邪馬臺国と神武天皇
著者:牧尾 一彦
出版:幻冬舎
価格:2,420円(税込)
著者:牧尾 一彦
出版:幻冬舎
価格:2,420円(税込)
日本の古代史は文献や資料がほとんどなく、謎が多い。だからこそ様々な議論や思索の余地がある。
たとえば日本の初代天皇といわれる「神武天皇」をめぐっては架空論、実在論が展開され、2~3世紀頃に存在していた邪馬台国は存在していた場所について様々な研究者たちが言及している。
『邪馬臺国と神武天皇』(牧尾一彦著、幻冬舎刊)は、そうした日本の古代史を巡る著者・牧尾一彦氏の考察がつづられた、730ページ以上に及ぶ大著だ。これまでの議論を批判的に検討しつつ、タイトルの通り「神武天皇」の正体と、「邪馬臺国」(書籍内の表記に基づき、以後「邪馬臺国」と表記)との関係について推察している。
本書の大きなトピックの一つが、「神武天皇」の正体は何者かということだ。
牧尾氏は神武天皇について「架空の天皇である。実在した天皇ではない」としながらも、「実在の人物を下敷きにして物語が作られている」と述べ、その人物として「オホタタネコ」、またの名「トヨミケヌシ(豊御気主)」を挙げている。
オホタタネコは『古事記』の崇神天皇事績譚の冒頭を飾る説話の主人公であり、三輪山の神である大物主神を祭祀した人物で、「大和朝廷最初の祭主」と牧尾氏は考えている。また、神君(ミワのキミ)、鴨君(カモのキミ)の祖である。
このオホタタネコについて、牧尾氏は『古事記』と「地神本紀」の系譜を照らし合わす。そこにおいて、『古事記』が記す大物主神から4世孫オホタタネコまでの父子直系系譜の下に、「地神本紀」の伝えるオホタタネコの子孫系譜を付け足すことができると指摘した上で、次のように述べる。
クシミカタ命からオホタタネコ命を経てオホミケ持命に至る五代の系譜は、「地神本紀」が伝えるアメヒカタクシヒカタ命からトヨミケヌシ命を経てオホミケ主命に至る五代の系譜と実は同一の父子五代を伝える系譜であろう。従って、トヨミケヌシ命とは、オホタタネコ命の亦の名、その別称ないし尊称であろう。(p.292より引用)
そして、曽祖父であるクシミタカ命からオホタタネコに至る4世代は、ちょうど伝承の時代の天皇とされる孝霊天皇(第7代)から崇神天皇(第10代)に至る4世代に並行すると考えられ、その時代は西暦3世紀の半ばから4世紀初頭にかかると言う。
ここから牧尾氏はオホタタネコ(=トヨミケヌシ)と神武天皇の共通点について探る。
オホタタネコの父祖たちの妻の出自を順に見ると、日向、出雲、伊勢、紀伊、大倭という地名が出てくる。ここから、日向から東へ移動し、背後から大和に入る順路を取り出すことができる。
実はこの順路は、神武天皇の東征神話の順路に一致する。神武天皇は日向から発し、現在の九州から中国地方を西に向かい、難波から紀国(紀伊=和歌山)にまわり、大和へと侵入している。
さらに、名前の一致もうかがえるという。『古事記』では神武天皇には三種の名前があり、その一つが「トヨミケヌ」。この「ヌ」はクヌ(国主)のヌに同じく、ヌシ(主)という意味なので、「トヨミケヌシ」と名前が重なるのだ。そして、牧尾氏は次のように結論づける。
神武天皇とは、オホタタネコの亦の名を借り、オホタタネコとその三代の祖父たちの伝承を一身に集積してその説話が創り出された、架空の初代天皇であったのではないか、ということである。(p.298)
◇
では、この神武天皇と邪馬臺国はどのような関係があったのか。
本書の後半では大胆に議論が展開されていく。
『古事記』『日本書紀』、いわゆる「記紀」を中心とした文献と、「記紀」を巡る先人たちの研究から見えるものを少しずつ捉えていく本書。古代の人々たちの動きを通して探り出されるのは、父系父権王族によって繰り返し侵略され、その支配を受け入れることになった、母系母権社会を主体とした土着弥生人たち――私達大部分の祖先たちの運命である。
