15万部という大ヒットを予見していた大恩人に「申し訳ない」
―― この『大家さんと僕』はもともと文芸誌の『小説新潮』で連載されていましたが、どのようなきっかけで連載が決まったのですか?
矢部: 僕が今の大家さんの家に引っ越したのは8年前になるんですが、これがすごく変わった物件で、一軒家で1階に大家さん、2階に僕が住んでいるんです。もともと二世帯住宅だったそうで、玄関はそれぞれ違うのですが、大家さんとの距離はすごく近いし、仲良くさせていただいているんですね。
それである日、京王プラザホテルでお茶をしているときに、たまたま仕事でご一緒したことがあった漫画原作者の倉科遼先生にお会いしたんです。挨拶をしに行ったところ「矢部君はおばあちゃん孝行だね」と言われたので、「実はおばあちゃんではなく、大家さんなんです」と言ったら、すごく興味を示してくれて。
―― 倉科遼さんといえば『夜王』や『女帝』シリーズの原作者で、ヒットメーカーですよね。その方に興味を持ってもらえた。
矢部: そうなんです。「都会の孤独な青年と孤独な老人が出会い、お茶をして、他にどんなことがあったの?」と聞かれ、旅行をしましたと言ったら、「それはロードムービーを作ろう!」ってどんどん発想が膨らんでいくんですよ(笑)。で、「矢部君、原案を出してくれ」と。
―― それはかなりの展開の早さですね(笑)
矢部:
早いですよね。ただ、原案を出してと言われても急には難しいので、4ページくらいのマンガを描いてみたんですね。それを倉科さんに見せたら、「これはすごく良い!ロードムービーではなく、マンガで行こう!」と、さらに展開が変わりまして。
20ページくらい書いたタイミングで、倉科さんがマネージャーを通して、よしもとの出版部の人にかけ合ってくれたんです。倉科さんは文化人としてよしもとに所属されているので。
―― では、連載が始まったのは倉科さんのおかげなんですね。
矢部: まさにそうなんです。それをまず伝えたいです。僕だったら、よしもとにかけ合っても多分動いてもらうまで、時間かかっていたと思います。そこから新潮社さんと一緒にやることになったのですが、倉科さんは「どこも出してくれなかったら俺が自費出版で出すから」と言って下さっていて、ありがたかったです。
―― すごい惚れ込みようですね。
矢部: 本当にそうですよね。「今まで稼いだお金があるから」と言われて。ただ、『小説新潮』での連載が決まってから、作品が倉科さんと離れてしまったので、申し訳ない気持ちがあります。あれだけ倉科さんが面倒みてくださったのに、僕一人の手柄のように思われているのは心苦しいです。倉科さんには本当に感謝しています。
―― 『小説新潮』というと、創刊70年を迎える伝統ある文芸誌ですよね。連載が始まったときの気持ちは?
矢部: 笑ってしまいました。西村京太郎さん、椎名誠さん…すごいところに自分の名前が並んでいて恐れ多いですし、変な違和感がありましたね。大家さんにもお見せしたのですが、もちろん新潮社は昔から知っていて、「矢部さん、ちゃんとしたお仕事をできるようになったのね」と声をかけていただきました。
―― もともとマンガは描いていたのですか?
矢部: 全く経験がなくて。ただ、イラストは描いていました。入江君のピンネタで使うイラストですとか、先輩の舞台のチラシとかも毎年描いています。入江君のネタのイラストは「合コンでこの女はいける」みたいなかなりのゲスさなので、絵でポップにしたいと言うことで。
―― マンガ家デビュー作で15万部。これだけヒットするということは、滑り出し快調ですね。
矢部: でも、これがマックスなんじゃないかという不安はあります。誰もここまで読まれるとは思っていなかったのではないかと。
―― そんなことはないと思いますよ!
矢部: いやいやいや、倉科さんしか「このマンガは売れる!」と思ってなかったと思います(笑)!
「ごきげんよう」を使いこなす家系。大家さんの不思議に迫る
―― 今現在も大家さんの家にお住まいなんですか?
