構想3年、日本史に蔓延る陰謀論をぶった切る新書がついに登場!
―― 「あとがき」にも書かれていましたが、この本は『応仁の乱』とほぼ同時期に構想を練り始めたそうですね。
呉座: そうです。今から4年以上前になるのですが、角川書店の編集者の岸山さんからお茶に誘われ、新著を書いてくれませんか? と。2人で茶飲み話をしながらテーマを検討していたのですが、その中で「陰謀」という切り口が出てきまして、これは現代の問題にも通じると思ったんです。
というのも、ここ数年フェイクニュースや陰謀論が問題になっていますが、あれらはソース、情報の出所が良く分からない。それは歴史研究の世界でも同じで、例えば「本能寺の変」をめぐる議論に、歴史学者はほとんど関わっていないんです。学界の人間は「本能寺の変の黒幕はこいつだ!」みたいな本は書きません。では、誰が書いているのかというと、作家や在野の歴史研究家たちであり、彼らが考えたあやしげなトンデモ説が「新説」として広まってしまっている現状があります。
それこそ衝撃を受けたのが、明智憲三郎さん の説ですね。明智光秀の子孫を称している方ですが、『本能寺の変 431年目の真実』で本能寺の変について奇説を展開されています。
―― ベストセラー(*1)になった本ですね。呉座さんはこの『陰謀の日本中世史』で明智さんの説を徹底的に批判されています。
呉座:
そうしないとまずいなと。というのも、おっしゃる通り明智さんの本がベストセラーになっている状況であり、「明智光秀の末裔を称する人が何かおかしなことを言っている」と笑ってはいられない影響力を持ちつつあります。
(*1…『本能寺の変 431年目の真実』は出版元である文芸社のウェブサイトによると現在40万部)
ただ、学界はこういうことにはノータッチのスタンスですから、いつか誰かがどうにかしないといけないと思っていました。
―― なるほど。そのような問題意識があって、このテーマで書く必要性を感じられたわけですね。
呉座: それが一つですが、他にもあります。ビジネス誌の「歴史に学ぶ」というような特集で、経営者や識者が歴史小説を推薦図書にあげることがありますよね。“これを読めば歴史が分かる”という文脈で薦められていることも結構多く、問題だなと思っていました。
そもそも陰謀論は、小説の延長のようなところがあります。「これはフィクションです」と前置きしていればいいのですが、 作家の中にはフィクションであり、ノンフィクションでもあるような微妙な書き方をされる方もいるんですね。そうすると、読者が「これが真実なんだ」と思ってしまうわけです。一方で、歴史学界が「これはどうなの?」と突っ込むと、「あくまで小説ですから」と言われてしまう。
陰謀論はフィクションとノンフィクション、史実と空想の境目が曖昧なところに生まれます。だから、小説のネタとしても使えるし、真実のように話をしても受け入れられるんですね。しかし本来、史実と小説は厳密に区別すべきです。本書で司馬遼太郎の『関ケ原』を批判的に取り上げたのも、そういう問題意識からです。
一次情報でも信ぴょう性がないことも? 「史料批判」の大切さ
―― よく「正しい情報を見極めるためには一次情報に当たりなさい」と言われますが、この本を読むと「一次情報」の正当性や妥当性、どんなバイアスがかかっているかまで考えないといけないことが分かりますね。
呉座: 大学や研究機関に所属している歴史学者と、在野の歴史愛好家の一番の違いは、まさにそこにあります。専門用語で「史料批判」というのですが、歴史学者の仕事は史料の妥当性、正当性、信ぴょう性がどれだけあるかということを厳密に評価することなんですね。
もちろん知識も大切ですが、特定の分野に限った知識量だけなら歴女の方々や在野の歴史研究家の方が詳しいことも多いんです。でも、そういった人たちは史料の信ぴょう性を評価しない。結果、信頼できるかどうか分からな いあやしげな史料を信じてしまい、トンデモ説を流布してしまうということが往々にしてあります。
陰謀論やトンデモ説を唱える人は、必ず何かしらの根拠を持ってそれを提唱します。ただ、その根拠となる記述が本当に正しいのか、信頼できるものなのかどうかまで厳密に精査できていません。自分が考えていた説に都合の良い記述があると、それを信じて鵜呑みにしてしまうことってよくありますよね。実はその部分がプロとアマを分かつ最も重要な部分であり、この本で強調している部分でもあるんです。
