にして設けた子ども、という記述がある。とてもではないが現実にはありえない、ということで、ここでも「10-1=9」という計算が成り立つ。この「10-1=9」のパターンが古事記の中には不自然なほど多く存在するのである。
また、須佐之男命(すさのをのみこと)の子どもである大年神には3人の妻がいて、それぞれの子どもは「五神」「二柱」「九神」とされていたり、反正天皇の身長が「九尺二寸五分」とされているなど、「2・5・9」の組み合わせも古事記にはよく出てくるもので、何らかの意図があったのではないか、と想像を膨らませたくなる。
◇
これらの数字の組み合わせはただの偶然ではないという観点から、本書は古事記を分析していく。元明天皇の命を受けた太安万侶によって編纂されたとされる古事記には、意味深で、含意を想像せずにはいられない記述があまりに多い。
真実は知る由もないが、遠い昔に日本にいた人々に想いを馳せることができるロマン溢れる一冊だ。
■『古事記』にちりばめられた「奇妙な数合わせ」を読み解く
牧尾: 一昨年に出版した『邪馬臺国と神武天皇』では、古事記の「寓意の構造」論を一部援用しました。その古事記の「寓意の構造」の一端・一側面を示そうとしてこの本を書きました。
たとえば神武天皇の兄、五瀬命(いつせのみこと)が登美毗古なる者に手を射られて崩じる説話では、神武天皇には大海人皇子(天武天皇)が寓意され、五瀬命には大海人皇子の兄である中大兄皇子(天智天皇)が寓意されています。
古事記の中に出てくる「美」という文字は一貫して中大兄皇子を寓意していること、登美毗古の登美は美に登ると解読でき、「美=中大兄皇子を凌駕する」という寓意であること、それゆえに登美毗古が五瀬命を殺す構成になっていることを前著では指摘しました。こうした古事記独特の「寓意の構造」を読み解くことで、古事記説話の虚構性を暴くことができます。
牧尾: そう言えると思います。この「寓意の構造」の一端・一側面を示すものとして、古事記の秘める特殊な数合わせに焦点を絞って論述したものが今回の『古事記の秘める数合わせの謎と古代冠位制度史』です。
また、古事記は「美」字のみならず、音仮名や数字・訓字の数々に独特の寓意を掛けながら物語を編み上げています。その寓意は、壬申乱前後史に依拠しながら構想されたものですが、この「寓意の構造」を可能な限り解明しようとする動機が、私の古事記研究の基本にあります。
牧尾: わたしの知る限りでは、拙著に論じましたような数合わせに注目した論稿は、残念ながらこれまでには無いと思います。全く新しい視点だと思っています。
数合わせに気づいたきっかけは、たとえば、大年神の系譜が示す同母兄弟姉妹の数の掲げ方の奇妙さにありました。大年神には3人の妻があり、それぞれの子の数が〈五神〉、〈二柱〉、「九神」という順に、小計として記されています。しかし、このうち〈五神〉と〈二柱〉は分注(小文字二行で書かれた細注)であるのに対して、「九神」は地の文(分注以外の大文字の本文)で書かれています。また、〈五神〉と「九神」は「神」で数えられているのに、〈二柱〉は「柱」で数えられています。
これを追求していくと、この記述は、壬申乱の直前に短期間だけ存在した、二人太子制のもとでの近江令冠位制度である諸王五位・諸臣九位冠位制を寓意するものであることが分かります。
二人太子とは大海人東宮と大友皇太子の二人の太子です。大友皇子が皇太子となったことは、『懐風藻』の大友皇子伝に証言があり、従来説はこの『懐風藻』の説を疑っていましたが、『日本書紀』の編年批判論によって、『懐風藻』の説は正しいことが証明できます。
また、近江令冠位制である諸王五位・諸臣九位冠位制のうち、諸王五位制のほうは壬申乱後も天武朝に継承されている一方で、諸臣九位冠位制の方は廃止されています。このことが、大年神の系譜において、〈五神〉は分注であるのに「九神」は地の文であることの理由です。
牧尾: 古事記の寓意の構造において分注は現在時制、つまり天武朝時制、地の文は古(いにしへ)の時制、つまり寓意の上で、壬申乱前代の時制です。だから天武朝に継承された諸王五位制度を寓意する〈五神〉は分注であり、廃止された諸臣九位冠位制を寓意する「九神」は地の文とされているのです。