矢部: はい、今も住んでいます。
―― もう8年もお住まいになっているということで、長いですよね。なぜこの家に住もうと思われたのですか? 他にも物件はあったと思いますが…。
矢部: 実はそのとき、この家しか見ていないんですよ。ご紹介を受けて、直感的に「ここがいい」と思ったというか。前に住んでいたマンションの大家さんに「もう更新しないでね」と言われたのが、更新の一か月前だったので。
―― 本の中にもあった、テレビのロケでよく使われていた家ですね。
矢部: そうです。「電波少年」のTプロデューサーがやっていた深夜番組で、僕もレギュラーで出させていただいていたんですが、僕の家がスタジオ化していて、突然霊媒師が来たり、家の住所を使ってワンクリック詐欺にわざと引っ掛かってみたり、部屋が部屋じゃない感じになっていたんです。
でも、深夜だし大家さんには見られないだろうと思っていたら、見事に見られまして。それで慌てて探し始めたときに出会った物件が今の家です。
―― 大家さんとの距離が近いというか、出かけている間に雨が降って大家さんが代わりに洗濯ものを入れてくれるとか、普通のマンションに住んでいるとまず起きないことですよね。
矢部: そのエピソードも、言うなれば不法侵入ですからね。マンガではホラーな出来事みたいな演出していますけど(笑)。
―― そんな大家さんと仲良くしていけるかなと思ったきっかけはなんだったのですか?
矢部: 実は最初は仲良くできないかなと思っていたんです。芸人の先輩にも「ちょっと家選び失敗しちゃったかもしれません」と相談していたくらいで。
でも、大家さんの行動って、すべて僕を思ってやってくれていて、ゴミ出しで注意されたときも、迷惑だという言い方ではなくて、矢部さんがご近所さんから悪く思われるかもしれないから、きちんと出した方がいいと思いますよ、という言い方なんです。
今ではお茶するのも普通ですけど、最初は断っていたんですよ。でも一回くらいは行ってもいいかなと思ってお話してみたら、すごく素敵な方だと分かって興味を抱きましたね。
―― 「ごきげんよう」と挨拶したり、かなり上品な方ですよね。今まで周囲にこういう方っていましたか?
矢部: いやー、いないですね。素で「ごきげんよう」なんて挨拶されたことなかったです。大家さんのご親戚の方も「ごきげんよう」と挨拶されていました。家系がもう上品なんでしょうね。
―― それはすごいですね! 高貴な家系というか。
矢部: そうなんでしょうね。初めて大家さんの家でお茶をしたときに、何か話のネタはないかと周囲を見渡していたら本が置いてあって、これを糸口に話してみようと思って手に取ってみたら、タイトルが『〈華族爵位〉請願人名辞典』だったんです。
―― どんな本なんですか?
矢部: 爵位を欲しがった人の名前と、爵位が取れなかった理由が明記されている本です。
―― そんな本あるんですか(笑)!
矢部: あるんですよ。これは丸っきり僕と住む世界が違うと思いました。そこに置いてあったということは、僕が来るまで読んでいたということですから。それで近所を散歩していると「実はここの人もね、爵位が取れなかったの」と教えてくれるんです。
―― 内容を覚えているわけですよね。
矢部: そうなんです。多分、ご近所さんが出てくる本なんでしょうね。時代も世界も全てが違うように感じました。
―― 大家さんはお茶目で、わりと強引なところもありますよね。矢部さんが大家さんのペースに乗せられていく様子は読んでいて笑ってしまいました。
矢部: すごく自然な方で、ご自分のペースがありますよね。「こういうものでしょ」と言われたら僕もこういうものなんだと麻痺してくるというか。お部屋をお借りしてるのだからお茶くらいしますし、お茶するのだからお食事しますし、お食事したのだから鹿児島に泊まりで旅行にも行きますよね、と。
―― 乗せられてますね。一緒に食事に行くと1回につき4時間くらいかかると書かれていましたが、どんな話をするんですか?
矢部: 本当にいろいろです。テレビや本の話から、恋話も。「矢部さんはいい人いないの?」と聞かれたり。そのときは友達みたいな感覚です。
―― 年齢差が気になることはあまりないんじゃないですか?
