『流』とのつながりを持った最新作『僕が殺した人と僕を殺した人』
―― 本作は1984年の台湾と、2015年のアメリカという2つのパートが交互に進行しながら、その2つの物語と人物のつながりが明らかになっていくという構成になっています。最初はどちらのパートから書かれたのですか?
東山: アメリカパートから書き始めて、次に台湾パートという形ですね。登場人物はまず核となるユンを作り、その次にジェイという人物を作りました。
―― 台湾パートでは兄を亡くしたばかりの優等生のユン(小雲)、不良だけど正義感の強いジェイ、そして牛肉麺屋の息子・アガン(阿剛)という13歳トリオと、アガンの弟であるダーダー(達達)が主人公格です。この4人を描く上でこだわりはありましたか?
東山: 台湾パートは彼らが少年ということもあって、台湾の雰囲気をまとわせた魅力的な子どもたちにしたいと思っていました。それで、僕にとって魅力のある子どもっていうのはケンカが強かったり口が達者だったりするので(笑)その中でも、アガンを一番口が達者な子に描きましたね。
―― 口が達者な子どもたちを描きたかったのですか。
東山: 僕が台湾にいた頃、周囲にいた大人たちはみんな口が達者だった気がするんです。僕自身が大人たちに物語をせびるような子で、彼らはそれに応えてあることないことを面白おかしく話してくれるわけですね。
自分もそういう大人になりたいと思っていたけれど、残念ながら口が達者ではありません。だから憧れなんですよね。
作家は一つの文章をねちねちと考えてから言葉に落とすという仕事なので、即興的にポンポン面白いことが言える人には羨望の眼差しを注いでいます(笑)。
―― 13歳トリオのユン、ジェイ、アガンはそれぞれ個性豊かですが、ご自身が一番近いと思う人物は誰ですか?
東山:
3人の中だとユンでしょうね。台湾時代のユンはジェイに対して憧れを抱いていますが、それはジェイの不良少年らしさに対する憧れだと思うんです。
僕自身も不良少年に対する憧れを持っているので(笑)、ユンと重なるんでしょうね。
―― 台湾パートは1984年が舞台です。この「1984年の台湾」に対して東山さんはどんなイメージを持たれていますか?
東山: そのころの僕はちょうど高校1年生で、日本に住んでいました。当時は夏休みになると台湾に帰っていたので、台湾というと夏の印象が強いんです。
―― 夏の台湾ではどのように遊んでいたのですか?
東山: (笑)思春期でしたからね。この作品にも出てくるんですけど、当時違法営業の地下ディスコみたいなものがたくさんあって、年上の従姉たちに連れていってもらったことがあります。あれは大人になれた感覚がありましたね。
―― それは刺激的な体験ですね。
東山: 刺激的でしたよ。いつ警察の手入れがあるか分からないというドキドキ感もありつつね(笑)。
―― そういった原体験を踏まえて1984年に時代背景を置いたのですか?
東山: それもあるのですが、以前執筆した『流』のストーリーが終わるのが1984年頃なんです。今作はその続きくらいから始めようというところで、構想が浮かびました。
『流』は僕が生まれ育った台北の廣州街という場所が舞台だったのですが、その街を小説のなかで遊ぶ楽しさを知ってしまったんですよ。だからもう一度あの場所で遊びたいと思った。それが元になって出来たのがこの『僕が殺した人と僕を殺した人』なんです。
ただ、『流』の主人公は17歳から始まるんですが、その年齢くらいになると女の子に対する興味など色々な要素が入り込んでくる。少年たちだけで物語を完結させたいとなると、13歳くらいがちょうどいいんですよね。それで13歳のユン、ジェイ、アガンが生まれたというわけです。
―― では、この作品は『流』の続編というような感じなのでしょうか?
東山: 同じ街を舞台としているし、微妙につながりを持たせてもいますが、続編という感覚はないですね。別の独立した作品です。
『スタンド・バイ・ミー』『少年時代』などの青春小説から影響
―― 本作の前半は台湾パートが核になり、後半は2015年のアメリカパートが核になります。アメリカという国が本作のシンボリックな部分を受け持っているようにも感じますが、なぜアメリカが舞台なのですか?
東山: これはいくつか理由があります。まずは台湾って親戚がアメリカにいる人がすごく多いんですよ。何かあったときに海外に頼れる人がいるという保険をかけているんです。僕の家族も半分くらいはアメリカに移住しています。だから、台湾の状況を表現する手段としてアメリカがあったわけです。
もう一つは、僕らは子どもの頃から好む、好まないに関係なくアメリカの文化に触れてきています。だからイメージしやすい。実際に僕はアメリカに行ったことがないのですが、アメリカに対するイメージは浮かびます。そのイメージが正しいかどうかは関係なく、イメージで書ける場所ということで設定しやすさがありました。
―― 「連続殺人鬼」という猟奇的な事件もアメリカならばしっくりきます。
東山: そうですよね。そういうイメージに合致させたところはあります。
―― アメリカではなく日本を舞台にすることは考えなかったのですか?
