腐ったみかんが医者になった日
著者:河原 風子
出版:幻冬舎
価格:1,430円(税込)
著者:河原 風子
出版:幻冬舎
価格:1,430円(税込)
人生はその人の自身のものであり、自分の意志で進む道を選ぶことができる、というのは大前提として、それでも「大多数の人が通るレール」というものが世の中にはある。そして、そこから一度ドロップアウトしてしまうと、人生を立て直すのが難しくなってしまう。
それでも、意思と目的があれば、たとえ失敗したり過ちを犯したとしても、何歳からでも人生をいい方向に向けることができる。自分が生きるべき道を見つけることができる。医師・河原風子さんの半世紀の形をとっている『腐ったみかんが医者になった日』(幻冬舎刊)はそう思わせてくれる一冊だ。
福岡県北九州市に生まれた風子さんだったが、小学生時代に両親が離婚し、以降は弟・妹とともに母親のもとで育てられた。
シングルマザーとして三人の子どもを育てなければならない責任から、門限やお菓子の禁止、テレビの時間制限などで生活を縛ってくる母は、当時の風子さんからすると“過干渉”に思えたようだ。そんな母から逃げるように、風子さんは家に寄りつかなくなっていく。その頃には、外で時間をやり過ごすために、家族のお金を盗むようになっていた。
中学に入り、本格的に非行に走るようになった頃、母親の乳がんが発覚。初期だったこともあり手術で治す選択肢もあるなかで、民間療法を選んだ母に納得できず、母との溝は深まってしまう。さらに家から足が遠のくようになり、高校生になる頃には、教師から「腐ったみかん」と言われるようになっていた。
教師をはじめとする周囲の大人から目をつけられ、その視線が不快でさらに非行に走る。そんな悪循環ができあがっていた。結局、飲酒・喫煙を巡るトラブルを起こしたことがきっかけで風子さんは高校を中退し、定時制の高校に編入するのだが、そこでも警察沙汰になるような事件を起こしてしまう。
普通に考えたら、このまま生活が荒んでいってもおかしくない。ただ、そうはならなかった。風子さんを引き留めたものは、医師へのあこがれだった。
幼い頃から喘息持ちだった風子さんにとって、当時の主治医は信頼できる数少ない大人だったという。どうにか高校を卒業し、派遣社員として働くなかで、少しずつ家の外に自分の居場所を築いていった彼女が子どもの頃に抱いていた医師になる夢を思い出した時、すでに彼女には夫と娘がいた。
医師になるには、まず医学部のある大学に合格し、さらに医師国家試験に合格しないといけない。まして医学部の学費は高い。いくら夢といっても、大抵の人は追うのを諦めてしまうような遠い遠い夢である。ただ風子さんには「根拠のない自信」があったという。
もちろん、根拠のない自信だけでは、夢は夢のまま。ただ、行動力と根気があれば現実は動く。朝はコンビニで働き、日中は勉強、夜は子育て、という毎日が始まった。机に座る習慣がなかったため、勉強というよりも「机に座る練習」からだった。最初の年は不合格。しかし翌年、風子さんは見事医学部合格を果たした。その時すでに28歳。周りから10年遅れのスタートだったが、6年後、34歳の時に念願の医師になった。
思春期は特に、歩むべき道が少し見えたとしても、それに向かって進むことが難しいことがあります。私のように普通の生活すらままならない人もいると思います。それでも自分を信じ、もがき続けてください。そうすれば、自分がどう生きるべき人間なのか、世の中のどこに必要とされているのか、はっきりと見えてくるようになる。(P215より)
■変わろうとしても大人に邪魔された
風子: 中学生、高校生など、思春期の子どもたちです。私自身も経験があるのですが、家庭に居場所がなかったり、生きづらさを感じている子たちほど、ささいなことで心が折れたり、道を踏み外してしまったりしやすいんです。
逆に、何をやっても一番吸収する時期、伸びる時期でもあると思います。この時期の子たちに、自分の経験を伝えることで何か役に立てればいいなという思いです。
また、この年頃の子どもに手を焼いている親御さんにも読んでいただけたらいいなと思っています。思春期に親と折り合いが悪かった私の経験が、今の親御さんのヒントになってくれたらうれしいです。