そうしてその母系母権社会の彼方に、人類の初原史への眺望を開こうとするのが本書である。人間とは何者であり、何者であるべく運命付けられたのか、という根本問題。本書はこの根本問題に迫るための扉を開く。
(新刊JP編集部)
■古代日本史へのアクセスは「人類起源史を見据えつつ、史料の虚構を暴く観点を堅持する」
牧尾: まずは簡潔に私について説明をさせていただきます。もともと東京大学に入学した当初は理科Ⅲ類(医学部進学課程)にいたのですが、2年次で受けた医学部の教授の特別出張授業が循環器学で、しかも偏微分方程式を用いた流体力学の話で、「偏微分方程式」なるものからして理解できず、ショックを受けて数学科に転入することにしました。理Ⅲの人間が進路を変えたのは前代未聞のことだったらしいのですが、夜も眠れないほどに悩んでいた当時の私としては安心できる唯一の選択でした。
実はこのとき、数学を修めたのちに医学を学んでも遅くはないだろうと軽く考えていまして、学部卒業時、医学部への転入を打診したのですが、受け入れていないと言われ、落胆します。大学院に進学するものの、数学の研究目的を見失ったままでした。
1973年1月に東北大学の数学科に助手として赴任、1976年に結婚をしますが、その年の暮れに妻の承諾のもと希望退職し、ここから文筆業の道へと入っていきます。もともとは私小説の類を書いていましたが習作の域を出ずにいました。そして、自室に引きこもり、恋愛小説を一つ、最高傑作を書いてから死のうと思っていました。
恋とはなにか、愛とはなにか、人間とはなにか、考えながら私小説の世界から脱出し始め、自己の井戸の底から世界を見る目を回転し、世界から自分を見、世界の外から世界を見る術を学ばなければならないと悟ります。そこで当時出会ったのが高群逸枝の『恋愛論』『日本婚姻史』といった書であり、そこからエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』、モルガンの『古代社会』といった基本的文献です。これらを通して、世界は遥か悠久の彼方から、想像を絶する転変を重ねて現代に連なっていることを改めて認識しました。
そして、人間とは何かという哲学上の根本問題すら、人類起源史・家族制度史を自然科学的、社会科学的にさらい直すことによって解くことができるに違いないと悟りました。「人間とは何か」という問題とともに、愛とはなにか、恋とはなにか、という問題についても、当然のことながら、同じ地平で解かれるべき問題だと思ったのです。では、その原始共同体社会とはどんな社会であったのか。小説を放り出して、人類史と日本古代史学へ、踵を転じました。そこで私は、死ぬのを少し先に延ばそうと考えたのです。
牧尾: そうです。以後、人類史を常に射程に入れながら、日本古代史を研究することとなり、「古事記」の研究、「日本書紀」の研究、「続日本紀」の研究などに入り込むこととなりました。
ただ、次第に古代史学に専念する限り、文筆業で身を立てる可能性はいよいよ消滅してきたと感じます。商業ベースに乗るようなものはとうてい書けないであろうと何となくわかってきたのです。
山形大学文学部で川副武胤先生の「古事記」に関する特別講義の聴講生半年を終えた後、人類史を本格的に研究するのに大脳生理学が役にたつはずとの考えと、その習得と将来の生活の自立を求める考えとから18歳の初心に立ち返る決意を固めて、医学部に入ることにしました。丸1年受験勉強に専念しました。他郷での下宿などは経済的に無理でしたので、自宅から通える医学部として東北大学医学部に入りました。1988年、41歳のときです。
1995年には東北大学病院精神科に入局し、医師免許を得て、研修医となりました。2016年に総院長を務めていた病院を退職し、その後は妻の介護をしながら日本古代史研究に専念しています。
牧尾: 基本的には人類起源史を見据えつつ、史料の虚構を暴く観点を堅持して今に至っています。
「古事記」については、上古の天孫・天皇系譜を初めて虚構した書物として、そして古代史の真実を暴くための証拠を秘める書物として、極めて貴重な史料であろうと考えています。
