モチーフとなったのは自分が抱いた「殺意」だった
―― 『La Vie en Rose ラヴィアンローズ』についてうかがっていきたいのですが、この物語はどのようなモチーフをもとに書かれたのでしょうか
村山:
この小説の核となる部分は殺意の場面です。傍から見れば幸せに溢れた春の日の光景の中で、包丁がキッチンに並んでいる。「殺意とはこんなに静かなものなのか」というあの場面は、私自身の経験に基づくものなんです。
その殺意の話を『小説すばる』の前編集長だった高橋秀明さんに伝えたところ、「それだけで小説の一部分になるから、そこを核に村山さんに一つの小説を書いてほしい」と言っていただいて生まれたのが、この『La Vie en Rose ラヴィアンローズ』という小説です。
―― 作中にはイプセンの戯曲『人形の家』の名前が出てきます。確かに抑圧された環境下にある女性が自分を解放していくというところでこの物語と重なるところがありますが、それも下敷きの一つなのでしょうか。
村山:
女性が社会に進出していると言われてはいますが、実際に社会の中で活躍をしている女性も、いざ家庭に戻ると、夫や恋人、親といった近しい関係の中でも昔と違うように振る舞えているのか。まだ男性が自分の力を誇示するような場面があったり、女性が反発できない場面もあるのではないかと思うんですね。
『人形の家』は19世紀のノルウェーで書かれました。国も時代も違うけれど、その本質はあまり変わっていないように感じます。
―― この小説は、主人公の咲季子、夫の道彦、咲季子の担当編集である川島孝子、本のデザイナーの堂本という4人によって進んでいきます。その4人の間の関係の濃さが絶妙です。
村山:
登場人物がほとんどその4人だけですからね。咲季子は夫の道彦によって付き合いが限定されている女性で、自分で作り上げた薔薇の庭で評判を得て、本を作ることになるわけですけど、それがなければずっと目をつぶって、道彦の価値観の中だけで生き続けていたかもしれません。
ただ、川島と堂本という人物と出会い、関わりを持ってしまったばかりに、彼女は目を開かれてしまったわけです。
自分とかつてのパートナーを重ねた登場人物たち
―― 「咲季子」という主人公はどのように作っていったのでしょうか。
村山:
「殺意の場面を核に書いてほしい」と言った高橋前編集長は、この連載が始まる少し前に急逝しました。
この小説を読んでいただく前に逝ってしまわれたことは残念ですが、その意思を引き継いで、雑誌と書籍の担当2人とどのように物語を作っていくかを話していたんです。
そこで「村山さんは庭いじりを趣味にしているので、ぜひとも(小説の中で)庭に穴を掘ってほしい」と言われまして(笑)。そこでもう、咲季子が夫の道彦を殺めてしまうことは決まっていたんですね。
そのときどのように犯罪を隠ぺいするか、女性一人なら大の男を遠くへ運ぶことはできない。ならば庭に埋めてしまおう。その庭は、咲季子が育てた薔薇が咲き誇っている。そのようにしてジグゾーパズルのように組み合わさっていきました。タイトルも早い段階から決まりましたし。
―― それが『ラヴィアンローズ』ですね。
村山: そうですね。すでにエディット・ピアフの歌と重ねて描くことも決めていました。
―― 「薔薇の庭」の描写が非常に丁寧に書かれているのが印象的でした。
村山:
「薔薇の庭」についてはかなり克明に書いています。
咲季子の造形は、とにかく庭に命を懸けている、庭を守りたいと思っているところが核です。彼女は透明な檻の中にいるけれど、その檻の存在には気付いていない。ただ、薔薇の庭が自分にとってただひとつの自由の場であり、庭だけを支えに生きています。
それがこの結末を呼びこむわけで、男がきっかけでいざこざが起きてしまい、それがどんどん引き返しがたい方向に進んでいってしまうんです。
―― 咲季子の夫である「道彦」は亭主関白な性格で、デザイナーとしても活躍しているように見えるけれど裏があるという人物です。
村山:
道彦は、かつて私の身近にいた男性がモデルです。私が殺意を抱いたのもその男性に対してでした。
だから、書きながらとてもしんどかったですね。モデルとなった人は長い年月にわたって深く関わった人で、いろいろあって一時は殺意を抱いたとはいえ、今は恨みがあるわけではないんです。むしろ感謝しかなくて、彼個人に対する感情は無色透明なんです。
それなのに、かつて自分が浴びた言葉や、その時の想いをもう一度掘り起こして書いていくと、平静ではいられないものがありました。言葉にはこんなにも効力があったのかと。まだ過去と冷静に向き合えない自分がいて驚きました。
「箱から取り出してもまだミイラになっていなかった」
―― もう平気だと思っていたけれど、掘り起こしてみるとそうではなかった。
村山:
箱から取り出してみたら、まったくミイラになっていなかった。生のまま、みたいな感じです(笑)。
『ダブル・ファンタジー』や『放蕩記』も書きながらしんどさを感じていたのですが、この『ラヴィアンローズ』とは地下の水脈がつながっていると思います。
ただ、この『ラヴィアンローズ』は虚構のはずなんです。そもそも私の家の庭には何も埋まっていません(笑)。虚構の世界を書いたはずなのに、どうして私小説的なあの2作とつながるのだろうと。
―― 『放蕩記』は村山さんと村山さんのお母様の関係を元に書かれた小説でしたよね。
村山:
そうですね。もちろんフィクションの部分はあるけれど、あの中に書いていることは、全て起こった出来事が下敷きになっていますというくらい自分に近かったんです。
この『ラヴィアンローズ』の、咲季子と咲季子を支配する夫という関係性は、『放蕩記』の中の主人公と母親の関係性とに似通っています。
『放蕩記』は母親の言葉で雁字搦めに縛られ、すべての行動を規定されている娘がいました。その行動を規定する人物が、『ラヴィアンローズ』では道彦という夫です。
―― 自分自身を掘り起こして、しんどさを感じながら小説を書くのは、精神的にも大変な作業ではないかと思います。途中で筆が止まることもあったのではないですか?
