直木賞受賞の反響は「想像を軽く凌駕するものだった」
―― 改めて、直木賞受賞おめでとうございます。
門井: ありがとうございます。
―― 受賞時の会見で「風がきた、飛ぶだけだ」とおっしゃられていたのが印象的です。直木賞の重み、どのように感じていますか?
門井: 僕は候補3回目での受賞でしたが、候補になるだけでもとてもインパクトがあるんです。まさに「世間の賞」といっても過言ではないぐらい影響が大きい。それこそ近所のおじさんからも声を掛けられますし。
―― では、いざ受賞が決まったら…。
門井: 反響は想像を軽く凌駕するものでした。仕事の面でもそうですし、家に届くお花やプレゼントもすごいもので、業界内外問わずメール、祝辞の類をいただきました。ありがたいことです。
ただ、だからといってプレッシャーを強く感じるというわけではありません。そこは平常心でいますね。
―― 記者会見はいかがでしたか?
門井: 20分くらいお話する時間がありましたが、あっという間でしたね。もう少ししゃべらせてくれと思いました(笑)。
―― 肩の荷が下りたという感覚はありましたか?
門井: それはありましたね。とにかくこれで直木賞を考えなくて済むと思うとホッとしました。
“甘ったれ”の息子・賢治と極端な父親・政次郎
―― 『銀河鉄道の父』はそのタイトルの通り、宮沢賢治ではなくて父親の政次郎を主人公としています。最初から政次郎を描こうとされていたのですか?
門井: はい、最初からこの人をテーマにしようと思っていました。
―― 政次郎に着目したきっかけは?
門井:
きっかけは学習マンガです。宮沢賢治の伝記マンガですね。僕自身、子どもが3人いまして、上から15歳、12歳、9歳で全員男の子です。彼らに学習マンガを買ってあげたのですが、まあ自分でも読むわけですね(笑)。
それで賢治の巻を読んでみると、少ししか登場しないけれど非常に立派な父親がいる。そこで初めて宮沢政次郎という人物を知ったんですね。
―― では、政次郎を主人公にした理由は?
門井: 無名だけれども立派な父親がいた。けれども、賢治の活躍によって父親が一種の悪役的な扱いをされている部分があるわけです。例えば宮沢家は質屋でしたから、政次郎は長男の賢治に家を継がせようとしたりする。
―― 賢治の進む道を阻む存在として扱われている、と。
門井: そうです。だから、僕が立派な父親である政次郎を書けば、読者にも届くのではないかと思いました。
―― 賢治の印象は、『雨ニモ負ケズ』に代表される「素朴」「聡明」「繊細」のイメージが強いと思います。でもこの小説で描かれる賢治がことごとく覆していくという。
門井: 非常に甘ったれな性格をしていますよね。僕自身は最初からそういうイメージを持っていたので印象が覆るようなことはありませんでしたが、調べて書くなかで「ここまでとは…」と思いました。
ただ、それは賢治に悪い印象を持つものではありません。彼は、自分も含めて息子なら誰でも持っている「親に甘えたい」という感情が極端に出ていた、もしくは出さざるをえなかったのだと思います。まあでも本当に親を困らせる子どもだなとは思いますが(笑)。
―― 父親の政次郎からすれば、賢治はだいぶ心配になる生き方をしていますよね。これが「物書きの習性」なんでしょうか。
門井: 同じ物書きといっても、僕と賢治を同一視するつもりはありませんし、才能の量もはるかに賢治の方が上ですが、やはり書き進めていくと、物書き特有の要素、あとはダメ息子の要素が賢治に出てくるわけですね。そこは図らずも自分と重ねてしまう部分がありました。僕自身もダメ息子的なところがありましたから(苦笑)。
―― 政次郎の父親としての特徴についてはどうですか?