最初の拙著『古事記の解析』では、古代の日本土着民族、いわゆる日の神族が、継体天皇以後、次第に大和に復権し、その心・詞を体現する書物として書き上げたものが「古事記」であろうと考え、無分別にも大いに「古事記」を敬仰していました。しかし、今では壬申乱前後史を生きた、特殊な才能を持った人物が天武10年紀以前までに、分注を含めてほぼ全体を書き上げたものであろうと考えています。そして、その「特殊な才能を持った人物」は稗田阿礼ではないかと考えているのです。
また、寓意文字を知り、それら寓意文字の数々が構築する寓意の構造を読み解くことで、「古事記」の虚実を弁別するという観点が極めて重要であろうという認識を持っています。更に言えば、この観点を抜きにして「古事記」の研究は有りえないとすら考えています。
「古事記」の寓意の構造は、壬申乱前後史を生きた作者が壬申乱前後史を念頭に置きながら寓意を構築していますので、古事記の寓意の構造論の研究は壬申乱前後史の研究と表裏をなすものと言えます。
「日本書紀」については、これが「古事記」を敵視しつつ編まれたことはまちがいないのですが、この「日本書紀」を史料として用いる場合には、「日本書紀」が成立した当時の奈良時代初めにおける朝廷内派閥抗争史を認識しておくことは極めて重要です。
「古事記」と「日本書紀」の対立関係に注目しつつ、「日本書紀」成立当時の派閥抗争史については拙著『国の初めの愁いの形――藤原・奈良朝派閥抗争史』で解説をしています。「日本書紀」が諸氏の祖先等を語る口調に明瞭な党派性があり、反藤原不比等派の氏族の祖先に関してはその功績を陰に陽に抑制する筆致に終始しており、逆に親不比等派の氏族の祖先に関してはその功績を顕彰する筆致を窺うことができます。
「日本書紀」を資料として扱う場合に更に重要なのは、わが国では、持統4年紀(690年)以前は、顓頊暦に随伴していた一年下った古いタイプの干支紀年法(旧干支紀年法)を公用していたのに、「日本書紀」は新しい干支紀年法(現行干支紀年法)で編年しており、そのために編年上の無理矛盾を多く含んでいることを見抜くことです。
この驚くべき事実に関しては拙著『6~7世紀の日本書紀編年の修正――大化元年は646年、壬申乱は673年である――』(幻冬舎)に述べていますので、参照していただければと思います。旧干支紀年法の公用史実は、拙著の主題である天皇祖族の出自問題と不可分な事実です。
牧尾: 2003年頃に旧草稿の構想を立て、2006年から執筆に取り掛かったという記載が日記にあります。そして、本論第18節の補論7の冒頭にも記したように、2009年正月にはその序章と第1章、つまり拙著の草稿段階のものですが、それを考古地理学者の小野忠凞先生に送っているので、このころには最初のものが出来上がっていたと思われます。その後、「魏志倭人伝ノート」を加えたり、本論第18節の補論を加えたりしたものがこの『邪馬臺国と神武天皇』です。
牧尾: 『古事記の解析』の段階では、神武天皇は崇神天皇の神話化であろうと考えていましたが、1992年に私家本として出版した『古事記考』の段階で、カモ祖族系譜の虚構構造を解明した時点で、オホタタネコの亦の名が豊ミケ主であることに気付き、これが神武天皇の幼名、豊ミケヌと同じであるため、豊ミケ主を素材にして神武天皇が作られたのではないかと考えるに至っています。
実際こう考えれば、壬申乱紀に神武天皇陵が登場して、大和平定戦の戦勝祈願にこの陵が拝祭された理由が判然としますし、またこの陵の位置が、ミワ君の祀る三輪山とカモ君の祀る葛󠄀木山を結んだ中点にほぼ一致する地点であることもこの考えを支持するものとなりました。
神武天皇は、カモ祖族を初め虚構5代、尾張連祖族、天皇祖族、物部連祖族ら、孝霊天皇から崇神天皇までの4世代にほぼ並行する世代のものたちを含む天皇祖族連合軍による、邪馬台国連合に対する侵略伝承を一身に引き受けて語り出された架空の大王と考えられます。
■大和朝廷の成立と邪馬台国の間に起こっていたこととは何か?