分注にするか地の文にするかについて、古事記は時に極めて神経質です。壬申乱以後か壬申乱前かの区別を明瞭にしたいときに、この区別をしています。
〈五神〉が分注で「九神」が地の文であるのは、全ての古写本で一致していますから、この形が原型であったと考えなければなりません。ところが『古事記伝』などはこれを無視して「九神」も分注にしてしまっています。本居宣長は、古事記の寓意の構造に気づいておらず、宣長のあとの多くの古事記研究者も、このような意味での分注の重要性に気づいていません。
牧尾: 大年神の〈五神〉と「九神」は(5・9)という数(かず)セットの代表ですが、景行天皇の系譜にも、隠れた形で(5・9)セットがあります。
景行天皇の系譜は、諸天皇系譜の中でも、書紀系譜と比べて相違の大きな系譜の筆頭に挙げられます。なぜ景行天皇系譜はこれほど書紀のそれと違っているのかに疑問が生じます。その系譜によれば、景行天皇には7人の妻がありますが、ここで注目したいのは、古事記はこれら7人の妻の子の数の小計を最初の妻の5皇子につき〈五柱〉と記すのみで、ほかの妻の子の数には無頓着な点です。
他の天皇系譜ではほとんどの場合、各妻の子女の小計が一々掲げられるのを常とするのと比べると、極めて特異です。何故なのか。
そこで、最初の計数が5皇子であることに鑑みて、2番目以降の妻の皇子のみを数えると、順に3人、1人、2人、1人、2人、1人の順になります。全部で10皇子です。ところが、最後の妻は景行天皇の玄孫にあたる女性ですので、およそ信じがたい妻であり、その所生になる1人の皇子には疑問符が付くことになるためこれを除くと、結局、2番目以降の妻の皇子の数は、10引く1=(3+1+2+1+2)=9人であり、最初の5皇子と合わせて、ここに(5・9)という数(かず)セットが現れます。
ここでは〈五柱〉が分注で現在時制である一方、他の9皇子については、分注から、つまり現在時制から排除されている形です。つまり、ここでも〈五柱〉には天武朝に継承された諸王五位制が寓意され、他の9皇子には天武朝において廃止された諸臣九位冠位制度が寓意されていることがわかります。
また、その3+1+2+1+2=9ですが、逆から見れば9=2+1+2+1+3であり、ここに認められる9の2・1・2・1・3分割は、他にも2例探し出すことができます。
一つは「天神(あまつかみ)」と「国神(くにつかみ)」の配置です。「天神」の全32例に1から32、「国神」の全9例に①から⑨の番号を付けて登場順に並べると、1~5①②6~11③12~16④⑤17・18⑥19~24⑦⑧⑨25~32となっています。つまり9例の「国神」を32例の「天神」が5グループに割り分けており、分けられた「国神」は2・1・2・1・3というグループに分かたれていますので、ここにも9の2・1・2・1・3分割が認められます。こうなるように物語を仕組んだのです。とんでもない技巧ですね。古事記作者の執拗なこだわりの強さが窺えます。
いま1例は作池記事です。作池記事は5天皇朝に分散しており、崇神朝2池、垂仁朝3池、景行朝1池、応神朝2池、仁徳朝2池の計10池の作池です。ところが最初と最後の依網池が重複しています。そこで最後の依網池を除き(ですからここにも「10引く1は9」という数合わせがあります)、垂仁天皇朝の3池分を最後に回すと、順に2池、1池、2池、1池、3池の順に作られていることになります。するとここにも9の2・1・2・1・3分割が現れます(垂仁朝を最後にまわすのは、各天皇に与えられた寓意が関連します。崇神・景行天皇には中大兄皇子=天智天皇、応神・仁徳天皇には大海人皇子=天武天皇、垂仁天皇には大友皇子が寓意されています)。
拙著第4節の小節8に述べました通り、この9の2・1・2・1・3分割は、実は近江令諸臣9位冠位制に内在する冠位官職の階層分化に対応するものです。これによって、後の大宝令官位官僚制度の祖形が、既に近江令において完成されていたことが分かります。これも新しい発見の一つです。
牧尾: 「天武朝の正当化」というのはすなわち「壬申乱の正当化」です。「天武朝の正当化」については、まずは、古事記の冒頭に掲げられた別天神五柱と神世七代の構造が天武朝の冠位制度(諸王五位・諸臣七色冠位制)の構造をまねて構成されていることが指摘できます。