東山: なるほど。それはなかったですね。読者が日本人であると想定したときに、遠い異国で起きた設定にすれば、ある種のリアリティをもって受け止められるのではないかと思っていました。実際にフィクションであり、サックマンも存在しないわけで、日本を舞台にすると、よりフィクション性が強くなるような気がしますね。
―― 本作に関するレビューを読むと、物語をスティーブン・キングの名作『スタンド・バイ・ミー』に重ねる読者も多いようです。実は私も読後感が似ていると思いました。
東山: 『スタンド・バイ・ミー』もそうですし、ロバート・マキャモンの『少年時代』、ジョー・R・ランズデールの『ボトムズ』、あとはスウェーデンの作家のミカエル・ニエミが書いた『世界の果てのビートルズ』といった青春小説はもともと好きなので、その影響が累積しているのかもしれません。
―― 『スタンド・バイ・ミー』は映画でも高い評価を得ています。東山さんは『ありきたりの痛み』というエッセイ集で映画評を書かれていましたが、映画からヒントを得ることはないのですか?
東山: 作品の執筆というところでいうと、実は小説を書き始めた頃は「映画みたいな小説を書こう」と思っていたんですよ。映画化されるような小説を書きたいとか、映画に関する仕事もしてみたいということを、デビュー当時は考えていた気がします。
ただ今は心境の変化があって、映像化しやすい作品が良い作品だとはかぎらないんじゃないかという気持ちがあります。映画化するときに最初に削られちゃう部分に小説としての栄養があると思っていて、そこを丁寧に書くことがおそらくは文章にしかできないことではないかと。
―― つまり、文章しか表現できないことですね。
東山: そういうことになりますね。その世界でしか通じない一言なり、突き抜ける一言が書ければ良いと思っています。
直木賞を受賞すると何が起こる? 作家にとっての文学賞とは
―― 現代の文学では「越境」という言葉がキーワードの一つになっています。東山さんは台湾国籍を持ちながら日本で日本語を使って小説を書かれていますが、「越境」について意識されることはあるのですか?
東山:
全く意識をしていません。実は『流』を書いた後、にわかに僕の作品が「越境文学」として扱われるようになったことがあり、戸惑ったことがあるんです。
そこで「越境文学」について調べてみると、定義が定まっていない。昨年台湾の高雄にある大学で越境文学のシンポジウムがあり、出席されたいろんな大学の先生方にも聞いてみたのですが、明確な定義はまだないそうなんです。
一応、日本をベースにして考えたときに「外国人が日本で、自分の母国語ではない日本語で小説を書いたら越境文学」になるという定義は一つありそうなんですが、これを当てはめると僕の小説は全部「越境文学」になってしまいます。こんなおかしな話はないでしょう。
ただ、作家としてこれまでを振り返ったときに、越境によって他者と出会い、そこに葛藤が生まれて価値観が相対化していくという要素が作品に入り込んでいるのであれば、曲りなりにも越境文学と呼んでもいいのではないかと思うんですね。
作家自身が越境したその経験に基づいて書いたり、物語の主人公が越境して他者と出会ったりすることで、読者自身も価値観の相対化をせざるを得なくなる。そして読者と本の間に葛藤が生じるというところまでいければ、越境文学の役目は果たせるのではないかと。ただ自分の作品がその役目を果たせているかどうかは分かりません。
―― 東山さんは2015年に『流』で直木賞を受賞されましたが、台湾では“東山フィーバー”が起こったそうですね。エッセイ集を読ませて頂きました。
東山: それは言葉のあやです(笑)。でも、去年は台湾総統にもお会いしましたし、翻訳版も出版していただきました。また、台湾に金石堂という大きな書店があるのですが、そこで毎年行われている「その年最も影響力のあった10冊の本」というフェアの中にも選んでいただきました。
―― 台湾で自分の書いた小説が出版されるということに、日本とは違った緊張感があるのではないですか?
東山:
そうですね。『流』は台湾が舞台ですし、台湾人ならば知っていることもたくさん書かれているから、目新しさはないんじゃないかと思っていました。
でも、若い世代の読者からは意外な反応が返ってきていて、過去の歴史を知らなかったから知れて良かったという声が多かったんです。これは新鮮でした。
―― では、直木賞を受賞されてから日本での私生活で変化はありましたか?
東山: 私生活ですか…。何かあったかな。
―― 街で声をかけられるようになったとか。
東山: そういう意味では、福岡に住んでいるのですが、情熱的な方が多いのでよく話しかけられるようになりましたね。おばちゃんたちに「あなた、もしかして…?」と。でも名前までは覚えてもらっていないのですが(笑)。
―― 逆に戸惑いみたいなものはなかったのですか?
