スポーツ選手に警察官、科学者や研究者。
憧れる人が多いこれらの職業だが、どんな職業でもいざ就いてみると、「憧れ」と「現実」のギャップがある。憧れの職業に就いたはいいものの、仕事の現場で「こんなはずじゃなかった」と感じることは、たぶん珍しくない。そのギャップをどう考えるかが、一人前になれるかどうかを分けるのだろう。
やはり、「憧れの職業」として定番の医師も、例外ではない。
『孤独な子ドクター』(月村易人著、幻冬舎刊)は、念願叶って外科医になった主人公が、医療の現場での様々な経験を通して一人前になっていく物語だ。
研修期間を終えて東国病院に勤めはじめたばかりの山川悠は、「手術が好き」「手術が楽しい」という一点で外科医になったが、勤務開始早々、現実とのギャップに打ちひしがれる。
外科医といっても一人の医師であり、手術以外にも大切な仕事が山積みだ。医師としての基本的な業務ができないうちから、手術の執刀はできないし、手術にしたところでいきなり担当医として執刀させてもらえるわけでもない。
執刀医のアシスタントとして手術の現場に慣れ、そこから少しずつメスを使うことに慣れていく。担当医として執刀を任せられるようになっても、難易度の高い手術は経験豊富な先輩医師が担当する。そうやって、何年もかけて外科医としての技術を磨き、「できること」を増やしていく。
そしてもちろん、すべてがトントン拍子にいくわけではない。山川もなれない手術の立ち会いで四苦八苦。見学に徹しようとすると何か手伝えと怒られ、手伝おうとすると余計なことをするなと怒られる。
ようやく手術の執刀ができるようになっても、自分の意図通りに手術が運ばない。生身の患者の体は、事前に学んできた知識をやすやすと裏切るのだ。結局、アドバイザーとして参加している先輩医師の指示に従うだけという状態になるのだが、それもままならない。
先輩の指示通りできればまだいいが、技術も経験も足りず「操り人形」になることもできない自分に、徐々に焦りの気持ちが生まれていく。何をやっても怒られる日常。そして、自分にはすべてが一人前の外科医の水準に達していないという自覚。
こうしたことを痛感し、心に迷いが出始めた山川。仕事場での振舞い方がわからず混乱し、徐々に仕事の現場で委縮するようになってしまった彼は、その矢先、ある患者の処置についてミスをし、患者を危険な目にあわせてしまう。
「手術って面白い」
そんな生半可な、覚悟のない状態で飛び込んでいい世界ではなかった。
手術が好きなだけで外科医になってはいけなかったのだ。
これ以上、自分には外科医を続けていくのは難しいかもしれない。そう考えた彼は、ある決断を下す。
憧れと現実の違いに戸惑い、委縮して、やるべきことができなくなる。そうなるとまた失敗し、もうダメだと逃げ出したくなる。この悪循環は、医師でなくても多くの人が経験しているはず。しかし、この壁を超えられるかどうかが、一人前になれるかどうかの分岐点なのかもしれない。上司や先輩ができるようになるまで丁寧に教えてくれればいいが、そんな職場ばかりではない。疎まれても食らいついて教えを乞う姿勢は、やはり成長には不可欠なのだろう。
その後の山川がどんな行動をとるのかは、ぜひ読んで確かめてみていただきたい。新しい仕事やこれまでやったことのない挑戦に取り組んでいる人にとって、大きな励ましになる一冊だ。
(新刊JP編集部)
■新人外科医の挫折と再起を描いた『孤独な子ドクター』現役医師の作者に聞いた
月村: そうですね。外科医になって大きな病院に入って、そこで色々な挫折があって…といういきさつとか、その時の心の動きなどは実体験に近いです。主人公の山川との違いは、僕は辞めずにそのまま続けている点です。
月村: 辞めそうになったことは正直何度もあるんですけど、なんとか踏ん張ってきたという感じです。だから、辞めたいと思う山川の気持ちはすごくわかります。働く環境が結構厳しくてですね…。
月村: 働く病院とか手術の担当医にもよるんでしょうけど、外科の世界は、新人のうちは相当きついことを言われるので、それで辞めていく人はたまにいます。
