芥川賞受賞、インド人上司の反応は?
―― 芥川賞受賞おめでとうございます。まずは受賞のご感想をお願いします。
石井: ありがとうございます。受賞については、まだあまり実感がないというのが正直なところです。
―― 候補になってから受賞まではどのように過ごされていましたか?
石井: 自分の作品が受賞候補になったと電話で知らされたのが発表の一ヶ月くらい前で、それはチェンナイにある勤め先のオフィスで聞きました。
受賞までの間、自分のことがどう取り上げられているかとか、下馬評めいたことなどを友達がメールで教えてくれたのですが、なにぶんインドにいるので他人事といいますか。
―― ご自身でインターネットで調べたりなどはしなかったですか?
石井: 受賞の予想のようなものはあまり見聞きしたくなかったので、調べませんでした。いくら調べても、その段になって自分にできることは何もありませんし。
夫は調べまくっていて「取るんじゃない?」みたいなことを言っていましたけど、私は無理だと思っていましたし、エッセイを書いていたこともあって心を乱されたくなかったんです。
―― 結果、見事に受賞されました。
石井: 受賞が決まってからすぐに日本に戻ってきたのですが、インタビューを受けたり受賞記念のエッセイを書いたり、わけのわからないまま忙しくしていて、自分の名前が新聞やニュースに出たりするのを直接目にしていないんですよね。
だから、受賞した際の電話会見でお話したように、人が自分の前世の噂をしているのを聞いている感じです。
―― 職場の反応はいかがでしたか?
石井: あまりわかっていないと思います。勤め先というのが福岡や大阪に支社があるチェンナイのIT企業で、そこでの私の上司は長く日本にいたことがあるので日本通ですし日本語も上手なのですが、文化的なことまでは知らないようです。
だから、候補になった時に「日本に芥川賞という有名な小説の賞があって、まあ無理だと思うけど万が一受賞したらいろいろやることがあるから日本に帰るかも」というような説明をして、受賞した時も報告しましたが、大きなリアクションはなかったですね。「何か賞を取ったらしいよ。有名な賞らしいよ」という感じで。
奇想溢れるデビュー作『百年泥』はこうしてできた
―― 受賞作の『百年泥』は、語り手の「私」がインドで受け持っている日本語クラスでの奮闘や受け持つ生徒たちについての語りと、チェンナイの大洪水の後に残された泥の中から思いもかけない物品が掘り出されるなどの奇想が入り混じったとてもユニークな小説です。この作品の最初のアイデアはどのようなものだったのでしょうか。
石井: 私がチェンナイに住み始めたのが2015年の4月だったのですが、その年の12月にあった、百年に一度という規模の大洪水の時の経験が土台になっています。
確かに雨の多い年ではあったのですが、私はまだ来たばかりとあって「まあこんなものか」と思っているうちに洪水になってしまって、三日間くらい自分の家に閉じ込められて身動きがとれなくなってしまいました。
その洪水が引いた後、アダイヤール川というチェンナイを流れている川にかかった橋の上に膨大な量の泥が残されて、それを野次馬が大勢見に来ているという、小説に書いた通りの光景を見たんです。
その時はただその橋を通っただけで、何かを考えたり思いついたりということはなかったのですが、一方でいつかこの経験を小説に書けたらいいなという漠然とした思いはあって、その後にストーリーを考えたり、思いついたことをメモしたりはしていました。
仕事が忙しかったりして実際に書くことはなかなかできなかったのですが、洪水から一年近く経った頃に数カ月暇になった時期があって、その時にようやく書けたという感じです。
―― 石井さんも小説の語り手と同様、インドで日本語を教える仕事をされています。作中の「私」のように生徒に翻弄されながら悪戦苦闘しているのでしょうか。
石井: そうですね。私がやっているのは企業での日本語研修で、勤め先の会社に入ってきた新入社員を相手に日本語を教えているのですが、この小説ではそこで初めて受け持った生徒たちがほぼモデルになっています。
日本だと、学生時代にアルバイトなどを経験して、少しは社会に触れた状態で会社に入る人が多いと思いますが、インドの学生のほとんどはそういうことをしませんから、まったく社会経験がないまま会社に入ってくる。だから本当にまだ「子ども」なんです。
―― 日本でいうと中学生くらいの感じですか?
石井: 社会性という意味では日本の中学生以下だと思います(笑)。しかも私は英語があまりできません。教室では英語を使って何とか授業を説明しようとしますが、生徒の言っていることがよくわからないので、なめられますしバカにされてしまって、最初はひどい状態でした。その時期の描写がこの作品に役立ったので、結果的には良かったということになりますが。
―― 石井さんはこの作品を通してどのようなことを表現したかったのでしょうか。
石井: 自分自身の世界観や人間のあり方といったことでしょうか。それらを言葉の力を最大限に発揮して書いていきたいというのが基本的なモチベーションとしてあります。
今回の小説の最後の方で「どうやら私たちの人生は、どこをどう掘り返そうがもはや不特定多数の人生の貼り合わせ継ぎ合わせ、万障繰り合わせのうえかろうじてなりたつものとしか考えらえず」と書いているのですが、この部分がそれを端的に表現できたところではないかと思っています。
―― 「不特定多数の人生の張り合わせ」とはどういうことでしょうか。
石井: 私たちは自分の人生を自分だけのものだと考えがちですが、実はいろいろな人の人生が自分の中で入り混じっているんじゃないかと私は思っています。
人間は一人で生きるのではなく、人と人が交じり合って生きています。そのことで必然的に存在と存在が交差して、互いが互いの一部になっていく。だから私たちの心も体もたくさんの人の人生がパッチワークのように混じったモザイク状になっているという考えです。
こうした世界のあり方を表現したい気持ちは常にあって、今後書く小説もこの考えが土台になっていくのではないかと思います。
―― 「輪廻」とはまた別の話ですか?