東山: 『流』に関して言えば、意図しないところに注目が集まって戸惑ったことがあります。僕がまだ台湾にいた頃は、戦争の影響で戒厳令が敷かれていました。だから台北のことを描くためには戦争の話を持ち出さないといけなくなるのですが、その部分が注目されてしまったんですね。
ただ、僕は歴史の専門家ではないし、戦争について何か問われても答える力がない。一家言あるわけでもない。だから、その部分について問われても「説明する力はないので」と断っています。
―― 直木賞をはじめさまざまな文学賞を受賞されていますが、東山さんにとって「文学賞」とはどんな意味を持つのでしょうか。
東山: 僕にとっては「次の本を出してもらえるための回数券」ですね。著作が売れない時期を長く経験してきたのですが、次の本を出すためには売り上げが必要です。ただ、次の本を出す説得材料としてもう一つあるとすれば、それは文学賞ではないかと。もちろん永遠に使えるパスではなく、何回か使える期限付きの回数券ですけどね。
東山さんはテキーラ好き そして影響を受けた3冊の本とは?
―― ここからは事前に新刊JPの読者の皆さんから預かった質問にご回答いただければと思います。40代女性の方から。「東山さんは背も高くスレンダーで、とてもオシャレだなという印象ですが、お洋服は自分で選ばれているのですか?」
東山: 洋服はまったく分からないので、自分一人では怖くて買えないんです。だから背中を押してくれる人がいないと買えないので、だいたい妻と買いに行きます。妻が見立てて、「これ着てみたら?」と言ってオススメしてくれる感じですね。
―― では、もう一通行きましょう。20代女性の方から「書きたくないときはありますか? そういうときはどうしますか?」という質問ですが…。
東山: 書きたくないときは書きません。ただ、書けなくなってしまった、スランプに陥ってしまったというときはどうすればいいかというと、とりあえず机の前に座ってパソコンを立ち上げ、決められた時間そこにいるようにしています。キーボードを触っているうちに文章が流れ出すこともありますし、そうやって脱していくのだと思いますね。
―― 小説を書く時間は決まっているんですか?
東山: 決まっていて、だいたい朝です。年ですから、早い時間に目覚めてしまうので(笑)夜はもう眠いですね。
―― 東山さんはテキーラがお好きだと聞きましたが、夜遅くまでお酒を飲まれているのかと。
東山: いやいや、そんなに飲みませんよ(笑)テキーラは好きです。でも毎日は飲みませんし、家ならばショットグラスで1、2杯程度ですね。夜は本を読む時間にあてたいので、深酒しないようにしています。
―― テキーラの魅力について教えて下さい。
東山: 美味しいというのが一番なんですが、僕が好きな小説家には南米出身の作家が多くて、テキーラを飲むとその世界に入っていけるような感覚があるんですよね。その理由で南米音楽も好きなのですが、お酒の中に物語がありそうな気がするんです。
―― では最後に、東山さんがこれまで影響を受けた本を3冊、ご紹介いただけないでしょうか。
東山: まずはエルモア・レナードの『グリッツ』。警察小説ですね。僕はレナードをきっかけに小説にはまったのですが、この人の描く愛嬌のある悪党や気のきいた会話は大好きです。
2冊目はチャールズ・ブコウスキーの『くそったれ!少年時代』です。いまだに大好きな本で、乱暴で無頼、露悪的な部分を含めて優しさを感じます。ダメっぷりを曝け出して、「お前ら、そんなことで悩んでいるんじゃない。俺なんかこんな感じだぞ」って言っているような感じがしますね。
最後はガルシア=マルケスの『百年の孤独』ですね。これはマジックリアリズムの最高峰で、この作品をもし映画にしても、面白くなるはずがないんです。なぜかというと、ストーリーだけを追う映画というメディアでマルケスの世界を純然に表現できるはずがないから。この小説の栄養は地の文章のところにあって、そこが最も美味しいところだと思います。小説の力、文章の力を教えてくれた小説ですね。
取材後記
直木賞受賞の記者会見やインタビューなどを見るたびにイケメンだと思っていた東山さんですが、実際にお会いしたらさらにイケメンでした。それは雰囲気や語る内容についてもそう。格好良さとそして気さくな人柄にすっかり魅了されてしまいました。
インタビューの中でも語られているように、『僕が殺した人と僕を殺した人』はこれまでの青春小説の影響を感じるミステリー作品で、その読後感は少年時代を思い出させる郷愁さと爽やかさ、そして無力感が織り交ざるものでした。私としても2017年、イチオシの小説です。ぜひ読んでみて下さい。