そして、この後にイザナギ・イザナミ2神による国生み神話が続きます。この国生み神話が、推古朝の冠位十二階制度に始まり、大化3年紀制を経て大化5年紀制に至り、更に天智3年紀に置かれたいわゆる甲子の制による下位6色への中階、計6階を加える改定までの初期冠位制度史を鋳型として組み立てられた神話であることが分かります。
この甲子の制の冠位制度は大海人皇子によって宣命された制度であり、天武朝の冠位制度である諸王五位・諸臣七色冠位制のうちの、諸臣七色冠位制にほぼそのまま継承された制度です。
結局、古事記の冒頭神話を見ると、天武朝の冠位制度の寓意を別天神五柱と神世七代として初めに置き、その冠位制度に至るまでの経緯をなぞる形に国生み神話が語られていることになります。これは古事記が天武朝を正当化し顕彰しようとして構成した寓意の構造に他なりません。
なお、第4節の小節6では、「命」の異体字である「今=令」が、真福寺本によれば上巻に5例、下巻に7例あるのは、天武朝の冠位制度である諸王五位・諸臣七色冠位制を寓意する数合わせであり、これは「今」が天武朝であること、つまりは古事記の勘案・作成された時代「今」が確かに天武朝であることを寓意するものであることを指摘しています。
これだけですでに古事記がいかなる書物であるかは歴然としています。天武朝の顕彰とは壬申乱の肯定ですが、これは翻って「壬申乱前代への呪詛」になります。
古事記はイザナ岐(ギ)の命(みこと)によって大海人皇子を寓意し、イザナ美(ミ)の命によって中大兄皇子を寓意しています。そしてそのイザナミの命は、火の神を生んだため、はやばやと黄泉國(よみのくに)に棲む者となります。国生み・神生みの一方の主役が、あろうことかはやばやと黄泉国=死者の国へと追いやられる形になっています。しかもその姿は腐って蛆がわいているという、生々しくも醜い姿に描かれます。
また、生まれた火の神はイザナギの命によって斬首されます。この斬首される火の神には、壬申乱で大海人皇子軍によって斬首される大友皇子が寓意されています。
黄泉國のイザナミの体には大友皇子を寓意する火雷が居ますので、黄泉國には結局、中大兄皇子と大友皇子がともに封じられる構造になっています(黄泉國と地上とを結ぶ黄泉比良坂〔よもつひらさか〕を「伊賦夜坂」と名付けていますが、「伊賦夜坂」とは伊賀皇子=大友皇子に夜という暗黒の世界・死の世界を賦す寓意を持つ坂です。古事記で音仮名の「伊」は、「火」とともに、一貫して伊賀皇子=大友皇子の斬首の宿命、あるいはまたその宿命を負った大友皇子自体を寓意する呪文字です)。壬申乱前代への呪詛はここに極まり、ここに発しています。
古事記の寓意の構造を読み解く時、古事記による壬申乱前代に対する呪詛、中大兄皇子・大友皇子に対する呪詛は、さまざまな寓意文字・寓意の仕組みを以って、これでもかというほどに繰り返されていることがわかります。拙著序節と第4節の小節9で「10引く1は9」という数合わせにつき、「引く1」が大友皇子を余計な者として除外する寓意を秘める数合わせであることを指摘しましたが、これも壬申乱前代への古事記流呪詛の一環です。
■現存する日本最古の史書『古事記』に潜む「本当の著者は誰か?」問題
牧尾: その通りです。孝霊天皇以降の天皇系譜はそれ以前の系譜や神話とは異なり、ほぼ実系譜をもとにした系譜であろうと考えられますが、その中で、景行天皇の最後の皇子について現実にはあり得ない系譜を意図的に虚構して、この景行天皇の最後の皇子に大友皇子の寓意を掛けつつ、これを疑問符の付く皇子としています。
すでにお話しした通り、景行天皇には7人の妻が挙げられており、最初の妻の子が5皇子であり、次に2番目以降の妻の男子のみを数えると、順に3人、1人、2人、1人、2人、1人の順であり、全部で10皇子ですが、最後の妻は景行天皇の玄孫にあたる女性ですので、およそ信じがたい妻であり、その所生になる皇子には疑問符が付くことになってこれを除くことになるため、ここに「10引く1は9」という数合わせが生じます(「引く1」が大友皇子を除く寓意です)。
