「毒親」を乗り越える その行動と考え方はこれだ
毒親の彼方に

毒親の彼方に

著者:袰岩 秀章
出版:幻冬舎
価格:1,430円(税込)

Amazonでみる

本書の解説

ここ数年で「毒親」という言葉はすっかり広がった。
虐待やネグレクトなどで我が子を苦しめる親や、子どもを支配しようとする親、あまりにも過保護すぎる親など、子どもを苦しめる親に対して「毒親」という言葉が広く使われるようになっている。

大学教授で、長らくカウンセリングルームでカウンセラーを務めてきた袰岩秀章氏の著書『毒親の彼方に』(幻冬舎刊)は、「毒親」とはどんな親なのか(どんな親であれば毒親ではないのか)、毒親から自由になるとはどういうことなのか、自由になるまでのプロセスなどについて、実例を交えて解説していく。

「憎たらしい姑そっくりで、殺意さえ感じた」

ではどんな人間が、どのように「毒親」になるのか。
母娘関係に焦点をあてている本書だが、いくつかのパターンが示されている。
その一つが、我が子に愛情を感じられないことで毒親になるパターンだ。たとえば、生まれてきた娘を見た瞬間、「憎たらしい姑そっくりで、殺意さえ感じた」という母親がいる。

もちろん、本当に我が子を殺そうとしたわけではないし、暴力をふるったわけでもない。ただ、どうしても我が子を愛すことができなかった母親は姑に対するように娘と接したという。

「余計な口は利かせないってことですかね、こちらも話すことは必要最低限にとどめて。娘が何か口を開くと、じろっとにらんでやるんですよ」(P 20より)

暴力や暴言がなくても、娘からしたら母の放っている威圧感に脅されているような感覚を持っていたことは想像に難くない。娘に罪はないのはもちろんだが、「毒親」を考える時に、母娘関係以外の人間関係(ここでは嫁姑関係)が影を落とすことがあるというのは重要な指摘かもしれない。

「娘はわたしの言うことだけ聞いていればいい」

娘を憎む毒親がいる一方で、娘を可愛がる毒親もいる。
「娘はわたしの分身ですから、わたしの言うことは聞かないといけません。それだけでいいんです」(P40より)

自分の分身、というほど娘をかわいがっているようにも聞こえるが、この発言からは娘を支配したいという意識も垣間見える。かわいがることで子どもをコントロールしようとする意図は、どんな親であっても多少はあるはずだが、毒親の場合、それが子どものためではなく、自分のためなのだ。

こうした育て方をしてしまうことの原因として、本書では親自身の幼さをあげている。自分自身が幼いために、嫁げば嫁いだ相手のいう通りに生き、娘がかわいければその気持ちの向くままに育て、うまくいかなくなればうろたえる。娘はそんな母親に振り回されてしまう。

娘が「復讐の対象」になった母親

また、出産と同時に周囲の関心が娘ばかりに行き、自分の苦労が評価されていないように感じたことで、「復讐の対象」として娘を見てしまうようになった母親もいる。

「出産はどちらかというと難産でしたし、生まれたあとも体力が回復しないままに授乳から何から大変なのに、皆さん(夫や夫の両親のこと)、娘の心配ばかりして、わたしのことはこれっぽっちも気にかけやしませんでした」(P46より)

大変な出産をこなしたことやその後の子育ての苦労がかえりみられることはなく、娘だけがかわいがられ、自分は下働きを押しつけられる。こうした環境で娘に愛情を持てなかったこの母親は、夫や義父母への悪口を巧みに娘に吹き込むという「復讐」に出た。幼いながらに家庭内でバランスをとって立ち回ることを強いられた娘は、小学校高学年からうつ気分が強くなり、中学生になると自傷行為が増えていったという。



「毒親」とひとくちにいっても、そこに至るまでの過程も環境も人それぞれ違う。親本人にも問題はあるのだろうが、親自身の育てられ方や夫との関係、夫の両親との関係も深く関わってくる。これらのさまざまな事情を抱える毒親とその娘に、著者がどう対処していったのかが本書の読みどころだ。

また、毒親に育てられていた娘たちが母親からどう自由になっていったのか、そこまでにどんなプロセスを必要としたのかについても、本書では実例をあげて解説していく。最終章に書かれている手鏡をめぐる寓話は、毒親からの解放と自身の成長について象徴的だ。

親にとっても、子にとっても気づきの多い本書。今の自分と自分が置かれた環境を客観視して、人生をより良い方向に変えていくために、一役買ってくれるはずだ。

(新刊JP編集部)

インタビュー

■子どもを苦しめる「毒親」に潜む幼さとは

袰岩さんは臨床心理をご専門にされています。「毒親」という言葉はここ数年、メディアでよく見かけるようになりましたが、臨床心理の分野では今「毒親」はホットトピックなのでしょうか?

