インタビュー
パワースポットブームなどもあり、神社に参拝する人は多くなった。
しかし、その一方で伝統的な参拝の作法を知らないまま、神社で願掛けをしている人も少なくないだろう。
会社を経営しながら、國學院大學神道文化学部に入学。神職養成機関で取得できる最高階位である「明階」を持つ北川達也先生は、「祈り方の先生」として、「祈り」の本質を著書『祈り方が9割』(コボル刊)で説く。
「自分のための願いは『不浄』とされています」と語る北川先生。本当に願いの叶う祈り方とは何か。お話をうかがった。
(新刊JP編集部)
「『神様を祀るときに、心身を清浄に保って申し上げること』が『祈り』なのです」
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『祈り方が9割』についてお話をうかがいます。まずは本書の発売から約1年となりますが、北川先生にはどのような反響が寄せられていますか?
北川:新しく出版社を立ち上げ、そして新人著者として出版前はすごく不安でしたが、発売当初から反響があり、今なお読まれ続けていて、部数でいうと2万部ですか。1万部でベストセラーといわれる中でここまで読まれているのは、神社のことや神道の祈り方について知りたい読者が多いということなんだなと思いました。
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最近では雑誌などからの取材も多いとか。
北川:はい、『anan』をはじめとして多いですね。
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やはり神社や祈り方に対するニーズがあったと。
北川:そうですね。伝統的な神社参拝に興味のある方に特に取っていただいているイメージがあります。その感想としては、今まで参拝の作法や祈り方を全く知らなかったという驚きの声が多いです。
特に本書は前半部分にフォーマルな作法や服装について淡々と説明し、後半に進むに従って、そうした「祈り方」の本当の意味が開示されていく構成になっています。
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まるでミステリ小説のような構成ですよね。
北川:最後までしっかり読んだ方は感動をすると。一方で、前半部分だけで終わっている方は知っていることばかりしか書いていないとなります。ただ、全ての作法はこの本の最後に書いていることにつながりますから、最後まで読んでほしいですね。
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確かに序盤は神社参拝のマニュアル的な本だと思いました。それが、第9の扉、第10の扉でその意味が分かるという新鮮さがありましたね。本書を執筆された経緯について教えてください。
北川:実は私自身、神社での「祈り」について分かっていなかった時期がありました。都市伝説的な話も含めて、神社って神秘的でミステリアスで、何かが隠されていそうじゃないですか。そういったものにどっぷり浸かっていたんです。
ただ、勉強をしてみると全く秘密はないんです。神社というのはすごくオープンな場所。かつて存在した「吉田神道」という神道の一流派は、密教を取り入れた秘密の大御所のようなところだったのですが、明治維新の際に廃止され、今はもうありません。また、江戸時代にそういったものは神道ではないと国学者の本居宣長が否定した歴史があります。
確かに都市伝説や古史古伝といわれる「偽書」にはあやうい魅力がありますが、それにとらわれていると本当のことが見えにくくなる。だから、神道の基礎を知りたいと思い、國學院大學神道文化学部で一から勉強をし直しました。そこで分かったことが、「祀り(まつり)」が「祈り」ということなんです。
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「まつり」というと、祝祭の「祭」の文字が思い浮かびます。
北川:そうですよね。ただ、神道の根本精神は、神社への神様の「降臨」を願い、「祀り」を行うことです。神職はそれを一番重要視しています。その厳格な儀式の「祀り」を別の表現で「祈り」と呼ぶのですね。
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なるほど。
北川:そして、「祈り」の語源は「意のり」ではなく「斎のり」です。ですから、「神様を祀るときに、心身を清浄に保って申し上げること」が「祈り」なのです。そうしたことを学術機関で学び、伝統的な「祈り方」を知って、願いを叶える方法を見つけました。その「祈り方」をいろいろな人に伝えたいという想いからこの本の執筆に至ったということです。
自分の願いを叶えたいのは「不浄」。本当に願いを叶える祈り方とは?