村山: ありましたけれど、突破しないといけない壁ですから、本当に追いつめられれば火事場の馬鹿力のようなパワーが出てきます。他の仕事だったら、しんどいとすぐに放り出してしまうんですけどね(苦笑)。自分に甘い性格なんです。
―― 小説に限っては最後まで書きぬく。
村山: はい。一度も途中でこの作品を書くのをやめようと思ったことはないです。座右の銘は「まあいっか」なんですが、小説に関してはそれはないですね。
難航したのは「死後硬直していくシーン」
―― 『ラヴィアンローズ』の中で最も難航した部分はどこでしたか?
村山:
何回も逡巡したところは、穴を掘って道彦の死体を埋めるところですね。
ただ、「穴を掘って埋めた」というだけならば楽なんですけど、どのように硬直していくのか、どのように腐敗していくのか、リアルに書かなくては物語に説得力がなくなるのに、私自身は残念ながら実際に死後硬直が始まった遺体を二つ折りにしたことはないわけで(笑)。
今まで自分の手触りとして残っているのは、死んでしまったネコや犬がどんな風に硬くなっていって、それはどれだけ絶望的な硬さなのか。もしそれが愛する人ならばどうなのか、かつて自分を傷つけた男ならば…と重ねていって、想像していくしかないんです。
やり方によっては書かずに済ますことができたシーンもあったかもしれないけれど、逃げてはいけないと思って書いていました。
20数年、この仕事をしていると、それなりの技術は身に付きます。もし逃げても「あ、ここは避けているな」と思わせないこともできるわけで、それでも今回はすべての過程を咲季子と一緒に追体験し、それを言葉に翻訳して書かないと、意味がないと思っていました。
―― 村山さんにとって、咲季子にとっての薔薇の庭のような何があっても守る存在はありますか?
村山:
今、一緒に暮らしているネコたちですね。彼らの一生は私が責任を持って面倒を見ないといけないわけですから。
私がいなくなっても面倒を見る人がいないわけではないと思えることは一つの安心ではあるけれど、もし私が一人であれば、なんとか守りたいと思うでしょうね。
―― そういえば、村山さんのツイッターでもネコの写真をアップされていますね。
村山:
作家のアカウントをフォローしたはずなのに、ネコと食べ物しか出てこないと言われることもあります(笑)。
でも、そういう存在がたまたまネコだったということであって、私の献身を必要とする相手に関して、途中で投げ出すことは無理ですよね。実人生ではそういう情を男性にかけてしまうからややこしいことになってきたわけですが(笑)。
小説で「不倫」を描く理由
―― この物語は不倫から大きな事件に発展していきます。今年は著名人の不倫のニュースが多く、そのたびに話題になりますが、村山さんは「不倫」を描くことで見えてくるものがあるのでしょうか?
村山:
世間一般のモラルや常識と、小説のモラルは別のところにあると思っています。もちろん、「不倫したっていいでしょ」と世間に向かって主張するつもりはないし、私自身も結婚していた身、今は大事な相手もいます。
パートナーに裏切られたらどれだけしんどいかということは分かっている。でも、人は過ちを犯す生き物であり、必ずしもいい加減な気持ちで不倫をしている人ばかりではありません。『ラヴィアンローズ』の咲季子のように、やむにやまれず、ということもあるでしょう。
いけないと分かっていてもおちてしまう恋もあります。それを小説で描くことはモラルに反することではないと思うし、むしろ分かっていても陥ってしまう人間の弱さや悲しみを書くことで、現実でその道を通らないで済むように疑似体験ができるということも、フィクションの強みです。
私自身はモラルに即した恋愛を書くときも、インモラルな恋愛を書くときも変わりません。
―― 男女が好き合うという形は変わりませんよね。
村山: そうですね。抑えていてもおちてしまうのが恋愛ですから。自分だけはそんな恋愛はしないと思っていても、好きになってしまったら踏み外すことはあり得ます。むしろ自分だけは大丈夫と思っている人の方が危ういかもしれません。
―― 村山さんにとっての転換点となった『ダブル・ファンタジー』を読んだときはこんなにドロドロした小説を書くんだ!と驚きました。賛否両論もあったと思います。
村山: 『ダブル・ファンタジー』は人間の根源的な部分に迫るものを書きたいと思ってチャレンジした作品でした。だから、賛否両論が生まれることは覚悟の上でしたし、あれだけの裏切りのような転身をして「素晴らしい転身です!」と言われても、作家的に気分が良いかと言われるとそうではないですよね(笑)。
―― もともとデビュー前にはそういった作風の小説を書かれていたんですよね。
村山: 暗い部分のあるサスペンスっぽい小説でしたが、本当に習作でした。未熟ではありますけど、裏切りや秘密の隠匿をテーマに書いていました。
―― 村山さんとしては、そちらのほうがご自身に近いのですか?