―― 信ぴょう性の話でいえば、あやふやな医療情報がネット検索のトップに来たり、専門外の医者ががんについての本を書いたりすることが問題になっています。書いた人はどんな人なのか、どの情報に基づいて書かれているのかまでちゃんと考えず、情報を鵜呑みにしてしまっている人も多そうです。
呉座: そこが最も重要なポイントですね。その史料がどのようにして成立したのか、いつ誰が何の目的でつくったのか、そこまで考えないと危ない。特に今のインターネットは玉石混淆で、さまざまな情報がありますし、検索上位にトンデモ情報がきたりするわけですよね。上にあるからといって信ぴょう性があるとは限りません。
私が大学で非常勤講師をしていたときは、この情報を精査する力を重要視していました。歴史研究の根本は、「史料批判」を含めて史料をどのように読むかということです。それはつまり、情報の取捨選択をするということであり、玉石混淆の史料の中から正確な情報を引き出すスキルが求められます。
これは、現代を生きる我々、特に社会人にとっては不可欠な能力ですよね。だから大学で教えるときも、このスキルを教えないといけないと思っていました。
―― 本書の終章「陰謀論はなぜ人気があるのか」を読んだときに、呉座さんはおそらくこの章を書くために、日本中世史の陰謀論をずっと検証してきたのではないかと思いました。
呉座:
まさに終章が最も伝えたいことなのですが、そこだけだとお説教のようになってしまうので、実際にどう論破していくか実例を示していったわけです。
ただ、陰謀論だからといって最初から馬鹿にするのではなく、きちんと歴史学的に精査していく、冷静に信ぴょう性を評価していくことに努めました。どんな情報 でもそういう態度で対峙すべきですしね。
宣教師ルイス・フロイスが書いた信長の記述は“上司への進捗報告書”だった?
―― 歴史書といっても、やはり人が書いているものです。どこかにその人の想いだったり、バイアスがかかってしまったりするのだなと改めて実感しました。
呉座: その視点はすごく重要ですね。その考えを抜きに史料の評価はできません。例えば応仁の乱を日記にしたためていた尋尊という僧侶は、成り上がり者が嫌いだったので、実力があっても身分があまり高くない武士には辛い評価をしています。
嫌いな人の悪い噂、好きな人の良い噂を信じることはよくあることだと思いますが、尋尊もそうでした。いろいろな噂を書き留 めていますけれど、かなりバイアスがかかっています。そういったバイアスの前提を見極め、情報を精査していくことが歴史学のもっとも大切な部分で、「こう書いてあるから正しい」という安易に思ってしまうことが一番危ないんです。
この本に出てくる人物だと、戦国時代に日本にやってきた宣教師ルイス・フロイスです。彼は『日本史』や書簡の中で織田信長について記述していますが、その目的は本国への報告です。彼はキリスト教の布教活動の進捗を報告する目的で信長について詳しく書いているわけですが、そうすると信長が合理主義者でないと困るんですよ。
「我々を支援している織田信長という人は仏教も保護しています」なんて書いたら、本国から「お前は何をしているんだ、もっと熱心な信者をつくれ」と言われてしまいますよね。
―― 社会人が上司に業務の進捗報告をするような光景と重なりますね…。
呉座: 確かにそうかもしれません(笑)。
信長の人物像を詳しく書いてある史料はあまりなく、一番詳しく書いてあるものがルイス・フロイスや当時日本に来ていたイエズス会の宣教師によるものなんです。
ただ、先ほども言ったように、バイアスはかかってしまうもの。彼らは本国の報告を前提に記述しているわけですから、信長は非常に合理的な考え方をする、と仕立て上げないといけなかった。ようは「我々がお世話になっているスポンサーはめちゃくちゃ頭の良い、すごい人なんです」と言っていたわけです。
―― そう聞くと、まさに現代と同じ感覚で歴史を見ることができますね。
呉座: 基本的には現代と同じですよ。情報は客観・中立・無色透明ではありません。発信した人のバイアスや思惑が入るものですから、そこを考慮して評価しないといけないのは今も変わらないと思います。
―― 歴史には新説が急に登場しますよね。例えばこの本では、本能寺の変における「朝廷黒幕説」は1990年代に登場したと指摘されていますが、こういう新説の登場に共通した背景はあるのですか?