牧尾: 西暦2世紀末葉に女王卑弥呼を共立した「女王国」が、拙著で「邪馬台国連邦」と呼んだ24か国です。
この「女王国」は、北九州の奴国を南西端として、瀬戸内海に面した諸国から大和の邪馬台国とその周辺諸国に及ぶ西日本一帯を含む地域であろうと思われますが、この地域は、もともと概して母系母権的習俗を持つ古い部族社会が支配的であったと考えています。文化相は概して後進的です。
そして、先進文明を持った父系父権的部族が、この古い母系母権的社会を、2度侵略しています。つまり、この古い土着社会は、2度、先進文明を携えた男王王権に支配されています。初度が帥升(シュイシャン=スサ~スサノヲ命)王統による侵略であり、西暦1世紀後半の侵略戦争を経て西暦2世紀はほぼこの帥升王統によって支配された男王の時代です。
ところが2世紀末葉に旧土着民による独立戦争が生じ、邪馬台国連邦・邪馬台国連合が成立します。「邪馬台国連合」とは、先に述べた「邪馬台国連邦」24か国に、それぞれ独自の王を持つ狗邪韓國・対馬国・一支国・末盧国・伊都国の5か国を併せた29か国です。
「魏志倭人伝」の史料批判を適切に行って、これを正しく読み解けば、邪馬台国は大和にあった国であり、卑弥呼を共立した「女王国」とは邪馬台国を含む24か国(邪馬台国連邦)の総称であることが分かります。
牧尾: そうです。「魏志倭人伝」は、「邪馬台国」と「女王国」とを異なる用語として厳密に使い分けています。女王国イコール邪馬台国ではありません。
邪馬台国は女王卑弥呼が都する国であり、女王国=邪馬台国連邦に属する国々は卑弥呼を共通の王とする国々ですが、この他、狗邪韓国・対馬国・一支国・末盧国・伊都国の5か国には皆、王があり、女王国に統属しているというので、拙著では、女王国にこの5か国を併せた29か国を「邪馬台国連合」と呼んでいます。
倭国大乱後、帥升王統は邪馬台国連合の周辺域へ押し込められます。これが女王と素より不和であった「狗奴国」(クヌ=国主の国)です。その狗奴国の中心の一つが出雲国です。出雲国が狗奴国の中心地であったとの認識は重要です。これは「魏志倭人伝」、「後漢書」倭伝の史料批判を正しく行えば分かることです。ただし、狗奴国は、単に出雲国だけではなく、邪馬台国連合の周辺域各地にも広がっています。
ともあれ、これら周辺域へと押し込められた「狗奴国連合」は、後進的な国の多い「邪馬台国連邦」に比べれば、先進的な文明を携えた国です。吉野ヶ里を邪馬台国であろうとする議論がありますが、これは誤りであると考えられます。方角を正しながら「魏志倭人伝」を読み解くことで示される邪馬台国の位置とはかけ離れています。
2度目に土着社会を侵略するのが、この狗奴国と連携した天皇祖族です。3世紀の半ばに魏帝国によって追われ韓半島から南九州に疎開した辰王朝の直裔が孝霊天皇であり、この孝霊天皇から崇神天皇までの4世代が、帥升王統と結託しつつ、3世紀後半の半世紀をかけて女王国をほぼ西から東へ侵略し、女王国の本丸、大和の邪馬台国を滅ぼし、磯城纒向に都を置き大和朝廷を樹立します。3世紀末から4世紀初頭のことです。以後、土着母系社会は、男王王権である天皇王権の被支配民となって時代を下ることとなります。
