「MONKEY」創刊は「魔が差した」
―― まず、柴田さんが「責任編集」として携わっている文芸雑誌「MONKEY」についてお話をうかがいたいと思います。長く翻訳家として活動されている柴田さんが雑誌制作に関わったきっかけはどんなことだったのでしょうか。
柴田: 知人に「やりましょー」と言われて、勢いで始めました。郷雅之さんという、以前みすず書房にいたフリーの編集者が言い出しっぺです。
―― 文芸雑誌の売り上げが良くないと言われて久しいなかで、新しいものを始めるというのは勇気のいることだと思います。
柴田: 「なぜ始めるのか」とかそんなにちゃんと考えたわけじゃないです。文壇だとか文芸誌に不満があったわけではないし、「文芸誌はかくあるべき」という考えがあったわけでもありません。
ただ、アメリカの文芸誌を見ていると、日本より自由というか、インディーズなんですよね。日本だと大抵が月刊で、大手出版社から出ていますから、年に12回きちんとしたものを出さないといけない。考えてみるとこれってかなり過酷な条件ですよね。
こういうのを「本物の文芸誌」だとして、それとは違った何かおもしろい「偽文芸誌」ができないかと夢想したことはありましたし、やるなら既存の雑誌と同じことをやっても仕方ないとは思っていました。まあ、魔が差したとしか言いようがない(笑)。
―― 「責任編集」の中身が気になります。企画やコンセプト作り、掲載作品の翻訳以外にはどんなことをされているんですか?
柴田: この雑誌での僕の一番大きな仕事は、校正・校閲です。
―― えっ、それは意外です。
柴田: 専門に校正をする人がいないので僕がやっています。「この行、一文字増やす」とか「ここは半角でなく全角に」といった指示を、気合い入れて出してます。
たとえば「揃う」という字の作りの「月」の部分は、横棒はまっすぐではなくて、左上から右下に向かって斜めに垂れています。そういうところがきちんとしているかどうかで僕自身まっとうな出版社かどうか判断しますし。だからたまに誤植が出てしまうとすごくくやしい。
―― 「MONKEY vol.14 絵が大事」の号でも、最新号の「MONKEY vol.15 アメリカ短篇小説の黄金時代」でも、ご自身でかなりの量を訳されていますよね。それに加えて校正・校閲もするとは……。
柴田: 自分で翻訳をやってるのは単にお金がないからですね。「広告0で赤字の出ない文芸誌を出す」が大前提なので。
―― それはものすごく難しいことですね。
柴田: 日本に限らず、他の国でも文芸誌で元がとれるなんて普通はありえないです。だからできるだけお金をかけずに作るわけですが、編集長が自分で古典を訳せば版権料も翻訳料もかかりません。これが一番、ページ単価が安い。なんだかお金の話ばかりですが(笑)。
でも、自分で翻訳をやるのは精神衛生的にもいいんですよ。
―― 他人の翻訳には口を出したくなったりしますか?
柴田: 口を出したくなりますし、逆に「でも僕がここまで口出しすべきじゃないよな」と考えてしまったりもするしね。そうやってあれこれ考えるより、自分で好きにやった方が気持ちいいです。時間はかかりますけど。
―― 毎号組む特集の内容はどのように決まっていくのでしょうか?
柴田: そこは雑誌づくりのセンスがいるので、編集会議をやって皆で決めています。スイッチ・パブリッシングの新井敏記社長とデザイナーの宮古美智代さん、あとスタッフ2人と僕の5人で編集会議をやって、そこでできるだけ民主的に決めているつもりです。そこで特集のタイトルが決まると、その号の全体像が見えてきますね。
―― 前号の「絵が大事」という特集の中では、ジェシ・ボールとブライアン・エヴンソンのセッションにリリ・カレの画が入った「ヘンリー・キングのさまざまな死」に惹かれました。こうしたセッションのセッティングなどもされているんですか?