矢部: いや、それはありますよ(笑)。話をしていると自然に戦争の話になりますからね。昨日撮影の仕事で上野に行ったんですと言ったら、「私は玉音放送を上野の駅の改札で聞いたの」と言われたり。ナチュラルに戦争の話を突っ込んできます。まあ会話なんてそういうものなのかもしれませんけどね。
ハロウィーンのコスプレ、大家さんのオススメは「広瀬中佐」
―― お話をお聞きしていると、大家さんはかなり知識が豊富そうですね。
矢部: 大家さんの話している内容の9割は知らないことなんです。だから、その場で検索して調べることもしばしばあります。
あ、そういえば毎年ハロウィーンに、天野会というキャイ~ンの天野ひろゆきさんの家にタレントさんが集まってコスプレパーティーをする会に参加しているんですが、それぞれコスプレをしないといけないんですね。それで何をしようか迷って、大家さんに相談にしたら「日露戦争で活躍して軍神と呼ばれた広瀬武夫中佐はいかがですか」と言われて、「誰ですか、それ」って。
―― しかも、ハロウィーンですからね。
矢部: ハロウィーンの説明もちゃんとしたんですけど、大家さんは広瀬中佐を薦めてきましたね。困って、もう一個あげてくださいとお願いしたら「瀧廉太郎さんはいかがですか」と。
―― なるほど(笑)。一応皆知っている人物ですしね。
矢部: そうそう。それならウケるかもと思って、瀧廉太郎のコスプレで行ってみたらものすごい空気になりました。申し訳なく思っています。まだ広瀬中佐の方がウケたのかもしれない…。
でも、そのときに初めて広瀬中佐を知って勉強をして。僕がスマホで検索して調べていると、大家さんが「それ良いわね」って言ってくるんです。大家さんが若い頃はスマホもパソコンもないから、知りたいことがあったら本屋で本を注文して、もしそれでもなければ日比谷の図書館に行って調べさせてもらっていたそうです。
当時女子は図書館に入れてもらなかったようで、なんとかお願いをして入れてもらい、調べ物をしていたという話も聞いて驚きましたね。そういう感動は多いです。
―― ネット上にはないような知識がたくさん大家さんの頭の中にあるんでしょうね。
矢部: 日常レベルの話はとても興味深いです。マンガに書いたことだと、住んでいる街には昔ホタルがいたとか、戦前はうどん屋にしか電話がなくて、わざわざ電話をするためにうどん屋に通っていたとか。自分が普段見ている街が書き換えられていく感じがします。
―― 大家さんとは本の貸し借りもしていらっしゃるようですが、矢部さんが貸してもらった本で印象的な一冊をあげるとするとなんですか?
矢部: 有島武郎の『或る女』を貸していただいた時に、「私、こういう女になりたかったの」っておっしゃられていたことが印象的でした。ただ、僕にはかなり読みづらくて、パラパラめくった程度でまだちゃんと読めていないんです。
でも、これは僕の想像の話なんですけど、奔放な当時としては新しい女性を描いた作品ですよね。大家さん自身、両親が厳しくて好きな人がいても自分から告白するような時代ではなかったという話をするので、そんな大家さんが憧れるような女性が書かれているんだろうな、と。これを読めば大家さんのことがもっと分かるんだろうなと思います。
あとは村上春樹さんの『1Q84』ももらいました。
―― 最近というほどではないですが、近年の作品もちゃんと読まれているんですね。
矢部: そうなんですよ。芥川賞を受賞した作品は全部買って読まれていますね。
―― 本の中に出てきた、感想を言いにくい「ハレンチな本」って何ですか?
矢部: あれは『1Q84』か、田中慎弥さんの『共喰い』だったと思います。結構ハレンチな描写が出てくるので、僕も困ってしまって(笑)。
―― 感想を言い合ったりするんですね。
矢部: そうです。だから、本の話はよくしますね。最近、大家さんはノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさんを読み始めています。
―― かなり感度が高いですね。
矢部: 大家さんから「どの作品がお薦め?」と聞かれて、僕は読んだことがなかったのですぐに担当編集さんに相談しました。そして、さも僕はすでに読んでいるかのようにお薦めをして(笑)。『わたしを離さないで』から読んでいます。
少年はやっぱり冒険好き! 矢部太郎の読書
―― では、矢部さんが影響を受けた本を3冊、ピックアップしていただけますか?
矢部: これは激ムズの質問ですね。なんでしょうか…。読み込んだ本を挙げていってもいいですか?