袰岩: スーザン・フォワードという心理学者が使った「Toxic parents(有毒な親)」という言葉の訳として「毒親」という言葉が使われるようになったのがはじまりなのですが、臨床心理学の世界ではそれほど積極的に取り上げられているわけではありません。

スーザン・フォワード以前にも「子どもに害を与える親」という概念はあったんですか?

袰岩: 子どもを虐待するとか、うつやアルコール依存症で子育てを放棄するとか、「子どもに害を与える親」自体はたびたび取り上げられてきました。ただ、現在の「毒親」という概念や言葉はありませんでした。

この本のまえがきで少し書いたのですが、虐待やネグレクトをする親だけでなく、「普通の人」の中にも子どもを苦しめる親は存在します。それを表すのに、「毒親」というワードは、ちょっと言葉は強いですがわかりやすいのかなと思います。

本書では、人がどのように「毒親」になっていくのか、毒親に育てられている子どもはどうすればそこから抜け出せるのかを実例を挙げて解説されています。袰岩さんがこの本を通じて伝えたかったことを教えていただきたいです。

袰岩: ひとつは、毒親はひとりで勝手に毒親になるのではないことです。必ずそこにはプロセスがあって、時には世代を超えた連鎖として生まれてしまうということですね。

もうひとつは、この本では母娘関係に焦点を絞っているのですが、毒親に育てられている娘の方々には、現状から抜け出すことはきっとできるということをお伝えしたいです。

今のお話にもありましたが、本書では「母娘関係」に焦点を当てています。これは「毒親」という言葉の生みの親ともいえるスーザン・フォワードの母娘関係の描き方を尊重していると同時に、母と娘の関わりの中に「有毒な」という言葉の意味が一番よく表れているからだとされていますが、母娘の関わりの中にこそ母の「有毒さ」が表れることにはどういった事情があるのでしょうか。

袰岩: 母娘に限らずどんな組み合わせであっても悪影響を受けるということはありえるのですが、特に母と娘というのはお互いに引き付けあうところがあって、気がつかないうちにプレッシャーを受けていたり、親から色々なものを取り入れていたりしやすいんです。娘はお母さんの影響を受けやすいんですね。取捨選択ができずにお母さんの言うことを何でも吸収してしまうといいますか。

子どもは生活範囲や行動範囲からいっても、自分の環境や親について他と比較して見られるとは限りません。となると自分が親に苦しめられていたとしても、そうと気づかないケースもあるはずです。自分の親が「毒親」とはいわないまでも「ちょっとおかしいかも」と気づくタイミングはいつごろが多いのでしょうか。

袰岩: おっしゃるように、やはり自分がある程度成長しないと見えてこないというのと、あとは家庭の外の世界との関わりがあるかどうか。この二点を考えると中学生前後が多いのではないでしょうか。

ただ、最近は年齢にかかわらず情報がたくさん入ってきますから、小学生くらいから「うちの親は変だ」と気づく子どもも珍しくなくなってきています。小学生にうつや不登校が増えているのも、早くからいろんなことに気づきやすくなっているからだと思います。

反対に、社会人になるまで気づかないケースもあるのですか?

袰岩: 気づかないというよりも、気づきたくなくて考えないようにしているというケースが多いようです。やはり自分の親を否定せざるをえないようなことに気づくのは誰しもが怖いですから。

毒親の問題点として「人格的な幼さ」を挙げられています。この幼さはどういったところに表れますか?

