幕末の女商人・大浦慶 その実像は
―― 『グッドバイ』は幕末の茶葉商人・大浦慶の一生を通して外国勢力に翻弄されながら近代化の道を歩み始める日本が描かれています。坂本龍馬や西郷隆盛など「ヒーロー」に事欠かないこの時代を書くうえで、朝井さんが選んだ大浦慶という人物はややマニアックな印象を受けました。
朝井: 幕末といえば新選組など、有名で人気のある題材があって私も好きなのですが、この時代は日本の中の出来事だけでは見えないことがあるんじゃないかと思っていました。つまり、世界の歴史から日本を見ると、何が浮かび上がるのか。
すると、舞台はやはり長崎になるんです。幕末の動乱期、日本じゅうから志士が集まり、そして諸外国からも様々な思惑を持って商人が訪れます。まさに坩堝(るつぼ)です。そこで、彼らと交流のあった大浦慶を主人公に据えました。
―― 「こんなにすごい人がいたのか」と驚きました。女手ひとつで幕末の混乱期に茶葉交易を興して成功させたエネルギーには恐れ入ります。
朝井: 彼女は当時、外国の商人から最も信頼されていた日本商人でした。ビジネスを成功させただけではなく、後に大きな詐欺事件に巻き込まれたという人生の波乱も私には興味深かったです。光と影のコントラストが強い人ですね。
―― 2015年に葉室麟さん(故人)にインタビューをさせていただいたのですが、葉室さんは当時、明治維新を総括する必要があると考えていて、そのための題材として明治維新を最初から最後まで経験した数少ない人物である西郷隆盛を選び『大獄 西郷青嵐賦』を書かれました。同じく明治維新を扱った小説として朝井さんのアプローチはユニークだと感じたのですが、なぜ商人を中心に据えたのでしょうか。
朝井: ひと言でいえば、人間関係の豊富さです。大浦慶は日本人だけでなく外国人とも交流がありましたから、小説で彼らの本音を引き出すことができます。また、大隈重信のように後に明治の元勲になるような人とも接点がありましたから、彼らの若い時代を描くこともできます。政治的な人間関係は各々の「志」があるだけに、いい意味で直線的になります。ですが大浦慶は政治的な人間ではない、まごうかたなき商人であったという解釈を私はしましたから、有象無象の関係が広がりました。思想・主義ではなく、これは欲得絡みの人間関係の凄みですね。
私も葉室さんとは生前親しくさせていただいていたのですが、幕末から明治維新、それから第二次世界大戦までを「近代として総括しないといけない」というお話をされていました。今回の小説を読んだら何とおっしゃったか……。たぶん、「朝井さんらしいね」と苦笑いされるかな(笑)。
―― 大浦慶の人間関係ですが、坂本龍馬や近藤長次郎とも接点があったんですね。龍馬はじめ海援隊の人々を彼女の商いの拠点だった大浦屋の敷地に入れて、風呂を使わせたり小遣いを懐に入れておいてやるといった描写がありましたが、これは本当にあったことなのでしょうか。
朝井: お金を貸したり、面倒を見たりしていたのは確かだと思います。彼らにはスポンサーが必要でしたし、当時のお慶は間違いなく長崎の大立者でしたから。小説には書きませんでしたが、大浦慶は龍馬の写真を持っていて、仏壇の中にしまっていました。だから、「二人は恋愛関係にあったんじゃないか」と推する人もいます。
―― 確かに、勘繰ってしまいますね。
朝井: ただ、私は違うと感じました。ですので小説では、龍馬は「ある理由」でお慶に自身の写真を渡したことにしました。
―― 現代の読者、特にビジネスマン層に訴求しやすいようにということなのかもしれませんが、幕末を書く小説は坂本龍馬や西郷隆盛といった英雄たちを「あるべきリーダー像」として打ち出そうという書き手側の思惑が感じとれることがあります。ただ、この小説はそうではないですね。
朝井: 「この人のこういう部分、こういった事象が現代に通じる」といったことは、まったく意識せずに書いています。小説は読んでいただいて初めて完成するようなところがあって、読者一人ひとりが何をどう感じて、どんな像を結んでくれるか、書き手には未知数です。だからこそ書くことは面白いし、可能性がある。読者の受け取り方まで書き手が設定してしまうと、小説としてはトゥーマッチだと思っています。
私は「この主人公はここでどう考えるやろう?」とか、「ここでどう動く?」といったことを懸命に想像しながら、でも構えとしては絵画の写実のような筆の動かし方です。目に映る、そのままを掬い取っていきたい。彼女の人生を丹念に描くことで、あの時代の感情にも迫れるのではないかと思いました。
―― ただ、やはり商人ですからビジネス的な要素はありますよね。彼女の家は代々油商人だったわけですが、この商いが先細りだと見て、たった一人で茶葉の交易に乗り出しました。いわば「新規事業」を立ち上げたわけで、その勇気には学ぶところがあると感じました。
朝井: 勇気というか、やることが無茶苦茶ですよね(笑)。ただ、ある時期主な収益源だった商売が、安い商品が出てきたりすることで先細るという流れは幕末も今も変わりません。「何か新しい柱を」と考える人に対して、既得権益を持つ人が反対するという構図も同じですよね。
その反対を振り切って、世界とつながる仕事をした商人がいたという史実があるのです。大浦慶は未熟で無鉄砲で、周りはさぞ大変だっただろうという女性ですが、彼女はある時期、日本経済を確かに支えていました。
史実だけ見てもわからない「幕末」という時代
―― 大浦慶の人物像はどう作っていったのでしょうか?
