だれかに話したくなる本の話

朝井まかて『グッドバイ』を生んだ創作作法を明かす

出版界の最重要人物にフォーカスする「ベストセラーズインタビュー」。
第108回の今回は『グッドバイ』 (朝日新聞出版刊)を刊行した朝井まかてさんが登場してくれました。

『グッドバイ』の舞台は、相次ぐ外国船の来航に揺れていた幕末の日本。長崎の油商「大浦屋」の娘・大浦慶(おおうら・けい)は先細る油商いに代わる新しい収益源として「茶葉」に目をつけます。売り込み先は外国。言葉もわからないし茶葉のことなんて何も知らない。無謀とも思える挑戦は、慶の人生を思わぬ方向に転がしていきます。

一人の商人の人生の因果と激動の時代が描かれたこの作品について、朝井さんはどんなことを語ってくれたのでしょうか。注目のインタビュー最終回です。

(聞き手・構成:山田洋介、写真:金井元貴)

■何か一つでも新しいチャレンジを

――『グッドバイ』もそうですが、朝井さんの小説は歴史を正面ではなく、横から見ているところがありますね。このスタイルは小説を書き始めた頃から一貫したものなんですか?

朝井:へそ曲がりなんです(笑)。私はデビューしたのが50歳前と大変遅かったので、執筆経験が少ないんです。だから自ずと、書くつどチャレンジになるんですね。今は自覚的に、何か一つでも、ささやかでも、前作とは違った挑戦をしようと思って臨んでいます。

――自己模倣はしないように、ということですか?

朝井:自己模倣といっていいのかわかりませんが、『眩』(くらら)という作品で浮世絵師を書いたので、もう浮世絵師はやらない、などですね。書く時はその世界のことを調べますから、同じ題材でやろうと思ったら基礎知識のある状態で始められるし、たぶん深いところまで潜っていける。その利点はわかっているつもりです。でも今は、毎回新しい世界に入っていく方が私自身が楽しいんです。

「これ、朝井が書いたの?」と驚かれるようなものを毎回書きたいです。

――ある人から、朝井さんは「囚われの人」を書く描写に定評があるとお聞きしました。

朝井:牢屋でしょう? 本当にやめてほしいんですけど、編集者さんからも「牢屋を書かせたら日本一」とか言われるんですよ。正直、ちっとも嬉しくない(笑)。

ただ、牢屋って想像のしがいがありますよ。密室ですし、中の匂いや冷たさなど、感覚的なものを書いているうちに、だんだんノリに乗ってきて……。

――歴史小説を書く時の題材選びについて教えていただきたいです。

朝井:以前から興味を持っていた人や事象に取り組むこともありますし、編集者さんから「こういうのを書きませんか」と提案していただくこともあります。提案していただいてから何年も過ぎて、やっと「そろそろやってみましょうか」となることもありますね。

――ちなみに今ご興味がある人やテーマはありますか?

朝井:今すでに着手しているものは別にして、「琉球」についてはいずれ必ず書いてみたいと思っています。私の祖母が琉球出身で、「まかて」という名前も祖母の琉球名から付けました。このペンネームでデビューしちゃった以上、これはもう宿命でしょうね。

書く前にあまり話すと違うことをやりたくなるので、ここまでにします(笑)。

――朝井さんが人生で影響を受けた本を3冊ほどご紹介いただければと思います。

朝井:ユクスキュルの『生物から見た世界』と、チェーホフの短編集。もう一冊は石牟礼道子さんの『苦海浄土』です。

『生物から見た世界』は、私たちの「心」は自身の胸の中にあるわけではなく、他者との関係性の中にあるということに気づかされます。一人ひとりの生きている「世界」は、違うのだということにも。そういう感覚を私ももともと持っていて、この本に出合ったことで確信を深めたところがあります。人間中心のものの見方や考え方を、優雅にひっくり返してくれる本ですね。

チェーホフは、もう「とにかく好き」としか言いようがない(笑)。「いつかこういう境地に達せられたらいいなあ」と思う作品が多々あります。いろいろな訳が出ていますが、沼野充義さんの訳が好きです。 普段、起きてから寝るまでずっと小説を書いているか資料を読んでいるかなんですけど、寝る前だけは自分の楽しみのための読書をしようと決めていて、チェーホフの短編集は必ず枕元に置いています。

――『苦海浄土』についてはいかがですか?

朝井:ご存じの通り水俣病について書かれた小説ですが、ところどころに当時の新聞記事だとか報告書の類が引用されているんですね。だから、こちらもレポートを読んでいる感覚で読むわけですが、ある時にはたと「これはフィクションなんだ」と気づく瞬間がある。 ともかく描写が素晴らしいんです。公害や震災に対して何かを投げかける時に、情緒的に書くと本質から外れてしまうんじゃないかという恐れが私にはあるのですが、石牟礼さんは水俣の海がかつてどんな色をしていたか、水銀を飲んだ猫が狂い踊っている様子などを、苦しみながらですが情感を交えて書いています。

明治以降、近代化を推し進めた日本は、その矛盾、欺瞞を昭和という時代まで持ち越してしまいました。あの事件は歴史そのものを孕んでいます。 小説家としてのありようや小説の使命のようなものが、あの小説の中にある気がしています。かつての水俣の海の美しさを、実際には見たことがないのに私はもう知っているんです。『苦界浄土』を通して。

――最後に、『グッドバイ』について朝井さんの読者の方々にメッセージをお願いいたします。

朝井:幕末という時代に、市井のいち女商人が確かに世界とつながっていた瞬間があったということを知っていただけたらうれしいです。彼女が当時見ていた景色を、幕末から明治にかけて日本と世界が持っていた感情を、ぜひ体験していただきたいです。

(インタビュー・記事/山田洋介、撮影/金井元貴)

グッドバイ

グッドバイ

長崎の油商・大浦屋の女あるじ、お希以―のちの大浦慶・26歳。黒船来航騒ぎで世情が揺れる中、無鉄砲にも異国との茶葉交易に乗り出した。

商いの信義を重んじるお希以は英吉利商人のヲルトやガラバアと互角に渡り合い、“外商から最も信頼される日本商人”と謳われるようになる。

やがて幕末の動乱期、長崎の町には志を持つ者が続々と集まり、熱い坩堝のごとく沸き返る。

坂本龍馬や近藤長次郎、大隈八太郎や岩崎弥太郎らとも心を通わせ、ついに日本は維新回天を迎えた。

やがて明治という時代に漕ぎ出したお慶だが、思わぬ逆波が襲いかかる―。

いくつもの出会いと別れを経た果てに、大浦慶が手に入れたもの、失ったもの、目指したものとは―。円熟の名手が描く、傑作歴史小説。

この記事のライター

山田写真

山田洋介

1983年生まれのライター・編集者。使用言語は英・西・亜。インタビューを多く手掛ける。得意ジャンルは海外文学、中東情勢、郵政史、諜報史、野球、料理、洗濯、トイレ掃除、ゴミ出し。

Twitter:https://twitter.com/YMDYSK_bot

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