仕事がきついというのは覚悟のうえで外科医になったとはいえ、僕も人間関係などで悩むことは多かったです。外科手術は一人ではできないので、周りの人とのコミュニケーションは大事なのですが、先輩医師とのコミュニケーションがうまくいかなかったり、経験不足がゆえに委縮してしまったりして、孤独な感じになってしまうのが一番つらいところでした。この本ではそういう感情をうまく表現したかったんです。
月村: ドラマなどでも医療を題材にしたものがありますが、医師という仕事の華やかな面ばかりが描かれていたり、色々な困難があっても最後はうまくいって患者に感謝されて、みたいな筋書ばかりなんですよね。現場で働いている身としては、それはちょっと生ぬるいなという感想を持っていました。
月村: 精一杯やっても患者から訴えられるようなこともありますし、先輩にいじめられて辞める若手医師もいます。なかなか報われない仕事だと思いますね。
僕は医師になって3年目で、やっと少し慣れてきたといいますか、周りが見えるようになってきたところなのですが、別の仕事をしている同世代の友達に、転職しようか悩んでいる人が結構いるんです。そういう人と会うと「医者はいいよな」と言われるのですが、きついこともつらいこともあって、辞めようかどうか日々葛藤するのは医者も同じなので、今回の本が同世代の仕事に悩んでいる人への励ましになればいいなと思います。
月村: 僕の場合は山川とはちがって、手術をやりたいという気持ちだけで医師になったのではなくて、根本的には患者さんを助けたいという思いを持って医師になりました。
ただ、「患者さんを助けたい」って漠然とした「大きな目標」です。働いていると、なかなかそういうところまで意識が向かないというのはありました。「患者さんを助ける」というよりは、「どうやってこの手術を成功させようか」とか、外来なら「たくさん来る患者さんをどうやってさばいていくか」という、目の前のことを考えるのに精いっぱいになってしまいます。
月村: そうですね。外科医にとって一番大事なのが手術ですから、日々上手になりたいと考えるものなのですが、一進一退です。明らかな失敗というのはほとんどないのですが、前にやった手術を次はもっとうまくできるかというと、必ずしもそうではないですし、なかなか階段を昇るようにはいきません。
だから、手術だけがモチベーションで仕事をやっていると辛くなることがあると思います。そういう時に、自分はどうして医者になったのか、とか手術がうまくなった先に何があるのかという「大きな目標」が心の支えになるのかもしれません。
月村: それもありますし、患者さんごとに血管の走り方が違ったりしますから、同じ手術でも同じようにできるわけではないんです。
月村: 単純な手先の器用さもありますし、あとは先輩医師を見ていると、手術前にどれだけイメージトレーニングをしているかというところも大きい気がしています。
僕も最近できる限りやるようにしているのですが、やればやるほど、手術の流れはもちろんタイムスケジュールまで具体的に思い描けるようになってくるんです。これを始めてから、自分の中では手術が少しはうまくなってきたかなという気はしています。去年までは「行き当たりばったり」という感じだったので…。
■何をやっても怒られる…新人医師のキツイ日常
月村: 作中でも書いたのですが、一生懸命やっているのに、何をやっても先輩に怒られる時期があって、その時はつらかったです。手術のアシスタントにしても、主治医の先生がやりやすいように気を回しても怒られるし、かといって何もしなくても怒られる。「じゃあ、何をしたらいいの?」と混乱していました。
自分が主治医を務める手術でどうしてほしいかって、医師によって違うんです。点滴一本にしても「それくらい出しとけよ」っていう先生もいれば、「全部自分でやるから余計なことをするな」という人もいる。かといえば「点滴は自分でやるけど、他のものは用意しておいてよ」という人もいます。一人一人の好みを覚えるといっても、その日の気分で言うことって変わりますからね。だから、こちらとしてはどうしようもないんですよ。