村山:
近い遠いはなくて、両方自分自身ですね。『天使の卵』のような世界観は嘘なのかと言われれば、そうではありません。今でもあの世界を希求する気持ちはあります。
『ダブル・ファンタジー』や『放蕩記』を出して、作風によって「黒村山」「白村山」と分けられることもありますし、私自身もそれに乗って話すことはありますが、白と黒が自分の中ではっきりと分かれているかというとそうではないんです。
どちらも自分であり、月の表側と裏側のような関係にも似ています。見えなくてもその半分があって初めて球体になる。
村山さんが影響を受けた3冊の本とは?
―― 村山さんの小説を執筆するモチベーションはどこにあるのでしょうか。
村山:
私にとって、続けられるものが小説を書くことだけだから、というのが一番近いかもしれません。他のことは興味を持ってはじめても続かなかったけれど、小説だけは23年間ずっと続けてくることができました。
もう一つ、子どもの頃から厳しい母が唯一認めてくれていたのが文章だったんです。そのおかげで、ふだんどんなに否定されたとしても、書くことに関してだけは、私自身も自分を認めてやれた。その想いを今も引きずっているところはありますね。その唯一を他人に奪われたくないという気持ちがありますし、文章で世に出て、この仕事を続けさせてもらって、今がある。
今は求められて小説を書ける立場にあって、それはすごく恵まれていることだと思います。だから、村山由佳の小説を期待してくれる方々の想いに応えるような作品を書かないといけないという、ある意味職人的な気持ちがありますね。
―― 『天使の卵』で作家デビューしてから23年、小説家として書きたいものは変わってきましたか?
村山:
行き着きたい場所は変わらないと思います。ただ、同じ山を登るにしても足場の悪い、険しい道を選んだり、登頂したときに達成感がある方を選ぶようになったという変化はありますね。
根源的なテーマは「それでも人は生きていかなければならない」というところにあって、それが晴れやかな形で提示できるときもあれば、そうではないときもあります。でも行き着く場所は同じ。それが私にとって小説を書くという行為なんだろうと思います。
―― では最後に、村山さんご自身が影響を受けた3冊の本をご紹介いただけないでしょうか。
村山:
一冊目は『ごんぎつね』です。「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」と兵十が気付いた瞬間に、ごんは死んでしまう。人と人はこんなにも分かりあえないものなのかということを、最初に私に叩き込んでくれたのがこの作品でした。
だから『天使の卵』は、私にとっての『ごんぎつね』のようなところがあります。まさに原点ともいえる本ですね。
二冊目はジョン・スタインベックの『ハツカネズミと人間』です。これも悲惨な、理不尽な物語ですね。初めて読んだのは小学校5年生のときで、分からないことがたくさんあったんです。
ただ歳を重ねて、人生経験を増やすごとに理解できる幅が広がっていき、「人は自分の経験で小説を翻訳して読む」「経験値が増えると物語を深く読めるようになる」ということに気付かされました。実体験をともなわない限り、読書だけでは人は成熟しないというところですね。
三冊目は佐藤愛子さんの『戦いすんで日が暮れて』という、私が生まれて間もなくに直木賞を受賞した古い作品です。
愛子先生の体験がベースになっているのですが、別れた旦那さんの借金を本来なら背負わなくてもいいのに、「私が返します!でも今は一銭もお金がない。返してほしければ働く私の邪魔をしないで!」と言って借金取りたちを追い返す。しかも結局は借金をきっちり返してしまう。
すでに90歳を超えられていますが、2年ほど前に『晩鐘』という、『戦いすんで日が暮れて』から連なる長編小説を書かれています。愛子先生の作品は、女性が一人で物書きをして筆一本で生きていくことの壮絶さが胸に迫ってきます。私自身、励みになりましたね。
取材後記
個人的に、女性の作家さんにお話をうかがうときは、普段とは違った緊張感を持ってのぞむのですが、村山さんはどんな質問にも丁寧に答えてくれました。ありがとうございます。
さて、この『ラヴィアン・ローズ』は女性視点で進んでいくサスペンスですが、男性の視点で読み進めていくと、女性の「怖ろしさ」に震えてしまうかもしれません。そのくらい衝撃の走る小説です。
インタビュー中には、また『天使の卵』のような小説も書きたいとおっしゃっていた村山さん。次回作にも期待です。