門井:
政次郎も賢治に劣らず非常に極端だと思いますね。
親は誰でも子どもを甘やかしたいと思うものです。その一方で、将来立派な大人になるために厳しく育てたいという気持ちもある。その間で揺れ動くのが、すべての父親であり母親です。ただね、政次郎は非常に極端。どちらにも振りきっているエピソードがあります。
例えば賢治が7歳のときに赤痢に罹って入院します。そのとき、政次郎は病院にかけつけて看病をするわけですね。これは史実なんですが、当時は明治時代。一家の長である父親がそんなことをするなんて、まずありえなかった。看病は当時汚れ仕事でしたし、赤痢は伝染病。しかも政次郎は商売人ですから、もし政次郎にも何かあったらお店そのものが倒れてしまう。その中で店を放り出して付きっきりで賢治を看病するわけです。
一方で厳格さにおいて極端なのは、賢治を盛岡中学まで出させておいて、家の質屋を継がせるために進学させないと決めるエピソードは象徴的ですね。これもすごい話です。旧制盛岡中学といったら名門中の名門ですから。
女性が強かった? 宮沢家の家族
―― 今でこそ父親が子どもの看病に付きっきりで…という話は聞きますが、明治時代という背景を考えれば凄いことだと。
門井: そうです。そこに政次郎の人間的な大きさがある。ただ、それはもしかしたら賢治の大きさに振り回されていたのかもしれない。賢治が人間的に大きかったから政次郎が極端にならざるを得なかったという見方もできますね。
―― 政次郎と賢治のエピソードで、門井さんが特に気に入っているものはなんですか?
門井: 最初の看病のエピソード。それから最後に賢治が亡くなるところ。巻紙と筆を取り、遺言を書きとる。これも史実なんですが、2つでワンセットです。
この小説って、実は看病に始まり、看病に終わるんですよ。熱心に看病して助けた命を、自分の手で埋葬する。それは好き嫌いを超えて厳しい世界であり、一方でとても温かい世界でもある。印象深いですね。
―― 本作は父と子の物語でもあり、宮沢家という家族の物語でもあります。政次郎の妻であるイチは賢治が死ぬ瞬間を看取った唯一の家族ですし、トシという存在は若くして死んだ後も長らく政次郎や賢治に影響を残し続けます。宮沢家の女性についてはどのように描こうと思っていたのですか?
門井: 実はもっと(宮沢家の女性たちを)描きたかったんですよ。ただ、あまり登場させすぎると政次郎と賢治の物語が鈍ってしまうので、抑えていた部分がありました。
でも私たちが想像する以上に、宮沢家の女性たちは強かったと思います。5人子どもがいますから、イチさんは相当忙しい日々だったでしょう。トシさんは賢治が書いた『永訣の朝』のイメージが強いですが、非常に切れ者でしっかりしている人でした。多分、宮沢家の空気を支配していたのではないかと思います(笑)。その下の妹2人、シゲさんとクニさんもしっかりしています。だから今度は誰かに『銀河鉄道の妹』を書いてほしいですね(笑)。
―― 賢治の弟で宮沢家を継いだ清六は商才がありながら、賢治の魂を引き継いでいる描写があります。彼がいなければ賢治の多くの著作は世に出ていなかったかもしれないわけですしね。
門井: まったくその通りです。清六は社会的な能力のある人ですから、子どもの頃から賢治お兄ちゃんを「頼りないなあ」と思っていたかもしれません。でも、お兄ちゃんを最後まで看病し、戦後に至るまで宮沢賢治全集の編集に携わり、賢治の功績を世に残すために尽力しました。それは立派なことですし、家族にそうさせてしまうくらい賢治も立派だったということですね。
―― 作中で賢治が人造宝石で儲けると言いだすところがありますよね。あのまま賢治が人造宝石ビジネスに手を出していたら成功していたと思いますか?
門井: あれはダメでしょうね(笑)。仮に造ることに成功しても、清六か政次郎が助けてあげないと。
「賢治を殺すというのは大変ですね」
―― 政次郎と賢治の関係を描く上で注意したことはありますか?
門井: 悲劇にしたくなかったということです。物語が始まる時点で賢治が死んでしまうことが分かっています。それは小説とはいえ動かすことのできない出来事ですから、普通に書いていけば、最重要人物が死ぬという悲劇になるのが当たり前なんです。
だからこそ、悲しいという感情で終わる話にしたくなかった。この小説の読者に、そしてこの家族に、僕自身に一筋の光が差すような終わり方にしたかった。あえてこの言葉を使うならば、読後感にかるみのあるものにしようと、一行目を書くときから決めていました。
でも、賢治を殺すというのは大変ですね。トシも大変でしたが、エネルギーを使いました。
―― 「賢治を殺す」とは少し物騒な言葉ですが…。
門井: いくら活字の世界に過ぎないとはいえ、こんなに一生懸命生きている人を1人、あるいはトシを含めて2人、自分に殺す資格があるのかと悩みました。
あたかも作家が登場人物の生命を握っているという顔をするのも嫌ですし、でも死を描かなければ前に進まない。だから、敬意を持って送り出しましたね。
―― この作品は明治、大正、そして昭和という変化の大きい3つの時代にまたがっています。時間の流れはシームレスです。時代として考えたときに明確に違いが出てくると思いますが、その点の書き分けはどのように意識しましたか?