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本書を読ませていただくと、私たち一般人が思っていることと、考え方の面で大きく異なりますね。
北川:はい、そうなんです。「世のため人のため」という言葉は神道由来ですが、これは「公のため」「みんなのため」という意味です。世界平和であったり、日本国民の安寧であったり、そういう公のための願いを持つことこそが、神職、日本の神社の伝統です。それが今言った「祈り」であり、これを世の中の人に分かってほしいという気持ちがあるんです。
例えば成人式の日の街頭インタビューで、神社の参拝帰りの新成人が「将来資格をとってこういう人になりたい」とか「大企業に就職したい」、「お金持ちになりたい」といった個人的な願いばかりを口にします。でも、自分よりも上の世代の方々は「地域のために貢献したい」「両親に恩返しがしたい」という自分以外のことを想う願いを持っていたはずなんです。これが、「世のため人のため」の清浄な祈りであり、それを祈る場所が神社なんですね。
もう一つ言うと、自分は今、不幸だから他人のことまで祈ることができないという人もいますが、そういう人にはぜひ本書を読んでほしいです。自分の願いを清浄な祈りに変えるという画期的な方法があります。これを「祈りの神髄」と表現していますが、これは「みんなのために祈る」ということなんです。
例えば「結婚できますように」という祈りは、あくまで個人的な願望ですよね。これを変換して「私が結婚をして両親が喜びますように」とすると、自分のための祈りではなく、両親のための祈りになります。
誰もが自分の願い事を叶えたいと思い、神社に参拝するでしょう。でも、神社では自分の願いを祈ることは「不浄」とされていて、清浄な状態で祈るためには、自分の願いを「みんなのため」に変換することが必要なんです。
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では、自分が不幸だと思っている人も、個人の願いをそのまま祈るのではなく。
北川:はい、「みんなのため」に変換してみてほしいです。
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今、おっしゃったように自分のための願いが「不浄」であるというのは、本を読ませて最も驚いた部分でした。今まで自分のことしか考えていなかったと反省し、これから自分以外のみんなのための祈りをしようと思いますが、他に清浄な祈りになるためのアドバイスがあれば教えてください。
北川:自分の目標を達成したいがために神社に願掛けをしているという方もいると思います。そうした参拝方法を書いている本もありますし、実際に願いが叶った事例もあるでしょう。ただ、それは確信によって達成できたものだと思うんです。
私は確信と対比する言葉として「愛情」という言葉を使っていますが、「愛情」は母親が実の子どもに対して抱くような見返りを求めない無償の愛なんですね。その愛情を持っている人の願いが叶わないはずがないんです。
それは日本最古の歴史書である『古事記』を見ても分かります。天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、乱暴な振る舞いをする弟の須佐之男命(スサノオノミコト)のことを最後までかばいました。田んぼのあぜ道を壊したり、水を引く溝を埋めたりするのに、です。でも、最後まで守った。これはまさに無償の愛だと思うんです。
その無償の愛をもって祈る場所が神社なんですね。
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「愛情」を持って祈ることが大事である、と。
北川:そうですね。「愛情」をもっと言い換えると、「世のため人のため」になります。神道では「愛情」という言葉をあまり使わないのですが、一般の方からすれば「愛情」の方がピンと来るのではないかと思って、本の中では「感謝の祈り2割、愛情の祈り8割」と書いています。
今、日本人が日本の神話を知るべき理由とは?
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『祈り方が9割』は神社参りの作法から考え方、祈り方までを説明する一冊ですが、やはり北川先生が神社に行くと「この人は伝統的な神社参拝の作法を理解しているな」ということが分かるのですか?
北川:もちろん分かりますよ。
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どういうところで分かるのでしょうか。
北川:まずは鳥居の前で会釈しているか。スーツでビシッと決めて本殿まで何も話さず歩いていくか。同伴している人と話している人もいますが、観光参りであればそれでもいいと思います。ただ、願いを叶えるということに関して言うと、フォーマルな服装で、御玉串をして、お賽銭を納めて、二拝二拍手一拝をする。家を出るときからお参りが終わるまでが勝負です。
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初詣の時期になると本殿まで長蛇の列ができたりしますよね。その間に何を考えていればいいのですか?
北川:すでに参道から祈りは始まっています。祈りは1回で終わりではなく、何回も同じ祈りを繰り返しても問題ありません。参道を歩きながら祈ったほうがいいと思います。
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本殿の前で祈った後の行動で、これはしてはいけないということはありますか?