柴田: あれはできあがったものがあって、それを僕が訳して掲載しています。エヴンソンは僕が前から訳している作家で、ものすごく売れているというわけではないから、自分が書いているものを気軽に送ってくれるんです。「ヘンリー・キングのさまざまな死」も、アメリカでの出版社が見つかる前にPDFを送ってくれましたから、イベントなどでスクリーンに映して朗読したりしていました。
―― エヴンソンは柴田さんの訳で馴染みがあるせいか、アメリカの有名作家だと思っていました。
柴田: いわゆる「ライターズ・ライター」です。好きな人は熱烈に好きだけど、ちょっと本を読むくらいの層は知らないと思います。
ミネソタに「コーヒーハウス・プレス」というノンプロフィットの出版社がエヴンソンの本を多く出しているんですけど、そこが抱えている作家はすごくいい人がたくさんいます。レアード・ハントとか、カレン・テイ・ヤマシタとか。
―― 日本では馴染みがありませんが、非営利の出版社というのがあるんですね。
柴田: そうなんです。そういうところはたぶん、営利の出版社よりも採算を気にしなくていい。それにしてもよくやってるなと思います。地元の人もそういう出版社を誇りに思っていて、寄付がよく集まるみたいです。
―― すごくいい関係です。
柴田: 日本でも最近、クラウドファンディングで一般の人から出資を募ることがありますが、ああいうことがもっと楽にやれる体制があるんです。制度が整っていて税金の控除対象も広いので、寄付もしやすいですよね。
1990年代にスチュアート・ダイベックに会いに行った時、一緒に食事をしていたところへ「TriQuarterly」という文芸雑誌の編集者が来て挨拶をしていったんですけど、その後でダイベックが「ああいう編集者の仕事の三分の一は寄付集めだよ」と言っていました。
そうやって資金捻出に苦労しているので、文芸出版社も寄付を活用しているんだと思います。フランシス・コッポラがお金を出している「Zoetrope」のようにスポンサーがついてるのが一番楽でやりやすいんでしょうけど。
「誰もが高度なことをやっていた時代」1950年代アメリカ文学の凄み
―― クラウドファンディングといえば、柴田さんが選考委員として関わっている「日本翻訳大賞」も運営資金をクラウドファンディングで集めていましたね。
柴田: あっという間に何年分かの運営資金が集まって驚きました。半日で1年分が集まって、来年で5回目なんですけどそこまでは賄えるのかな。
続けていればもっと集まっていたはずですが、当初予想していたより遥かに多くの出資金をいただいてしまったので、運営の方で管理できるか自信がないということで予定期間の途中で閉じました。
―― 「編集長が自分で古典を訳すのが一番ページ単価が安い」ということをおっしゃっていましたが、「MONKEY」は最新のアメリカ文学の翻訳も掲載します。通常向こうで発表された作品が日本で本になるまでには「年」単位の時間がかかりますから、この即時性は考えてみるとすごいことのように思えます。
柴田: アメリカで発表された小説をすぐに翻訳して紹介できるのは一つの強みだとは思いますが、でも所詮は4ヶ月に一度の雑誌ですからね。タイムラグの短さを競ってもウェブには敵わない。
最新号の「アメリカ短篇小説の黄金時代」という特集は1950年代のアメリカ小説を取り上げていて、その中で村上春樹さんがジョン・チーヴァーの短編をいくつか訳しています。もちろん優れた小説だから訳して掲載しているわけで、そういうものと最新の小説とで原理的にどちらがいいということはありません。
それと、「MONKEY」の前には「モンキービジネス」という雑誌を別の出版社から出していたんですけど、それを始める時に、新しい情報を追うのはよそうと思ったんですよ。雑誌というと一般に、新作映画評があり、新作書評があり、新作CD評がありという感じで、新しいものばかりで「雑」じゃない。やるんだったら新作も50年前の作品も同じように取り上げたいという気持ちはあります。
―― 雑然とした多様性が欲しかった。
柴田: そうですね。その中で、本国でも活字になっていないくらい新しいものを出すとかね。そういうのならやっても楽しいかなと。
―― 最新号の見どころについてもう少しうかがいたいです。
柴田: 1950年代アメリカの、一番クリエイティブだった部分が見える号になったと思います。先ほどもお話ししましたが、この時代の最良の作家の一人、ジョン・チーヴァーの短編を6本、エッセイを1本村上さんが訳してくれているんですけど、チーヴァーは白人男性だから、黒人も女性もいた方がいいということで、彼を囲むような形で、別の何人かの作品を僕が訳しています。この時代についての村上さんとの対談もぜひ読んでみていただきたいですね。
―― 1950年代と、年代で言われるとどんな作家が活躍していたのかイメージできないのですが、リチャード・ブローティガンなどはこの時代の作家ですか?