石井: 輪廻というのは、前世、今生、来世と、「私」が何度も生まれ変わっていくという考えですが、そうではなくていろいろな存在がぐちゃぐちゃに交じり合った「私」が瞬間瞬間に生まれては死んでいるという考え方です。
仏教の言葉で「刹那滅」というのですが、生まれては死んでという激しい動きの瞬間を繰り返しながら、無限の過去から無限の未来にかけて業の流れとして続いていく。そのなかの「今この一瞬」というのが私たちの姿、というイメージですね。
もともと仏教の研究をしていたので、小説を書く時にもそのあたりの考え方が自然に出てくるんだと思います。
―― なぜ仏教の研究をしようと思ったのでしょうか。
石井: もともと小説を書いては新人賞に投稿するという生活をしていたのですが、小説を書く時って、事前に必要なことを調べて知識を入れてから書きますよね。それまではどんなことでも2、3冊図書館で本を借りて読めば、だいたいのことはわかっていたのですが、何度読んでもさっぱりわからないものがあって、それが仏教だったんです。
わからないからいっそう知りたいという気持ちもありましたし、やはり日本人として生まれたからには、日本人の精神性の根本を知るためにも仏教は欠かせないという思いもありまして、大学に入りなおして勉強することにしたんです。
「ウソを書くこと」に抵抗があった頃
―― 『百年泥』は石井さんのデビュー作でもありますが、デビュー前に書いた小説は100作近くに及ぶと聞きました。小説を書き始めたきっかけを教えていただけますか。
石井: 10代の頃から本を読むのが好きで、読んでいるうちに書きたくなったというのが始まりですね。
ただ、その頃書いたのは日記とか身辺雑記のようなもので、創作や小説という形で書くようになったのは20代の終わりとか30代になってからです。というのも10代の頃は嘘を書くことへの抵抗があって、文章で何かを表現することは好きだったのですが、創作は苦手だったんです。創作って、要するに嘘なので。
―― 泥から奇想天外なものが掘り出されたり、会社の重役が翼をつけて出勤してきたり、今や壮大な「ほら話」をお書きになっていますね。
石井: 年を重ねるにつれて平気で嘘をつけるようになりまして(笑)。
今は小説の世界くらいは嘘の世界で遊んでもいいんじゃないか思っています。私の小説は自分が読みたい小説でもあるので、書くことによって空想の中で遊んでいるという感じですね。
―― インドでの生活についてもお聞きしたいです。インドで暮らし始めた時に感じたカルチャーショックはどんなものでしたか?
石井: カルチャーショックと呼べるようなものは特になかったです。というのも、インドに対して「こういうもの」という先入観はなかったので。
ただ、インドではじめて住んだのは北部のバラナシだったのですが、とにかく放っておいてくれないので疲れることはありました。変わった物や見慣れない人を見ると好奇心のままに話しかけてくる人が多かった印象です。もちろん、そういう北インドの人の気質がフレンドリーで好きだという人もいるんでしょうけど。
今住んでいるチェンナイも含めて、南インドではそんなことはなくて、日本人が歩いていても誰も振り向きませんし、話かけてもきません。だから楽ではありますね。
―― 石井さんがこれまでの人生で影響を受けた本を3冊ほどご紹介いただきたいです。
石井: 私の作品は「マジックリアリズム」と言われたりするので、一冊目はガルシア=マルケスの小説にします。『百年の孤独』も好きですが、一番読んでいるのは『族長の秋』です。『百年の孤独』よりもディテールが濃くて、エピソードもおもしろい。
もう一冊は、セリーヌの『夜の果てへの旅』。これは生田耕作さんの訳が好きなんです。私はクセのある翻訳が苦手で、この小説も図書館で見かけて少し読んでみてダメだと思ったんですよ。
でも、書架に戻そうと思った時に見開きの「訳者紹介」が目に入って、そこに「自分の墓に名前も何も彫りこまず、ただ“non”とだけ彫った」ということが書いてあったんですよね。それを見てなぜか「これは読まないと」と思ったんです。それでもう一度きちんと読んだらおもしろかった。今は一生の愛読書です。
最後の一冊は、開高健さんの『ロマネ・コンティ・一九三五年 六つの短篇小説』にします。エッセイと小説の中間みたいな本なんですけど、これもよく読んでいます。
インドにいるということで日本から持っていった本しか読めないので、好きな本を何回も読む形になりますね。
―― 最後になりますが、今後の活動についての抱負をお願いします。
石井: まだ次の作品について具体的に定まっていないのですが、この世界のイメージ、世界の姿を表現するのに、言葉が持つ可能性が最大限発揮されているような作品を書いていきたいです。
作品を通して、読んでくださる方と交差して、互いを交換しあって入り混じるような体験をしていきたいです。これからもよろしくお願いいたします。
取材後記
ご本人は「マジックリアリズム」という言葉を使っていましたが、『百年泥』の読後感はこの手法が使われている他の作品と比べても独特なものでした。インタビューでは石井さんの小説の根底をなす価値観に触れることができ、この読後感の秘密が少しわかった気がします。
次作ではどんな世界を見せてくれるのか、本当に楽しみになる作家さんでした。
(インタビュー・記事/山田洋介)