風子: そうですね。全部実話です。
風子: 変わったといえば変わったのですが、自分としては「本来の自分に戻った」という感じなんです。確かに非行が過ぎて「腐ったみかん」と呼ばれていたのですが、好きで腐ったわけではないですし、本心では変わらなきゃいけないという気持ちはありました。
ただ、当時は変わろうとすると周囲の大人に邪魔される感覚だったんですよね。たとえば、今日の夜は出歩かずに家にいようと思っていても、親が前日の夜のことを持ち出して「罰として家事をしなさい」と言ってきたり、何も悪いことをしていない時に限って先生が邪魔者扱いをしてきたりといったことがあって、変わろうとする気持ちが折れてしまったり余計に反発してしまうということはありました。
親や先生がそういうふうに接してくるのは、普段の私の行動からしたら仕方ないことだったのかもしれませんが、自分の意志を無視されているような、「こうあるべき」という大人にとっての理想を押しつけられているような気がして嫌だったのは確かです。
風子: そうですね。それが小学校高学年くらいから嫌になってきて、家に寄りつかなくなっていきました。ただ、それは両親の離婚がきっかけだった気がします。私が小学3年生くらいのときに離婚したのですが、すごく母は責任感の強い人だったので、「父親がいなくても立派に育てなくちゃ」という気負いがあったのかもしれないと、今は思っています。
風子: それはありましたよ、やはり。友達はいましたし、うちの家庭が複雑で、私が家に帰りたくないのをわかってくれていましたから、たまに泊めてくれようとするんですけど、そうすると母がその子の家に電話をかけてくるんです。しまいには「誘拐として通報する」と脅したりして。
風子: そうです。友達に迷惑をかけるわけにはいかないじゃないですか。でも、出ると行く場所がないんですよ。だから野宿をしたりとか。
風子: それこそマンションの貯水タンクの下で寝たりね。今日寝るところを見つけないといけない、でも母には会いたくないという。そういう時はやはり孤独でした。
風子: 「今の自分の状況に対してどうしていいかわからないし、何もできない」というのが本当にきついんですよね。家が嫌だと思っても、中学生、高校生の年齢では自分で家を借りることはできませんし、お金を稼ぐことも難しい。だけど、もう数年辛抱すればできることが増えて、状況を変えるきっかけがあるはずなので、それまでどうにか生き抜いてほしいということを伝えたいです。
風子: 学校を卒業して働きはじめたことと、結婚したことが大きかったと思います。働くことでようやく自分の居場所を見つけられた感じがしましたし、「安心して帰れる家庭」ができたこともよかったです。母と一緒に暮らしていた家は、私にとってそういう場所ではなかったんです。
風子: それはもう、かなり変わりました。病気で入院した母のお見舞いで久しぶりに顔を合わせるようになって、相手も私も変わっていったといいますか、この関係をどうにかしないといけない気がして、少しずついろいろな話をするようになったんです。
そうすることで少しずつ子ども時代に母がどんなことを考えていたのかがわかりはじめました。最後、亡くなる間際に「ごめんね」と言われたのですが、そこで母のことを許せた気がしていますし、感謝の気持ちが生まれました。
風子: そう思います。私が小さい頃に母がつけていた記録があるのですが、それを見ると、すごくかわいがってもらっているんですよ。大きな期待をかけて大事に育ててくれていたんだなというのは感じます。今思えば、ですけどね。
風子: 出産がきっかけでした。その時にお世話になった産科の女医さんが本当に格好よくて、「もし仮にこの先生のミスで自分が死んでも、絶対に恨まない」というくらい信頼できる方だったんです。その女医さんを見ていて、そういえば私も昔医者になりたかったんだよな、と。ただ、その時点ではとても大学受験ができるような学力ではなかったのですが。
■子育てをしながらの医学部合格を可能にしたものとは?