呉座: 朝廷黒幕説については、今谷明さんの研究の影響が大きかったと思います。今谷さん自身は、朝廷が本能寺の変の黒幕であるとは言っていないけれど、朝廷・天皇と信長が対立関係にあったという説を提起した。それが発展して黒幕説ができたところがありますよね 。
ただ、最初にも話したように、陰謀論について歴史学界は基本的にノータッチですし、本能寺の変の黒幕に関する諸説はほとんど在野の研究者によって提唱されているので、共通した背景があるのかと聞かれると難しいです。
朝廷黒幕説に関していうと、時代背景もあるのかもしれません。信長は戦前まで、むしろ勤皇家として評価されていました。ところが戦後になってから「彼は天皇を乗り越えようとしていたのではないか」という議論が出てきます。
織田信長はなぜ“理想の上司”なのか? 時代が求める英雄像の変化
―― 時代的にも、戦前だと天皇を尊敬していたとしか言えなかったということですか?
呉座: 戦前においては、天皇にいかに忠義を尽くしたかが重要な評価基準になります。そこで信長を「すごい人である」と評価するには、天皇を尊敬していたことを絶対条件にしないといけなくなるんですね。「天皇を乗り越えようとしているとは何事だ」ということになるので。
ところが、戦後になってタブーが薄れた。そこから「本当に信長は天皇を尊敬していたのか?」という議論が出てきて、彼の合理主義的な部分が強調されるようになります。
この本でもいろいろな黒幕説を取り上げていますが、その根本にあるのは「信長は超天才」ということです。その超天才がなぜ簡単に殺されたのか、光秀がたった一人で大天才信長を倒せるだろうかというところから、黒幕の存在が出てくる。
―― 逆に言うと、信長にその時代が求める英雄像を重ねているようにも感じますね。「理想の上司」などでもたびたび名前が上がりますが…。
呉座: そうでしょうね。今も彼が絶大な人気を誇っている理由も、そこにあるのだと思います。日本人って強力なリーダーシップを発揮する人を求めるところがあって、信長はその日本人にない性質を持っている存在として、とりわけビジネス書などで礼賛されています。
そういう意味では、陰謀論と英雄史観は結びついていると思います。両者とも複雑であるはずの物事を単純に説明するところがあって、英雄史観は一人の英雄が世の中を変える。陰謀論も特定の個人ないし集団が、完璧な陰謀を張り巡らせたことによって世の中をひっくり返す。構造がとても近いんです。
―― 例えば、源義経は英雄的な人気がありますが、彼の人気はどこから生まれているのでしょうか。
呉座: 義経の場合は『平家物語』に書かれている「戦争の天才」という部分、さらに悲劇的な最期を遂げるという判官びいきの部分ですね。特に『平家物語』に描かれる義経像に、そうとう引きずられているところがあると思います。
『平家物語』は基本的には史実に基づいて書かれていますが、それでも「物語」ですから、かなり脚色されています。義経についても、その栄光と没落をドラマチックに描いているので、実際以上に義経の天才性と悲劇性が強調されている部分があるでしょうね。
その一方で源頼朝が悪辣な陰謀家として見えるのは、英雄的な義経像と裏表の関係にあるのだろうと思います。だから、『平家物語』や『吾妻鏡』の描く頼 朝像は鵜呑みにせず、精査する必要があるだろうと。
フェイクニュースを見極める目は歴史研究者から学べ
―― 研究において、時代が先になればなるほど確かな情報が少なくなっていきますよね。少ない史料、不確かな史料の中で歴史研究をするうえで、気を付けていることはありますか?
呉座: 一つは、分からないところは無理して踏み込まないということです。学界に陰謀関係の研究が少ないのは、俗っぽいというのも原因の一つですが、「こうだ」と言い切れないケースが多いというのもあります。計画書みたいな明確な史料がないから陰謀なのであって、すべては推測でしかありませんから。
―― 計画書が出てきたら陰謀ではなくなりますよね。
呉座: 陰謀の全計画 がきっちりと書いてある史料はだいたい偽物ですよ(笑)。陰謀は誰にもバレてはいけないから(証拠が)残らないはずなんです。そうすると、陰謀の全容を把握することは難しい。研究者があまり手を出さない理由の一つはそこなんですね。
陰謀論に限らず、分からないところはむやみに断定しないことが大事です。この本の中でも源実朝の暗殺について検証しているのですが、結局分からなかった。どの説も決め手に欠ける。そこで無理に断定してはいけないんです。
ただ、世の陰謀論者はすぐ断定してしまうんですよ。これが絶対間違いないと言ってしまうんですけど、歴史学をきちんとやる立場の人たちはみな慎重です。
「え、まさか、この人が黒幕なの?」という意外性といいま すか、サプライズがある説は一般ウケが良いのは確かです。しかし、歴史学者はそういうサプライズや面白さを求めてはいけなくて、複数の説の中で最も確率的にありえそうな説はどれかを検証することが仕事です。
―― 史料の正当性、妥当性を考える判断材料を一つ教えていただけますか?