門井: おっしゃる通り、明治、大正、昭和はそれぞれ全く違います。例えば大正時代は現代に生きる我々の感覚にやや近い、良くも悪くも大衆化の時代です。一般の人たちが人権という抽象的なものを理解するようになりました。
特に変化が見える最も典型的な場面が「家族の食事」です。
これは僕がつくったフィクションで根拠のある想像ですが、明治は一人一人に御膳が並べられて、上座に政次郎が座り、号令をかけて食べるという感じだったはずです。それから大正時代になると、お茶の間にちゃぶ台というものが普及します。
最後のシーンで実際に書いていますが、上座も下座もない車座で一つの大皿をつついて食べる。もちろんそれで家族が平等になったというわけではないのですが、そういう装置を出すことによって、明治と大正・昭和の違いを書くことができると思っていました。
―― また、宮沢家の物語の舞台である花巻という街についてはどのような印象を受けましたか?
門井: 花巻については、一度この小説を書くために取材を行いました。
小説の中では書くことができなかったのですが、花巻まつりの鹿踊りにかける市民の想いがすごく強いことも分かりましたし、花巻にお城が置かれていたというところから江戸時代に非常に重要な場所であったこともうかがえました。当時は一国一城令で盛岡に本城がありましたから、本来であれば花巻にお城を置いてはいけません。しかし、例外として許されていた。
規模は決して大きくはないですが、想像以上に豊かな文化が育まれている街でしたね。
門井慶喜が影響を受けた3冊の小説とは?
―― 今、書かれている小説について教えていただけますか?
門井:
今書き始めたものが2作あります。一つは『別冊文藝春秋』という電子版の小説誌で「空を拓く」という小説を連載していて、主人公は東京駅をつくった建築家・辰野金吾です。
前に『家康、江戸を建てる』という小説を書いたのですが、それは何もない土地に江戸という町をつくるという話でした。一方、この「空を拓く」は、江戸という町の上に東京という町をつくりなおすというプロジェクトを追いかけます。家康が新築だとすると、金吾のやったことは改築の話ですね。
もう一つは新潮社の『yom yom』というこれも電子版の小説誌で「地中の星」という小説を連載しています。こちらは地下鉄銀座線事始めですね。鉄道は、籠や馬、自動車といった他の乗り物とはまったく違う性質があります。それは、A地点からB地点に行ければいいという話ではなく、線路を引き、駅をつくり、時刻表を設定し、駅員を配置し…という巨大なシステムをつくる一大プロジェクトであるということです。ですから、戦前の日本には鉄道省があったわけなんです。
―― では最後に、門井さんが影響を受けた本を3冊ご紹介いただけないでしょうか。
門井: 分かりました。まずは1冊目、司馬遼太郎の『アームストロング砲』という短編集です。表題作「アームストロング砲」は佐賀藩のお話で、アームストロング砲の製造を通して鍋島家は近代化に成功したけれど、藩主や家臣たちは大変だった。史実とフィクションの間を描いた、司馬遼太郎の小説の技法がクリアに分かる短編です。
2冊目は泉鏡花の『外科室』ですね。僕は岩波文庫で読みましたが12、13枚ほどの短い小説です。伯爵夫人が手術で死んでしまうという話ですが、それは夫人が求めていたことだった、という一種の美しいホラー小説です。
この小説の際立っているところは、なぜ自殺をするのか、なぜメスを入れるのかというところに筋道が一切なく、場面の美しさだけを求めた結果の表現だということです。小説は一つの価値があれば他に何もなくてもいい、その一つの価値によって小説は輝くものなのだということを、強烈に教えてくれた一冊です。
最後はイタロ・カルヴィーノの『不在の騎士』です。米川良夫の翻訳ですね。「不在の騎士」はその名の通り“不在”です。鎧の中は空っぽ。人間と同じように会話もするし、動いている。しかし、中が不在ゆえに差別され、からかわれる。この作品は、筋道が隅々まで行き渡っているけれど、主人公がいないがために筋道の立てようがないという一種の実験小説なんです。こうした小説には心から敬意を表しますね。
―― ありがとうございました。
取材後記
インタビュー中にもあるように、ご自身も3人のお子さんのお父さんだという門井さん。もしかしたら、作品の中に自分の父親としての視点を入れながら書いていたのかもしれません。賢治の父親である政次郎は厳しさと優しさを揃えた人物です。『銀河鉄道の父』という小説を通して、そして門井さんのお話を通して、父親とは、家族とは、どんな存在なのか、今一度考えさせられた時間でした。