朝井: 史料を繰って、あとはただひたすら推測、想像です。今、そこに生きて動いている彼女を、悩み、苦しみ、グラバーと葡萄酒で乾杯している姿も想像して、書き写す。そうして書き継ぐうちに、ああいう人になったとしか言えないです。身も蓋もないですが(笑)。
―― 意外だったのですが、彼女について書いた本はそれなりにあるんですよね。
朝井: そう、けっこう有名人なんですよ。評伝も種々ありますし、NHKの「龍馬伝」では余貴美子さんが大浦慶の役を演じていましたね。妖艶で、かっこいいお慶でした。
実際、昔の評伝では、亀山社中の大スポンサーで、男たちを夜な夜なとっかえひっかえする怪しげな女商人という描かれ方をしたものもあります。女でありながらビジネスで大成功を収めたから、色欲もさぞ強いのだろうと、下世話な見方ですよね。それが長年引き継がれて、彼女のイメージを歪めてきました。
―― 『グッドバイ』では、彼女の男性関係についてはほとんど触れられていませんね。
朝井: 資料を読んでいると、男性とは縁のない人だったように感じたんです。恋愛沙汰があった方が小説としてはドラマチックになるのかもしれませんが、彼女の人生を見ていると、どうも恋愛している暇がない(笑)。長次郎に寄せた想いはまったく別物で、あの想いにこそお慶らしさがあると私は思っています。タイトルにも深くつながっている部分です。
―― 彼女の周辺の人物も、それぞれに個性があってすばらしかったです。彼らについても史実に基づいて書いているのでしょうか?
朝井: そこはフィクションの部分が大きいのですが、史実と組み合わせて造形した人物も多いです。
たとえば大浦屋の奉公人として登場する友助は実際にいた人物で、奉公人という立場にもかかわらず、大浦家の墓所に葬られていて、過去帳にも名前が載っています。
作中で書いた彼の人生については創作ですが、お慶にとって何か強い思い入れがあった人なんだろうなという考えが土台にあります。
―― セリフなどから垣間見えるオルトやグラバー、テキストルといった当時日本にやってきていた外国人たちの思惑が生々しかったです。なぜ日本に目をつけたのかについても、それぞれに事情と狙いがあってすごくリアルに感じられました。
朝井: それこそが大浦慶を主人公に選んだ目的の一つだったので、そう言っていただけるとすごくうれしいです。当たり前のことですが彼らの日本観もさまざまで、グラバーのように自分が破産しても日本に尽くしてくれた人もいれば、そうでない人もいます。
―― 日本や日本人を下に見ていた人もいたようですね。
朝井: そう。明治に入ってからも、不平等条約が続いていた間は不心得な外国人も多くて。船の雑役婦や港の人足として日本人を雇いながら報酬を払わなかったりといったことも、頻発していたようです。
もちろん、外国や外国人によって日本にもたらされたものは多いわけですが、それは「維新」ありき、「近代化」ありきの見方であって。彼らの感覚的な日本観を、私はリアルに書きたかったんです。
―― そこは史実だけ見ていてもわからないところです。
朝井: 大雑把な言い方をすると、フランスは幕府についていましたし、イギリスとアメリカは倒幕派についていましたよね。当然、各国それぞれに思惑があって、彼らの覇権拡大闘争の一環として日本で動いていたわけですが、維新が成って日本の近代化が進むと、今度は「近代化によって日本人はいいところを失った、あんなに幸福そうな人々はいなかったのに」なんて惜しむんですからね(笑)。
近代化を急いだあまりに何を失ったのかは、今の日本人ならわかることですが、当時の人はまだわからなかったはずです。ただお慶の逡巡、疑問、予感めいたものに象徴させた通り、本作の重要なテーマにもなりました。
何か一つでも新しいチャレンジを
―― 『グッドバイ』もそうですが、朝井さんの小説は歴史を正面ではなく、横から見ているところがありますね。このスタイルは小説を書き始めた頃から一貫したものなんですか?