柴田: ブローティガンはもう少し後で60年代の人ですね。50年代はヒッピー・カルチャーやベトナム反戦運動が出てくる前で、公民権運動はもう始まっていますが、全体としては冷戦で息苦しかった時代です。
ただ、この時代の芸術は総じて水準が高いんです。たとえばジャズだと、1910年代から20年代に生まれて、30年代にダンスのためのスウィングジャズが出てきました。40年代にビーバップという破壊的な音楽が生まれて、一部ミュージシャンのあいだで技術が飛躍的に向上します。50年代はその技術が全体に広がって安定してきた時期で、多くの人が高度でそれなりに新しいことをやっていた。
みんなが高いレベルで物をやれるという意味で、おもしろい時代なんです。それは小説も同じで、たとえばちくま文庫から出ているフラナリー・オコナーの作品集(『フラナリー・オコナー全短篇』)や、岩波文庫から出ているバーナード・マラマッドの短編集(『魔法の樽』など)を読めばある程度見えてくるんですけど、一冊の雑誌にまとめることでそれをパッと見せたいと思ったんです。作っていても楽しかったですね。
―― 50年代というと、たとえばノーマン・メイラーのような戦中派の作家もまだまだ現役でした。こうした作家たちの当時の評価はどういったものだったのでしょうか。
柴田: メイラーは戦争から帰ってきて『裸者と死者』のようなすごい小説を書いたことで、「こいつこそが“グレート・アメリカンノベル”を書く奴だ」と目されていました。結局書かずに終わってしまったみたいですが。
メイラーに限らず、この時代はヘミングウェイも生きていましたし、フォークナーのような戦前から活躍していた人もいました。サリンジャーやカポーティなど、戦中戦後に出てきた人も一番脂が乗っていた時期です。
―― 贅沢な時代ですね!
柴田: 60年代になると、今度は誰でも高度なことができるというのがだんだん息苦しくなって、それまでの流れを壊そうという動きが出てきます。ブローティガンやカート・ヴォネガットはそうした中で出てきた作家ですね。
50年代に話を戻すと、この時代は冷戦に皆が脅威を感じていて、頭痛薬と胃薬が手放せない一方で、「強いアメリカ」「正しいアメリカ」がしきりに喧伝されたというイメージがあります。それはそれで全然間違っていないのですが、そうではない一面もあって、それをこの号では見せたかった。
付け加えるなら、50年代って小説が商品になっていた最後の時代なんですよ。チーヴァーなんかは短編をこつこつ書いて、それで食べていたんですけど、今はそんなことできないです。
―― 確かに、今は難しいと思います。
柴田: 現状を知る方からすると、そんな時代があったことが驚きですよね。
もう少し時代をさかのぼるとジャック・ロンドンやウィリアム・サローヤン、スコット・フィッツジェラルドもそうです。ロンドンはパワーがあったから長編も書いたけど、だいたいは短編を高く売って食べていました。みんな結構お金のために書き殴っている(笑)チーヴァーの小説はそんな中でどれもレベルが高いです。
そのあたりの時代背景は小説だけ読んでも見えにくいので、村上さんとの対談の中で話しています。
日本は翻訳者へのリスペクトが強い国