この父系父権的大和王権は、土着の母系母権的社会を丸抱えにしながら、父系王権を維持するための部民とし、巨大な前方後円墳という墳墓の築造に使役しながらその反抗の芽を摘み続けます。古墳時代とは基底庶民社会の長い停滞をもたらした時代でした。
この中で、皮肉なことに、丸抱えにされた基底庶民社会~母系母権社会もまた丸抱えにされたことによってその命脈を長らえることとなりました。
この母系制と父系制の相克の歴史は、日本古代史を貫く主題の一つです。人類起源史へと眺望を開くためにも、日本古代史は重要な視座を提供するものです。
牧尾: 研究手法の大原則として重要なのは、たとえば物理学に典型的ですが、現象を広く、また詳細に俯瞰して、それらを矛盾なく説明できると考えられる仮設を立て、その仮説がそれら現象を矛盾なく説明でき、そしてここが大切ですが、第三者もまた多方面からその仮説を追試でき、矛盾がないと検証できることです。
この検証ができて、ようやくその仮説が真実らしいと認められます。歴史学も科学の一員となるためには同じ道程を歩まなければならないと思っています。仮説を立てて、その仮説で矛盾がないと考えられても、それを他者が追試できるよう、明確に記述しなければなりません。このことを念頭に置いて論じるように気を付けています。
年輪年代法のように、基礎データ部分をブラックボックスの中に置いたままのような手法はいけません。第三者による追試を拒むような手法は科学的ではありません。ですから、拙著では年輪年代法による結論は利用を避けています。
牧尾: はい。今年、2023年中には『古事記の秘める数合わせの謎と古代冠位制度史』をまた幻冬舎から上梓させていただく予定です。旧草稿の主に第4章・第5章から古代冠位制度史に関連する部分のみ抽出した論稿です。
「古事記」の寓意の構造に関して論じた旧草稿が第4章・第5章を中心に、机の上に大量に積み上がっていますので、今後これを十分の一か五分の一ぐらいまで圧縮するか抄録して、1、2冊の書籍を出せればと思っていますが、いつになりますか…。
また、旧草稿の最後の章である第6章は、「古事記」「日本書紀」が虚構した上代史を越えて、人類の起源史へ迫ろうとする章ですが、この第6章は未だ手つかずのままです。拙著『古事記の解析』に倂録しました「人類の起源と愛および恋について」を今日的意匠のもとに書き直したものになる予定です。「ヒトが愛を考案したのではない、愛がヒトを創ったのである」とそこに書きました。
拙著はこの旧草稿の第6章にあたる論稿を書き上げた時点で完結します。かつての在野研究者、高群逸枝が洞察し憧憬した先をみはるかしながら、拙著帯文の「私たちはどう生きるべきなのか」という問題に更に迫ることができる論稿になれば幸いです。
牧尾: 先日、皇學館大学のI教授からお葉書をいただき、その中に「ご高著は、堅実な研究書であるにもかかわらず、文章も平易で、頁数に比して価格も安価に設定されておりますので、一般の方々にも広く読んでもらえるものと期待しております」とありました。私も同じ期待を抱いています。
また、最後にこの場でお伝えしたいのですが、恥ずかしい不思議なミスプリが拙著にありました。著名な考古学者杉原荘介氏の名を杉原庄介氏、杉浦氏などと誤っています。適宜修正しながらお読みいただければ幸いです。
(了)
牧尾 一彦(まきお・かずひこ)
著者:牧尾 一彦
出版:幻冬舎
価格:2,420円(税込)