袰岩: この本で書いている毒親の幼さとは、責任を持って動けるほど自己が成熟していないということです。具体的には人に依存したり、我慢ができなかったり、といったことで、そうなるとどうしても言動が行き当たりばったりになるんです。

ちょっと思い通りにならないと癇癪を起こして叱ったり、誰かが良いと言ったことに飛びついたかと思うと、やはり誰かに良くないと言われてすぐにやめたり、行動に一貫性がない。

「自分軸」がないということですね。

袰岩: そうですね。当然子育てにも一貫性がなくて、かわいがってみたかと思うと急に激しく叱ったりする。こういう環境だと子どもは不安定になりやすくなります。

厳しいなら厳しいで一貫してもらったほうがいいということですか。

袰岩: むやみやたらに厳しいのは困るのですが、そんなに立派でなくても何かしら自分なりのポリシーがあって、それに基づいてほめたり叱ったりするのであればいいと思います。

それがないと子どもも親をどういう人間か判断できないですよね。

袰岩: そうですね。子どもからすると、かわいがられてはいるけれど守られている気がしないので、精神的に不安定になってしまいます。

■母親ががんに罹り、晴れ晴れとした顔で現れた娘

子どもにとっては、自分を苦しめる親から物理的、心理的に解放されるというのが一番いい結果なのでしょうが、そこに至るまでの道のりは長い印象も受けました。自分が親によって苦しんでいることにまず気づくことが必要ですし、気づいたとしても現状を変えようという発想になるかどうかはわかりません。家族のことなので耐えるしかないと考える人もいるでしょうし。

袰岩: ほとんどの人は、まずは自分でどうにかしようと考えます。そして誰かに相談するということも含めていろいろなことを試みるのですが、おっしゃる通りそこは家庭の中のことですから結局は親に追随したり、ひたすら耐えるという結果になりがちです。

おそらく親によって苦しめられている現状をどうにかしようと思い続けられる人は、それほど多くないはずです。ただ、そういう人が何かきっかけがあってカウンセリングにいらっしゃると、うまくいくことが多い。何年も親の問題について考え続けてきたからこそ、カウンセラーであるこちらの言葉の意味がよく通じて、これからの指針を見つけやすいということだと思います。

子どもから「うちの親はちょっとおかしい」と思われている親は、おそらく自分ではそこまでおかしい自覚はないような気がします。まして自分が「毒親」だとは考えていないのではないでしょうか。

袰岩: そうですね。本の中で紹介したように、親の方は自分に問題があるというよりも「娘を何とかしてほしい」ということでカウンセリングにいらっしゃることがほとんどです。

本書では毒親とその娘についてのさまざまな事例が取り上げられています。中でも印象的だったのが、自分の母親ががんに冒されていることがわかったことで、カウンセリングに「晴れ晴れとした顔」であらわれた女性の事例です。

袰岩: この女性は物心がついたころからずっと母親に苦しめられていました。それだけ母親が重石だったわけです。

母親が大病を患ったことで病院に呼ばれたりですとか、本来なら関わりたくない母親と関わらなければならなかったり、母親が関連の用事が増えてしまったりするわけじゃないですか。それでも晴れ晴れとした顔になるのは「これで母親が死ぬかもしれない」という心理なのでしょうか。

袰岩: そういった具体的なものというよりは、「今の自分の苦しみには終わりがあるんだ」という、母親に苦しめられる人生の「終わり」が見えたことによる高揚感の表情だったのではないかと思います。ただ、「それって結局は親の死を望んでいるということかもしれない」ということで、その人は罪悪感も覚えるのですが。

ただ、普通に考えれば親は自分より早く死ぬわけで、母親が病気にならなくても「今の苦しみには終わりがある」ということはわかるはずです。がんが発覚するまでそこに思い至らないということがありえるのでしょうか。

袰岩: 物心ついたころからずっと母親に苦しめられて生きてきたわけですから、「いつかは親も死ぬ」ということすら考えられなかったのだと思います。がんという病名を聞いてはじめて、そうか、親も死ぬのか、と気づいたわけです。

まして、当時その方が20代後半でしたから母親は50代か60代でしょう。そのくらいだとまだまだ元気ですから、親が死ぬということをリアルに考えたことはなかったのではないでしょうか。

本書で実例として挙げられている母娘関係を読んで感じたのですが、毒親の問題というのは母娘に限定して考えるべきではなくて、嫁姑関係や夫婦関係、特に親自身の育てられ方とも関係しています。「子どもを苦しめる子育て」の世代を超えた連鎖を断ち切るためにはどんなことが必要なのでしょうか。