まず、小さな頃に好きだったのが『少年王者』という山川惣治さんが書かれた絵物語でした。これは戦後まもなくに出た本なのですが、ちょうど僕が子どもの頃に角川書店が同じ山川さんの『少年ケニア』という物語を映画化して、復刊フェアをやっていたんです。
僕は『少年王者』全10巻と『少年ケニア』全20巻を毎月1冊ずつ買っていたんですけど、自分的には『少年王者』のほうが好きで、絵が黒と赤の2色刷りだったんです。クオリティもすごく高くて、引き込まれるように読んでいましたね。
『少年王者』ってすごく変な話で、ようはターザンの日本版なんですけど、アメンホテップっていう怪人が出てきたり、ゴリラの絵がやたらリアルだったり、全てが魅力的でした。「電波少年」でアフリカに行ったときも、『少年王者』のことを思い出しましたね。
それに、子どもの頃よく読んだ本で石川球太さんの 『冒険手帳』もめちゃくちゃ好きでした。これもイラストメインの本で、キャンプで雨が降らない時に飲み水をつくり出す方法とか書かれていて。
―― サバイバルガイドみたいな。
矢部: まさにそうです。蛇の捕まえ方とか食べ方とか。鳩は酔っ払わせて捕まえるとか。別に僕、冒険好きでもなんでもないんですけど、大好きでしたね。
あとは、マンガですけど白土三平さんの『カムイ伝』も好きでした。あの作品も冒険の要素が入っているので、そういうのが好きなんだと思います。やっぱり男の子は冒険好きというか。
―― 今も冒険モノはよく読まれるんですか?
矢部: 全然読まないです(笑)。最近は今村夏子さんの小説が好きで、先日紀伊國屋書店新宿本店さんで今村さんが影響を受けた本を展開する『今村夏子さんの「大切な本」』というフェアをやっていて、買って読んでしまいましたね。
あとはトマス・ピンチョンを結構読みました。ポストモダンが大好きな友達に薦められて、『V.』、『LAヴァイス』、あとは『競売ナンバー49の叫び』も面白かったです。もともと理系っぽい作品が結構好きで、中学の頃は安部公房さんにハマりましたし、今だと円城塔さんをよく読んでいます。
―― 『少年王者』からピンチョンまで、矢部さんの読書の幅広さと深さに驚きました。ありがとうございます! では、矢部さんの『大家さんと僕』をどのような方に読んでほしいですか?
矢部: 実は先輩とか友達とか、読んでほしい人には全員読まれてしまったので…。なので、どうしよう。本当に本が好きな方に読んでほしいです。そういう人から感想をいただけるとすごく嬉しいですね。
この『大家さんと僕』は妥協なく自分が良いと思うものを書けた自信があって、内容の面白い、つまらないの責任は全部僕にあると思っています。初めて僕が全責任を負ってOKを出した作品なので、本当に本が好きな方に読んでもらえるとありがたいです。
―― 大家さんも本好きですが、この『大家さんと僕』についてはどんな感想が届きましたか?
矢部: 読みながら、「私こんなこと言ったかしら?」とか言ってましたけど…。でも、大家さんの中でこの本の一番いい部分は帯の著名人のコメントらしいです。ここが一番感動したと言っていました(笑)。
―― 本の中の部分ではないので、ちょっと作者としては残念ではないですか(笑)?
矢部: いえいえ、そんなことないです。僕に向けて書かれているコメントだから嬉しいと思ったのかな、と。それと同時に、これらは大家さんに向けてのコメントでもありますからね。
取材後記
物件をネットで調べて、そこに住むことを想像するのはよくありますが、大家さんが下に住んでいる環境は想像したことはなく、読む前からもとても興味がそそられました。
実際読んでみて、大家さんとの友人のような家族のような不思議な関係性が羨ましく素敵に思えて仕方なかったのですが、今回インタビューさせていだだき、お答えしてくださる矢部さんがとても丁寧で優しく、この雰囲気が上品な大家さんと仲良くなれた要因なのかなと思いました。そしてお互いにとって大切な存在であるのを感じとても暖かい気持ちになりました。
今もこの家に住まれているとのことだったので、まだまだお二人の素敵な世界を堪能したく次回作が出ることを切望してやみません。(ASUKA)