―― 翻訳家という職業についてもお話を伺いたいです。日本では翻訳家はかなりリスペクトされていますが、欧米ではそうでもないということを「MONKEY vol.14 絵が大事」の号で書かれていました。
柴田: 欧米の翻訳者のエッセイなどを読むと、ほとんど愚痴しか書いてないですよ(笑)。自分達がいかに無視されているかという。
日本の場合、明治以来の伝統として「西洋は進んでいて、日本より高いところにある」という価値観があります。その進んでいるところのものを日本に紹介する橋渡し役ということで翻訳者がリスペクトされるようになったんだと思う。
―― 確かに、日本で翻訳者はクリエイターに近い扱いをされますからね。
柴田: 本当にそう思います。「誰が翻訳したのか」にまで読者の目が行くというのはすごいことです。
ただ、日本語はほかのたいていの言語とずいぶん違っていて、英語からフランス語みたいに機械的にできる部分はほとんどないから、今も昔もひどい訳は本当にひどい(笑)。そういう翻訳書も少なからずあるから、翻訳者に目が行くというのもあるんだと思います。他人のことを言うのは簡単ですが。
さっきお話しした「西洋は進んでいる」という価値観は訳し方にもあらわれていて、原文に対するリスペクトは欧米の翻訳者よりも日本の翻訳者の方が強いです。だから、英語の原文には忠実だけど日本語としては不自然というケースがどうしても多くなる。
逆に日本語を英語に訳す時は、「日本文学だけど、英訳するならもうそれは自分達のもの」という感じです。だから、日本語には忠実だけど英語としてはちょっと、という訳文はまず編集者が通しません。欧米では「翻訳のように見えない」というのが翻訳の理想なんです。
―― アメリカ文壇については常にチェックされているかと思います。個人的に注目している作家について教えていただきたいです。
柴田: 一番はやはり自分が訳しているブライアン・エヴンソンやレアード・ハント、ケリー・リンクの三人です。
自分が訳している作家以外だと、松田青子さんが訳しているカレン・ラッセルかなあ。『紙の民』を書いたサルバドール・プラセンシアなど次の世代も出てきていて、そのあたりは藤井光さんがよく訳しています。
「新しい作家は藤井さん、既存の作家は自分」という棲み分けがあるわけでは全然なくて、もっと大人気なく競い合いたいのですが、今まで訳してきた作家の新作を追っているだけで時間が経ってしまって、なかなか新しい作家を勉強できないのが悔しいところです。
―― 英訳されたらおもしろいと思う日本の作家はいますか?
柴田: 一番は町田康さんですね。文章のトーンがころころ変わるので英訳するのはすごく大変ですが、若手に誰を訳したいか聞くと、まず町田さんの名前が出ます。
普通、文章にはある一貫したトーンがあって、そこがしっかりしているからこそ色々なことが自由にできるわけです。そのトーンを文体とかスタイルと呼ぶわけですが、町田さんは、一貫したスタイルを絶対に持たないことをスタイルにしている。
あとは津村記久子さんや小山田浩子さんもいいですね。小山田さんは昨年イベントで一緒にニューヨークに行ってもらったんですが、エヴンソンと意気投合していました。どちらも夢や妄想を捕まえるのがすごくうまい作家ですから、通じるところがあったんだと思う。
―― アメリカ文学のメインストリームを担っているのはどういった作家ですか?