袰岩: やはり虐待や過干渉など、親自身も育てられた過程で何かしらの体験をしてきた結果、自分の娘に愛情をかけられなかったり、興奮して過度に叱責してしまいやすい方がいて、そう考えると子どもを苦しめる子育ては世代を超えて連鎖すると言えます。

そういう人も、時には自分のやっていることを自覚して、罪悪感を感じていい親にならなければと思うのですが、それでも子どもの顔を見ているとカッとなって同じことの繰り返しになってしまう。こちらが家庭生活の中に介入して注意することはできませんから、そこは親自身が気づくしかないんですね。「私はこの先もずっと、子どもを苦しめては罪悪感を感じるというパターンを繰り返していくのか」と自問できるようになると、変わらないといけないと考えられるようになっていくのではないかと思います。

難しいのは、自分が受けた子育てを特に問題があるものだったと親自身が自覚していないケースもあることです。こうした中で自分が「毒親」にならないためにどんなことができるのでしょうか。

袰岩: 「絶対に正しいものはない」ということを自覚することと、自分が子どもに対してしたことが間違っていたと思ったら謝ることだと思います。

「毒親との戦いのストーリーは、毒親から物理的に離れたあとについて深く考えねばならない段階に入ってきている」と書かれていました。毒親から真の意味で解放されたといえる状態とはどのような状態なのでしょうか。

袰岩: 「真の意味の解放」がありえるのかどうかはいったん置いて言うとすれば、自分の中に毒親の痕跡はどうしても残るんですね。ずっと一緒に暮らしてきたわけですから。

その痕跡が気にならなくなるというのが一つの目安だと思います。もちろん親のことを忘れるわけではないですし、されたことを思い出すこともあるでしょうが、それで嫌な気持ちになったりはせず、今の自分としてさらっと振り返ることができるようになれたとしたら、それは解放されたと言えるのではないでしょうか。

そのためのプロセスとして、「毒親と物理的に距離をとる」ことが大きなポイントなのでしょうか。

袰岩: 物理的距離もそうですが、今以上に親によるストレスを抱え込まない時間が必要になります。親の存在を自分の中から完全に消し去ることは無理ですが、嫌な体験が新しく増えないようにすることはできます。親から受けるストレスを少しでも減らすことは大事です。そのうえで、心理的な距離を取る努力をしていく必要があります。

また、物理的距離をとるといっても、親もとから離れられる人ばかりとは限りません。だからこそ、別々に暮らせないとしても意識して親と顔を合わせない時間や話さない時間を作って「毒親フリー」の状態を作ることが大切になります。

最後に自分の子育てが正しいのか疑問に思っている親、自分が毒親なんじゃないかと恐れている親、そして逆に親に苦しめられている子どもにメッセージをお願いいたします。

袰岩: 親の立場の人が「自分は毒親じゃないか」と恐れるのは正しいことです。ぜひ恐れずに自分を振り返ってみてください。思い当たることがあるなら勇気を出して誰かに相談したり、自分を変える努力をしていただきたいです。

そして今、毒親に苦しめられている子どもには、「よく耐えてがんばっていますね。今の状態はあなたが悪くてそうなっているわけではないので、自分を責めないでください。ここまで耐えてこれたのだから、自分を変えて現状から抜け出すことはきっとできます」ということを伝えたいですね。

(新刊JP編集部)

書籍情報

目次

  1. 毒親とは何者か
  2. 毒親と戦う人
  3. 毒親から逃れる
    ――心理的な距離を目指して
  4. 毒親を乗り越えるプロセスを振り返る
    ――セルフケアできるようになるまで わたしを育てるのはわたし自身
  5. セルフケアの技法について
  6. あとがきに代えて
    ――セルフケアについての短いテールあるいは寓話のようなもの

プロフィール

袰岩 秀章(ほろいわ・ひであき)
袰岩 秀章(ほろいわ・ひであき)

袰岩 秀章(ほろいわ・ひであき)

Ph.D.、FJGPA、LP、CCP
国際基督教大学で博士(教育学)を取得後、
日本女子大学専任カウンセラー(助教授)を経て埼玉工業大学心理学科教授。
日本集団精神療法学会評議員、公認心理師、臨床心理士。
30年以上にわたり、カウンセリングルームで外来相談を続けている。

毒親の彼方に

毒親の彼方に

著者:袰岩 秀章
出版:幻冬舎
価格:1,430円(税込)

Amazonでみる