風子: 医師になるというのとは別に、人を助けたいという気持ちは昔から人一倍強いんです。事故や災害のニュースを見ると「今すぐ駆けつけて何かできることをしたい」という衝動に駆られていました。
でも、その気持ちだけでは現場に行っても役に立ちませんし、体力もありません。役に立てるとしたら頭を使ってできることだろうなというのはありました。あとは子どもが好きだったんですよね。困っている人を救うことができて、子どもが好きというところで、小児科医という仕事がぴったりでした。だから、どうしてもなりたかったんです。
風子: そうだと思います。あとは自己暗示です(笑)。親との確執があって一度道を外れかけた私なら、より患者さんの感情に寄り添ったり、親御さんの気持ちを察することができるはずだ。だから私は医師になるべき人間なんだ、困っている人たちのためにも絶対にならないといけない、と自分で自分に信じ込ませてモチベーションを高めていました。
念願かなって医師になれたのは、周りの人のおかげです。娘が熱を出した時に私が予備校を休もうとすると自分が休んで面倒を見てくれた当時の義父や、忙しい時に子どもたちを預かってくれたママ友たち、応援してくれた小中の同級生にはすごく支えられましたし、期待を裏切りたくなかった。だからがんばれたんだと思います。
風子: きついといえばきつかったですけど、「夢を追えている」ということ自体が幸せだったんですよね。
ただ、時間はびっくりするくらいなかったです(笑)。午前中はアルバイトをして、午後は勉強、17時からはごはんを作って娘たちと遊ぶ時間で、娘たちが寝た後の22時からまた2時間くらい勉強、というサイクルでした。コンビニで並んでいる時とか、エレベーターの中とか、「スキマ時間」を活用して勉強したり、今考えるとけっこうがんばっていましたね。
もし24時間自由に使える状態だったらかえって勉強できなかった気がします。家事や子育てで勉強に使えない時間があるのは仕方ないので、その時間は思い切り子どもたちと遊ぼうと割り切って、使える時間をいかに濃いものにするかという工夫をしたのがよかったのかもしれません。
風子: 5年くらいです。医学部の受験自体は2回目で合格したのですが、大学受験のレベルに達するのに時間がかかりました。中学、高校とほとんど勉強してこなかったので。
風子: 受験の時は中学高校で遅れた分を追いつかないといけなかったので大変でしたが、医学部に入ってしまえば他の人と同じように1年分の勉強を1年で終わらせるだけですから、忙しくはありましたがそこまで大変とは思いませんでした。その後の医師国家試験でもあまり苦労はなかったです。
風子: 最初は年齢が周りの人と全然違いますから、浮いたらどうしようと思っていたんですけど、いざ入ってみると本当にいい友達ばかりでした。みんなと遊びに行く時も子どもを連れてきていいよと言ってくれましたし、行くと面倒を見てくれました。今でも気にかけて連絡をくれますし、友達には本当に恵まれましたね。
風子: 難民支援や災害医療を通して子どもたちのために生きたいと考えて、そのために必要な勉強をしているところです。また日常の診療では治療を通して、少しでも多くの笑顔がみられるよう、日々奮闘しています。子どもたちの夢のために私にできることがあれば何でもしたいです。
風子: 若い世代の皆さん、今人生を楽しめていますか。夢を追えていますか。
恵まれない環境だから、と人生をあきらめたり、自分は世の中に必要がない人間だなんて思ったりしていませんか。
私は今医師をしていますが、若いころは毎日ケンカに明け暮れたり、野宿したりしていました。帰る場所がなくて、さみしくてつらくて、自殺しようとしたこともあります。それでも何とかとどまって、今は念願の仕事があり、幸せな生活を送っています。どうやったら困難を乗り越えられるか、幸せになることができるのか、そのヒントをこの本につめこみました。
人はみんな、世の中に必要とされるような役割があり、夢を追う権利があります。みなさんが少しでも前向きに生きられる手助けをしたいと心から思ってます。あなたたちの人生を応援しています。
今どんなに辛くても何としてでも生き抜いてください。そしてあなたを信じてくれる友達を決して裏切らないでください。家庭に居場所がなく、社会からからも見放された私が今の自分になれたのは、支えてくれた友達のおかげです。
生き抜くだけでは大人になった時に助けてはもらえないかもしれません。私にはずっと支えてくれた友達がいて、その人たちだけは裏切りませんでした。これも大切なことだと思うんです。
(新刊JP編集部)
河原 風子(かわはら・ふうこ)
旧姓:安部 風子(あべ・ふうこ)
1982年北九州市生まれ。8歳で両親が離婚し、その後は母との関係がうまくいかず、非行に走る。入学した全日制高校は退学になり、定時制と通信制に通って高校卒業の資格を何とか取得。卒業後に運送会社の事務員として働くなかで更生し、20歳で長女、24歳で次女を出産、一念発起して医者を目指す。28歳で医大に合格し、34歳で念願の小児科医になる。現在2児のシングルマザーとして仕事にプライベートに充実。子ども愛、行動力が私の武器。今の夢は災害医療や難民支援で困っている子どもたちのために生きること。
著者:河原 風子
出版:幻冬舎
価格:1,430円(税込)