柴田: 少し前だとジョン・アップダイクやソール・ベロー、今だとドン・デリーロだとかジョン・アーヴィングですかね。でもデリーロなどは「文壇のボス」という感じではなくて一匹狼の世捨て人のようにふるまっていますから、中心という感じの中心はないのかもしれません。
―― いずれも幻想や妄想というよりはリアリズムの作家ですね。
柴田: そうですね。以前、ニューヨーク・タイムズの記者と話していて、日本ではジョナサン・フランゼンよりポール・オースターの方がずっと売れていると言ったら、「そんな馬鹿な!」という反応でした。あれだけ自由な国ですけど、こと小説に関しては「人生を忠実に写し取るべきだ」みたいな風潮は根強くある。
対して、日本文学の方が現実と幻想が地続きになっているような作品が古くから多くあります。村上春樹さんについて「アメリカ文学のポストモダニズムの流れの中に位置づけるより、『雨月物語』のような幻想世界と現実が地続きになった日本文学の伝統の中で考えた方がいいのではないか」と言った人がいましたが、その通りだと思いますね。
ただ、アメリカでも現実世界と幻想世界の継ぎ目がないような作品を書く人が出てきていて、ケリー・リンクやエイミー・ベンダーなどを読むとアメリカ文学も変わってきたなと感じます。
―― その部分では日本文学がアメリカ文学よりも先行している。
柴田: 日本文学からの影響があったという話ではなく、あくまで「見た目」の話ですけどね。
「As if there were no tomorrow.」というつもりで
―― 柴田さんが翻訳の世界に入ったきっかけについてお聞きしたいです。
柴田: なろうと思ったことはなかったんですよね。会計士や弁護士とちがって翻訳者は資格があるわけではないから、なろうと思ってなれるわけでもありません。
まして、僕が大学生や大学院生だった頃はポストモダン文学が全盛で、先端的なものは翻訳不可能に思えるような作品ばかりでしたから、全然なれる気がしませんでした。「翻訳の世界」という雑誌が当時あって、翻訳者の仕事がどんなものかはなんとなくわかったんですけど、それで食べていけるとは思わなかった。
ただ、とりあえず英文科に行って、その後に大学で英語やアメリカ文学を教えたりしていると、アルバイト的に翻訳の仕事が回ってくるんですよ。もちろん、最初は自分が訳したいものを訳せるわけではないけれど、そうやって回ってくる仕事をちゃんとこなしているうちに編集者からの信用みたいなものを得て、だんだんと自分のやりたいものができるようになっていきました。
―― 下積みをこなしつつ、力をつけていった。
柴田: あとは運の部分も大きかったです。1980年代の後半に白水社が「新しいアメリカの文学」というシリーズを始めて、その仕事が、当時訳書が一冊もなかった僕と、やはり一冊あったかどうかだった、今明治大学で教えている斎藤英治君に回ってきた。
白水社の平田さんという編集者から「君たち二人でこのシリーズを動かしていくんだ」と言われて次々に本を渡されて報告を書かされて、ごほうびに自分でも好きな本を二冊訳していいということになったので、僕はまだその時点では翻訳がなかったミルハウザーとオースターを選びました。今実績ほぼゼロの人間にそんなことをやらせてくれる出版社はないでしょうね。
―― 影響を受けた翻訳家はいますか?
柴田: まず思い浮かぶのはブローティガンなどを訳した藤本和子さんです。こんな風に生きた日本語が翻訳でも可能なんだと思いました。
―― 人生で影響を受けた本がありましたら、三冊ほど紹介していただければと思います。
柴田: 夏目漱石の『吾輩は猫である』とブローティガンの『アメリカの鱒釣り』、あとは北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』か赤塚不二夫の『おそ松くん』かなあ。
『どくとるマンボウ青春記』と『おそ松くん』はある意味で同じです。自分がユーモアとセンチメンタリズムの組み合わせに弱いというか、好きなんだなというのがわかります。
『吾輩は猫である』もユーモアですね。人間のやることをありがたがらないという姿勢がいい。『アメリカの鱒釣り』は「翻訳でこんなにいい文章ができるんだ」というお手本でしたし、当時のアメリカの小説の基本形として「大きなアメリカを語る」というのがあるなかで、「小さな端っこのアメリカ」がシュールな形で語られているのが新鮮でした。
―― 最後になりますが『MONKEY』の読者の方々にメッセージをお願いいたします。
柴田: みっともないからあまり言わないけども、「毎号全力投球」でやっています。月刊誌だと、年に12回出すことを考えて力の「入れどころ」「抜きどころ」を作らざるをえないのかもしれませんが、「MONKEY」は4カ月に1冊なので、「As if there were no tomorrow(明日がないかのように)」というつもりです。一度読んでみていただけたらありがたいですね。
取材後記
毎号バラエティに富んだ企画特集、紙面レイアウト、翻訳作品のチョイスと、すべてが独創的な「MONKEY」の内側が垣間見える楽しい時間でした。こちらが知らない作家についても丁寧に説明してくださり、ありがたいのと同時に読書家としての好奇心も大いに刺激されました。
2009年にはじまったこのコーナーもついに100回目。101回目以降も豪華なゲストが続きますので、どうぞ期待していてください。
(インタビュー、記事/山田洋介)