月村: これはもう、そういう先生だと思って納得するしかないんですよね。もちろん、優しい先輩も、親切に教えてくれる先輩もいるんですけど、余裕がない先輩もやっぱり中にはいるので。
忙しくて新人の指導まで気が回らないというのもあって、誰が悪いという話ではないと今は思っていますが、当時は落ち込むことが多かったです。一方、先輩から何を言われても全然気にしない人もいるんですよね。そういう人は強いな、と(笑)。
月村: 辞めよう辞めようとは思っていましたし、辞めてもおかしくなかったと思っていますが、そんな中でも簡単な手術を任せてもらえてうまくいったとか、次の手術を任されたとか、そういう小さな成果みたいなものはモチベーションになりました。
あとは、忙しく働いているうちに辞めるタイミングを逃したというのもありますし、落ち込みながらも一生懸命働いていること自体に充実感を持てたりもしました。こういうことがあって、なんとか持ちこたえることができたと思っています。
月村: これは僕もまだ完全には理解していないんですけど、そういう風に考えている先生はけっこういるんですよ。
月村: 外科医の中には手術がうまくなるために仕事をしているという人もいるくらいですからね。外科の仕事のメインは手術であって、手術は技術ですから、そういう考え方もありかなとは思います。
この世界は10年目15年目でも若手と言われるのですが、それだけ手術の上達には時間がかかるということなんです。だから、「長く続けること」というのがそもそも大事で、そのためのモチベーションとして「自分のためにがんばる」のが必要なんでしょうね。個人的にはちょっとどうなんだろう、とは思うのですが、そうやってモチベーションがはっきりしている人は、なかなか心が折れなくて強いです。
月村: 僕は患者さんのために、とは思っています。自分が上手になることが患者さんのためになる、という感じですかね。
手術って、患者さんが麻酔をかけられて眠っている間にお腹の中を開いて行うもので、相手の知らないところで体を切ったりするわけですから、上手な人がやらないと失礼だと思いますし、だからこそ自分もうまくならないといけないですよね。
まだできる手術はさほど多くないのですが、与えられた手術を一つずつ完璧な準備をしてこなしていくのが課題です。
月村: 医者だけでなくどんな仕事でも、目の前の仕事に追われて、それをこなしているだけだと、自分が成長している実感が得られずに辛くなることが多いと思います。そんな時には、自分がその職業を選んだ理由みたいなところを振り返って、最初に考えていた大きな目標を思い出すことが大事なのかもしれません。
それと、この小説の山川のように、どうしようもなくなったら「逃げる」という選択肢もありだと思うんですよ。仕事を辞める決断をして、気持ちが解放されてはじめて耳に入ってくる声もあるので。
逃げるというと、よくないことのように言われますけど、逃げっぱなしにしないで、その経験を次に生かしていければいいんだと思います。今回の本は外科医の世界について書いていますが、医者じゃなくても、仕事で悩んでいる人の励ましになればいいなと思っています。
(新刊JP編集部)
月村 易人(つきむら・やすと)
1991年生まれ。消化器外科医。趣味はプロ野球観戦だが、今は手術の修練や日々の予習・復習に追われており、久しく球場に足を運べていない。ほとんどの時間を仕事に捧げているが決してデキる外科医というわけではない。そんな不甲斐ない自分をいつも励ましてくれるのがもう一つの趣味である小説である。小説の中で頑張っている主人公に出会うと「僕ももう一度頑張ってみたい、頑張れる気がする」と思えてくる。僕もそんな魅力的な主人公を描いて、医師として人の命を、小説家として人の心を支える存在になりたい。
著者:月村 易人
出版:幻冬舎
価格:1,320円(税込)