呉座: 例えば文体ですね。東京大学の総合図書館に『頼朝卿自筆日記』という史料があるのですが、どう読んでも江戸時代の文体で書かれていて、頼朝の自筆とは言えないものです。文体をたどれば書かれただいたいの時代が分かりますし、歴史研究者は文体に敏感ですから、学生から提出されるレポートにWikipediaが使われているかなどはすぐにわかりますよ(笑)。
―― 本書は世に蔓延るフェイクニュースをいかに乗り越えていくかという課題に対する、一つの答えが書かれているように思います。フェイクニュースであるかどうかを見極める目を養う方法を教えていただけますか?
呉座: 歴史研究者が心がけていることは、自分にとって都合の良い情報が出てきたときに、まずそれを疑うことです。陰謀論やトンデモ説を唱える人は逆で、自分の都合の良い情報に飛びついていることが多いんですね。
フェイクニュースに引っかかるカラクリもそこにあると思っています。自分の思想にとって都合の良い情報――例えば「移民は危ない」「慰安婦はデマだ」ですとか、そういう普段から考えていることを裏付けてくれる言説が出てくると「ほら見てみろ!」と飛びついちゃう。逆に、自分にとって都合の悪い ニュースは疑って否定するわけですね。
自分にとって都合の良い情報に対峙したとき、立ち止まって考えることができるか、疑えるかどうか。歴史研究者は普段からこの姿勢を重要視していますが、一般の方々にとっても役立つ姿勢ではないかと思います。
―― 確かにその姿勢は大切ですが、難しいことでもありますよね。
呉座: そうですね。普段から「これだ!」と思ったと同時に「待てよ?」と思うことが大切です。
―― では最後に、呉座さんがこれまで読んできた本で影響を受けた3冊、もしくは面白いと思った3冊をご紹介ください。
呉座:
これは難しい質問ですね……。最近読んだ本でいうと、岩波新書から出ている池田嘉郎さんの『ロシア革命――破局の8か月』は面白かったです。ロシア革命って、どうしてもソ連を建国したレーニンたちに軸が置かれやすいのですが、この本はレーニンたちに打倒された臨時政府に軸を置いています。
臨時政府は結果的に敗者になったため後世の評価は低いのですが、彼らはかなり頑張っています。応仁の乱にも通じることですが、失敗というのはそういうものだと思っています。みんな頑張っているんだけど、ちょっとした保身や見栄、権力欲を見せたところから判断を誤っていき、それが積み重なって破局を迎える。その意味ではロシア革命も同じだと思いましたね。
ロシア革命つながりで言うと、ジョージ・オーウェルの『動物農場』はすごく好きな本です。オーウェルだと『1984年』よりもこちらの方が好きで、こういう寓話的な ものがもっと出てきてほしいと思いますね。
『動物農場』はロシア革命を模倣していると言われていますが、ナチスに例えることも可能だと思います。つまり、特定の政治体制を批判しているというよりは、もう少し広い目で読むことで、多様な解釈が可能なのではないか、と。高度管理社会で監視体制を強めて言論を弾圧し、敵をつくって憎悪を増幅させていくというやり方は、共産主義に限らずどの政治体制でもありえることですから。
寓話つながりでもう一冊あげると、『ガリバー旅行記』も多様な読み方が可能だと思います。特に人間が馬に支配される部分はとても強調されていて、ヤフーという人間のような存在は、いかに好戦的で醜いかということがさんざんに書かれているわけですね。
でも よく読んでみると、馬の方の選民思想的な部分も浮き彫りになっていて、単純に人間が乱暴で好戦的であるという風刺ではなくて、人種差別的な側面まで踏み込んでいることに気付きます。その意味で寓話はいろいろな読み方を可能にしてくれるので、21世紀の新たな寓話が出てこないかなと待ち望んでいます(笑)。
取材後記
よく、事実かどうかを確かめるために「一次情報に当たりましょう」ということを言われますが、その一次情報にも「バイアスがかかっている」ということまで考えている人はどのくらいいるでしょうか。歴史を通して現代の問題点をあぶり出し、私たちに伝えてくれる呉座さんのお話は、社会の様々な欺瞞に惑わされないために必要な力を与えてくれます。一行たりとも見逃すことのできない圧倒的な情報量が詰め込まれた本書、ぜひ読んでみてください。(新刊JP編集部・金井元貴)