この数合わせは、お話した通り他にも仕組まれている数合わせです。古事記はこうした数合わせを仕組むために意図的にあり得ない妻を作ったのです。
景行天皇系譜には9の2・1・2・1・3分割も仕組まれていることはこれも述べた通りです。この分割を構成するために、古事記は景行天皇の妻の幾人かを「妾」という形で虚構し、その子として別妻の子から寄せ集めた子を配しています。景行天皇の系譜が日本書紀の系譜と大きく異なっているのは、こうした古事記流の虚構のためです。寓意を構築するために、古事記は天皇系譜さえ道具にし、その改竄も厭いません。
牧尾: 主たる目的は、古事記神話の構造に国家体制の脊梁である冠位官僚制度を、寓意を以ってその骨組みとして仕組み、以て古事記神話に密かな権威を呪定しようとしたのであろうと考えています。
また逆に、その冠位制度によって寓意の構造を明確にしようとしたとも考えられます。大年神の系譜によって、二人太子制度下の近江令冠位制度(諸王五位・諸臣九位冠位制度)を寓意せしめたのはその一例でしょう。これによって大年神に大友皇子の寓意があり、その妻に十市皇女の寓意のあることが、相補的に保証される仕組みになっています。
これらの寓意の構造を知ることで、我々は、逆に古代冠位官僚制度の真相を窺うことができます。たとえば、近江令冠位官僚体制が諸王五位・諸臣九位冠位制度を骨格とするものであったことを確認できるとともに、この近江令冠位官僚体制が大宝令官位官僚制度の祖形として壬申乱前に既に完成されたものであったことを推測することができます。
しかも明確になったこの近江令冠位制度に潜む思想性を、推古朝以来の冠位制度史の中で考察することによって、大化年間以降の改新政治が、庶民階層、つまり百姓階層に冠位官僚制度の門戸を広く開き、その速やかな地位の向上に資するべく大いに意を用いたであろうことを推測できます。これは無産哲学者集団ともいうべき学者・僧侶らを朝廷政治のブレインとし、班田収授を全国に行き渡らせ、氏姓(うぢかばね)制度からの脱却を図りながら、鐘匱の制によって庶民の声に耳を傾けようとし続けた改新政治の求めた制度として整合性を持つ冠位官僚制度であったと考えられます。
牧尾: 漢字だけから成る読みにくい引用文の多い拙著のようなものを読むコツは、取りあえず引用文の前後の文を読んで凡そを把握することです。初めはこまごまとした引用文を全て理解しようとはなさらない方がよいと思います。引用文の一々にかかずらっていますと、2ページほどでもう読みたくなくなる可能性が高い(笑)。わかり易い部分のみ斜めに読み進めて、気楽に付き合ってみて下さい。目次を一読して結論部分から読み始めるのも一案です。
本書の第4節の補論2では、神生み神話における、古来有名ないわゆる35神問題に対して、寓意の構造論による解答を与えています。本論とも密接に関係する補論ですが、35神問題に関心のある方には面白いところではないかと思っています。
この神生み神話に古代国家の政治の中心課題であった戸籍制度が利用されているのは、これまた神話の構成に国家政治の中心的要素を含ませて、神話に密かな権威を呪定しようとしたものと考えられます。
古事記の数合わせの謎を論じた一方で、拙著の今一つの大切な主題は、壬申乱前後の政治史の真相の解明でした。乱後の時代つまり天武朝とは、乱前代に6年毎に粛々と施行されていた頭別戸籍を造ることも、これに基いて実施されていた班田収授も共に中止してしまい、庶民を一挙に借稲地獄・子売り地獄へと突き落として愚民化政策を進めた時代であったことを指摘し、天武朝政治を厳しく断罪しました。天武朝政治に対して拙著の下した断罪は、天武朝を古代律令制の一つの完成期であると信じていた従来説にとっては、意外な、厳しすぎる断罪となっているかもしれません。しかし、かく断罪した事情は拙著に縷々述べた通りですので、ご理解のほど願いたいと思います。
また、この本では、古事記のゴーストライターの最も有力な候補として、稗田阿礼(ひえだのあれ)そのひとを挙げています。太安萬侶による「勅語の旧辞」=原古事記(実は現古事記にほとんど同じ)の清書に際して、分注の勝手な削除・追加、誤系譜・誤集計の修正、誤字・脱字の勝手な修正・補足などを全て厳しく禁じ、異体字の一々にも目を配るように要請して正確な「清書」を徹底させることのできた人物は稗田阿礼しかいなかったでしょう。みずからが勘案・構成した寓意の構造が破れないように、それとは知らぬ太安萬侶に細心の注意を払わせることができたのは、太安萬侶につききりで清書させた稗田阿礼を措いて他にはいません。