北川:まずは神社の中では静粛にしているということですね。また、常に神様に心を向けることが重要です。建物に心を向けている方もいますが、それは一つの観光参りです。
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いつも本殿で祈ったあとにふと気が抜けて、いつもの振る舞いになってしまうのですが、最後まで気を抜いてはいけないと。
北川:そうですね。自分は鳥居をくぐってから鳥居を出るまではなるべく話さないようにしています。
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また、手水が「イザナキの禊」に通じているなど、日本神話との関連も興味深かったです。
北川:日本の神話は知っておくべきだと思いますね。『古事記』と歴史書の『日本書紀』がありますけど、『古事記』の方が難しくないので、勉強するならこちらからがおすすめです。
その『古事記』の中の出雲神話はこの本には書いていないのですが、一番のメインとなる部分は分かりやすく説明しています。例えば天照大御神の岩戸開き神話が神社祭式とつながっていることは、神職ならばみな知っていることです。
日本の神話を知らないと、神社のことを分かったとは言えません。天照大神が岩戸の中に隠れて、その前に八百万の神が集まって祭壇を設け、そこで祝詞を唱えた。そういう故事があるんですね。そこで神々が祈り、天照大御神を引き出した。そうして、「暗闇の世界」は「明るい世界」へと変化しました。それが「祀り」なんですよね。
これは神社にお参りするうえで必須の知識です。その必須中の必須の部分をこの本の中で網羅したというわけです。
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『古事記』の内容を知ると、今の私たちの神社参拝とのつながりが見えてくるのが面白かったです。一つ一つの行動にも由来があることを知ると、違ったように見えてきますね。
北川:そうですね。神社の鳥居をくぐった瞬間に神話の世界の中に没入していくようなお参りが良いのだと思います。さきほどおっしゃったように、お手水はイザナキの禊の簡易版です。本当は、イザナキは全身の穢れを清めたのですが、現代ではそれは難しいですからね。
また、石が敷き詰められた清浄な参道も、イザナキの禊の故事によるものです。神社は古事記の中の世界観がリアルになったものですね。
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まさに神話の世界への没入ですね。
北川:「祓え給い、清め給え」と言いますけど、これは自分の罪穢れを祓え給い、清め給え という直接的な意味ではなく、神様の前で失礼にならないように罪穢れを祓って下さいという意味なんです。厄払いはまた別ですが、神様の前に出るまでにいかに心身が清浄になっていくか。そして、神様の前に出たら「祓え給い、清め給え」ではなく、「世のため人のため」と祈るんです。
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つまり、参道を通っていく中で、神様の前に出られるように自分を清浄にしていくということですね。では、日本人にとって、神社とはどのような場所だと思いますか?
北川:日頃の疲れやストレスをリセットする場所。自己を見つめる場所ですね。自己を見つめるというのは難しいことだと思いますが、世のため人のために役に立っているかを見つめる場所といっていいかもしれません。祈りによって自己と対峙するわけです。
15歳で神社参拝に目覚め、九頭龍神社へ
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最後に北川先生ご自身について教えてください。もともと神社参拝を意識したのはいつ頃だったのでしょうか?
北川:これは15歳のときですね。もちろんそれ以前も親と一緒に参拝はしていましたが、自分自身が意識しはじめたのは15歳です。そのときには箱根の九頭龍神社に行っています。
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今ではパワースポットとして知られる九頭龍神社ですが、当時はどんな感じでしたか?
北川:その頃はボロボロでしたね。参拝客もいませんでした。当時、九頭龍神社では玉子を9つ芦ノ湖に投げ入れてお供えし、御神酒を注ぐということをしていましたが、その後のパワースポットブームで芦ノ湖が玉子だらけになってしまい、今では禁止になっています。
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神社参拝に目覚めた15歳のときに何があったのですか?
北川:その頃から神秘的なもの、あの世みたいな現実離れしたものに興味がありました。でも、今考えると神秘的ではないんですよね。神道はもっと現実に寄り添っているんです。道理に適っているというか。ただ、それを分かっていなかったので、全国の神社をまわっていました。迷っていたんでしょうね。
あと、いろいろな神社に参拝して、この神社はぜひ押さえてほしいという8つの神社をこの本の中で紹介しています。だから、迷っていたらその8つの神社に行ってみてほしいです。どの神社も私の好きな神社です。
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その後、会社経営をしながら國學院大學神道文化学部に入学し、神道を勉強しなおします。そこで神職の資格を取得されるわけですが、その後ご自身の中の生活の中で変化はありますか?
北川:社員旅行なんかで九頭龍神社を団体参拝した際に、作法を率先して教えたりはしますね。みんなで二礼二拍手一礼をしっかりやりました。また、朝はご神前に向かって祈りを捧げているのですが、自分のことを見つめる時間になっていますね。
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『祈り方が9割』をどのような人に読んでほしいですか?
北川:迷っている人、苦しんでいる人に読んでほしいです。また、神社本庁がおすすめしているフォーマルな作法を学びたい人にも。
もし、神社本庁がなければ、神社そのものが無くなっていた可能性もありました。これは終戦直後のことですけど、GHQが神道を廃止しようとしました。そこで神道を残したのが國學院大學、皇學館大學、そして神社本庁なんです。その歴史を抜きにして神社は語れません。
神社本庁は文献史料や考古学的な研究から本来の神道とは何かをずっと研究し続けています。その学問としての神道を一般向けに分かりやすく書いたのが本書です。この本で学んでいただけると嬉しいですね。