朝井: へそ曲がりなんです(笑)。私はデビューしたのが50歳前と大変遅かったので、執筆経験が少ないんです。だから自ずと、書くつどチャレンジになるんですね。今は自覚的に、何か一つでも、ささやかでも、前作とは違った挑戦をしようと思って臨んでいます。
―― 自己模倣はしないように、ということですか?
朝井: 自己模倣といっていいのかわかりませんが、『眩』(くらら)という作品で浮世絵師を書いたので、もう浮世絵師はやらない、などですね。書く時はその世界のことを調べますから、同じ題材でやろうと思ったら基礎知識のある状態で始められるし、たぶん深いところまで潜っていける。その利点はわかっているつもりです。でも今は、毎回新しい世界に入っていく方が私自身が楽しいんです。
「これ、朝井が書いたの?」と驚かれるようなものを毎回書きたいです。
―― ある人から、朝井さんは「囚われの人」を書く描写に定評があるとお聞きしました。
朝井: 牢屋でしょう? 本当にやめてほしいんですけど、編集者さんからも「牢屋を書かせたら日本一」とか言われるんですよ。正直、ちっとも嬉しくない(笑)。
ただ、牢屋って想像のしがいがありますよ。密室ですし、中の匂いや冷たさなど、感覚的なものを書いているうちに、だんだんノリに乗ってきて……。
―― 歴史小説を書く時の題材選びについて教えていただきたいです。
朝井: 以前から興味を持っていた人や事象に取り組むこともありますし、編集者さんから「こういうのを書きませんか」と提案していただくこともあります。提案していただいてから何年も過ぎて、やっと「そろそろやってみましょうか」となることもありますね。
―― ちなみに今ご興味がある人やテーマはありますか?
朝井: 今すでに着手しているものは別にして、「琉球」についてはいずれ必ず書いてみたいと思っています。私の祖母が琉球出身で、「まかて」という名前も祖母の琉球名から付けました。このペンネームでデビューしちゃった以上、これはもう宿命でしょうね。
書く前にあまり話すと違うことをやりたくなるので、ここまでにします(笑)。
―― 朝井さんが人生で影響を受けた本を3冊ほどご紹介いただければと思います。
朝井: ユクスキュルの『生物から見た世界』と、チェーホフの短編集。もう一冊は石牟礼道子さんの『苦海浄土』です。
『生物から見た世界』は、私たちの「心」は自身の胸の中にあるわけではなく、他者との関係性の中にあるということに気づかされます。一人ひとりの生きている「世界」は、違うのだということにも。そういう感覚を私ももともと持っていて、この本に出合ったことで確信を深めたところがあります。人間中心のものの見方や考え方を、優雅にひっくり返してくれる本ですね。
チェーホフは、もう「とにかく好き」としか言いようがない(笑)。「いつかこういう境地に達せられたらいいなあ」と思う作品が多々あります。いろいろな訳が出ていますが、沼野充義さんの訳が好きです。
普段、起きてから寝るまでずっと小説を書いているか資料を読んでいるかなんですけど、寝る前だけは自分の楽しみのための読書をしようと決めていて、チェーホフの短編集は必ず枕元に置いています。
―― 『苦海浄土』についてはいかがですか?
朝井:
ご存じの通り水俣病について書かれた小説ですが、ところどころに当時の新聞記事だとか報告書の類が引用されているんですね。だから、こちらもレポートを読んでいる感覚で読むわけですが、ある時にはたと「これはフィクションなんだ」と気づく瞬間がある。
ともかく描写が素晴らしいんです。公害や震災に対して何かを投げかける時に、情緒的に書くと本質から外れてしまうんじゃないかという恐れが私にはあるのですが、石牟礼さんは水俣の海がかつてどんな色をしていたか、水銀を飲んだ猫が狂い踊っている様子などを、苦しみながらですが情感を交えて書いています。
明治以降、近代化を推し進めた日本は、その矛盾、欺瞞を昭和という時代まで持ち越してしまいました。あの事件は歴史そのものを孕んでいます。
小説家としてのありようや小説の使命のようなものが、あの小説の中にある気がしています。かつての水俣の海の美しさを、実際には見たことがないのに私はもう知っているんです。『苦界浄土』を通して。
―― 最後に、『グッドバイ』について朝井さんの読者の方々にメッセージをお願いいたします。
朝井: 幕末という時代に、市井のいち女商人が確かに世界とつながっていた瞬間があったということを知っていただけたらうれしいです。彼女が当時見ていた景色を、幕末から明治にかけて日本と世界が持っていた感情を、ぜひ体験していただきたいです。
取材後記
『グッドバイ』で書いた時代について、主人公の大浦慶について、ご自身の創作方法について、そして交流があったという葉室麟さんとの思い出について、丁寧に語る口ぶりが印象的でした。
「書くつどチャレンジ」という姿勢には襟を正す思いでした。朝井さんが、次作でどんなチャレンジを見せてくれるのか。いち読者として本当に楽しみです。
(インタビュー・記事/山田洋介、撮影/金井元貴)