古事記には多臣氏=太朝臣氏の父祖とされる神八井耳命の説話のように、太安萬侶家にとっては余り名誉にならぬ話すら含まれており、安萬侶はこれさえ正確・実直に写し取らざるを得なかったようです。安萬侶の墓誌が古事記に全く触れていない一因ではなかったかと考えられます。そもそも安萬侶は古事記について手柄にできるようなことを、的外れな序文を書いた以外、何一つ成してはいないのです。それに、意図的誤字や意図的誤計算、意図的錯簡すら含む古事記自体、当初あまり評判はよくなかったのではないかと思われます。その責を負ったのはもちろん安萬侶だったでしょう。意図的誤字・脱字・錯簡・誤集計・不思議な分注などの意図を知っていたのは稗田阿礼のみだったはずです。
この本の中では言及していませんが、仁徳天皇段に、日女嶋(ひめじま)に鴈が卵を産んだという瑞祥の意義を問われた建内宿祢(たけのうちのすくね)が「阿礼(あれ=我)こそは よのながひと」(我こそは、世の中の長寿の人)という一句を含む歌(仁徳天皇段の72番歌)を返す場面があります。こんなところに古事記のゴーストライターの署名が隠されています。30代半ば前であったはずの当時の阿礼が、自らの長寿を祈念してあつらえた歌句であったと推測できます。
稗田阿礼はおそらく天武天皇の即位の年(天武2年紀。この年は実は拙著第3節のⅣに述べた通り、旧癸酉年・674年)の頃に28歳で古事記編纂を命じられたと思われますが、拙著第1節にも触れましたように、天武10年紀国史の編纂が始まる前までには古事記をほぼ書き上げていたはずです(天武10年紀は実は本来の天武9年・旧庚辰年・681年。阿礼35歳ごろ)。
然るに阿礼はおそらく天武朝で賜姓にも与らず、古事記編纂の功績に対して特別に報いられた様子もありません。
古事記の一々を吟味してみれば、その理由が分かるような気がします。大海人皇子の寓意を秘める天照(アマてらす)大御神という女神を皇祖の中心に据える一方で、寓意の構築を執拗に追究するあまり、意図的誤字・脱字・錯簡・誤集計のみならず、天皇の事績をないがしろにするかのごとき部分すら少なくありません。
稗田阿礼というカバネを付けぬ名乗りは、恐らく阿礼自身が求めたものではなかったでしょうか。和銅4年、65歳ほどになっていた阿礼が今更のように振り返ってみれば、壬申乱前代とは、猨女君という弱小氏族の出であった阿礼を、その才能によって大海人皇子の舎人に抜擢した時代でした。他方で才能より氏素性が重視されるようになった天武朝において、自己責任もあろうとはいえほとんど出世の道のない境遇に甘んじていたらしい阿礼の、古事記完成後30年におけるささやかな矜持の発露が、この「稗田阿礼」という自称であったのではなかったか、というのが目下の筆者のささやかな憶測です。
稗田阿礼の非実在説や、実は女性であった説など、さまざまな説があるようですが、舎人稗田阿礼は確かに実在した人物で、舎人というからには男に違いありません。むしろその稗田阿礼というカバネも何も無い名乗りの裡に、この才能(特別な異能!)溢れる人物の辿った人生の悲哀を感じるのは、筆者だけでしょうか。
そんな古事記作者が、青年時代から壮年時代にかけて作り上げた古事記が語り出してくれる古代の真相に思いを馳せながら拙著をお読みいただければ、古代史はまた独特の斬新な香りをもって蘇ってくれるかもしれません。
(了)
牧尾 一彦
1947年、岐阜県にて生を受ける。
2016年、総院長を務めていた精神科病院を退職後は妻の介護をしながら家事と日本古代史研究に専念。
著書『古事記の解析』(栄光出版社)、『古事記考』(私家本)、『国の初めの愁いの形――藤原・奈良朝派閥抗争史』(風濤社)、『日本書紀編年批判試論』(東京図書出版)、『邪馬臺国と神武天皇』(幻冬舎)、『6 ~ 7 世紀の日本書紀編年の修正――大化元年は646年、壬申乱は673年である――』(幻冬舎)
著者:牧尾 一彦
出版:幻冬舎
価格:1,650円(税込)