「人生にほんの少しの彩りがあれば前を向ける」 作家・伊与原新が『月まで三キロ』で伝えたかったこと
東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻、博士課程修了の経歴を持ち、『ルカの方舟』や『コンタミ 科学汚染』『博物館のファントム』など、科学や理系的世界を題材にしたミステリの書き手として知られる伊与原新さん。
その最新作となる『月まで三キロ』(新潮社刊)は、これまでのイメージを一新するような人間ドラマが描かれた短編集となっている。
何もかもを失い、死に場所を探してタクシーに乗った男、ある事件から幸せを諦めかけているアラフォー女性、優秀な兄や個性的な伯父と対照的にフツーで何者にもなれずに悩むフリーター…。そんな主人公たちの心に空いた隙間を埋めていくものとは?
書店を中心に話題を呼んでいるこの短編集について、伊与原さんにお話をうかがった。
(取材・文:金井元貴)
■「好きなものをちゃんと大事にできて、揺るがない人は強い」
――本書に収録されている6篇の作品に通じているのは、何かを喪失した人間が再生に向かおうとする姿です。そしてその中にサイエンス(科学)の要素が入ってくる、非常に印象深い作品でした。今回は書き下ろしになるんですよね。着想から教えていただけますか?
伊与原:そうですね。全作書き下ろしです。着想は、デビュー以来お世話になっている編集者が神奈川県真鶴町にある「遠藤貝類博物館」という博物館に行ったという話からです。
――貝の博物館に。
伊与原:はい。その博物館がすごく良かったとおっしゃっていて、そもそも貝には全く興味がなかったのだけど、いざ入ってみたら膨大な貝のコレクションに圧倒されたと。非常に良かったそうなんです。
貝ってそんな興味を持たれるようなものではないですし、どこが面白いのかなかなか理解できないものだと思うんですね。でも、そうやって示されると意外に関心がわくのかもしれない。その感覚を何とか小説にできないかと話していたんです。
それと並行して、ある程度の年齢になると「人生こんなはずじゃなかったのに」と思うところが出てくるものですが、その心の隙間みたいな場所に未知の世界が飛び込んで来た時に、世界の見方が少しだけ変わるんじゃないかと考えていて、その変わる瞬間を小説にしたいなと思っていました。
――貝の博物館というと、まさに「アンモナイトの探し方」という短編が入っていますが。
伊与原:そうですね。着想はまさにそこというか。その遠藤貝類博物館には在野の貝類研究者である遠藤晴雄氏のコレクションが収められているのですが、アンモナイトも在野の研究者による有名なコレクションがありますし、ちょっとロマンチックなイメージがあるじゃないですか(笑)。小説の題材にできそうだなと思って、これで書けそうですねという話からスタートしました。
――では、「アンモナイトの探し方」を最初に書かれた。
伊与原:最初に書いたのはそちらではなく、表題になっている「月まで三キロ」ですね。
――すべてを失い自殺しようとしている男性と、タクシーの運転手の話ですね。「月まで三キロ」という言葉、元ネタを知らなかったのですが、かなりロマンチックです。
伊与原:「月まで三キロ」って本当にあるんですよね。まあ、メディアでも取り上げられていたから知っている方も多いと思いますが、いつか題材として使いたいと思っていました。
――先ほど、年齢を重ねると「人生こんなはずじゃなかったのに」と思うときがあるとおっしゃっていましたが、まさにこの自殺しようとする男性はそうですよね。ただ、そこから救ってくれる人もいて、それはどんなに絶望しかけても好きものがあって、それが揺るがない人たち。
伊与原:そうですね。好きなものをちゃんと大事にできて、それが揺るがない人。そういう人は強いですよね。
「月から三キロ」はテーマとしては重い話ですが、タクシーの運転手も、どんなに絶望したとしても自分が好きだった世界を完全に忘れずに生きているのは確かで、そのこと自体が絶望からかすかに救ってくれることになるのかもしれません。
――完全に再生するかは分からないけれど、前を向こうとする力をくれる。
伊与原:そうです。この短編集で描きたかったのは、前向きになって人生が好転するという話ではなく、心にほんのわずかな変化が起きた人たちの物語なんですよね。それが読者にとっても励みになるんじゃないかと。まるっきり好転したら逆に嘘くささを感じてしまうじゃないですか。
――確かに、人生はそう簡単には変わりません。
伊与原:そう簡単に変わらないからこそ、ほんの少しでも彩りがあれば、前を向くことはできるかもしれないということですよね。
――火山学者の「先生」とその弟子となる学生、そして山が好きな女性のやりとりを描く「山を刻む」で、終盤に学生が「先生」について語るところがあります。あの言葉はまさに、好きなものがあることの大切さを物語っているのではないかと思いました。
伊与原:実は「山を刻む」の先生は、私の研究者時代に周囲にいた何人かがモチーフになっています。特定の人というよりはいろんな人を重ね合わせた形ですね。
火山学者の中には山にさえ登っていればいいという人もいますし、海の研究者の中には船に乗っているのが何より好きという人もいます。好きなものが立派な研究成果や名誉に直結しなくてもいいという人も多いんです。本当なら授業もせず論文も書かず、一日中岩石を顕微鏡で見ていたいと言っている教授もいました。まさにそうなんだろうなと。
――伊与原さんご自身ももともと研究者でしたが、そういう感じだったんですか?
伊与原:いえ、僕はそういうところが足りなくて研究者をやめたんです(笑)。
ただ、あの世界にいたからこそ、科学の世界で生き続けている人たちの魅力は分かっているつもりだし、うらやましくもあります。本当にそれさえあれば何もいらないという人はたくさんいますし、そういう人でないと生き残っていけない世界でもありますから。
――「月まで三キロ」の次に取りかかった作品はなんですか?
伊与原:「星六花」と「天王寺ハイエイタス」ですね。
――「星六花」はウェブ上で期間限定で無料公開されている作品。そして「天王寺ハイエイタス」はこの中だと少し毛色が違うような印象を受けました。
伊与原:そうですね。「天王寺ハイエイタス」は僕が関西出身ということで関西弁を使いたいというところから題材を選んで書きはじめました(笑)。僕の中でのイメージは、大阪でちょっと切ない話を作るとすると、大阪湾とかブルースというような単語が出てきて。
――伊与原さんの青春時代がモチーフに?
伊与原:というより、おそらく大阪の人に共通するセンチメントを呼び覚ますものがそれらにあると思っています。それと科学を結びつける試みを「天王寺ハイエイタス」でやってみたということです。
――一方の「星六花」は東京の話ですね。
伊与原:そうですね。都会的な話で、ツイッターでコミュニケーションをするというようなシーンもあります。
――SNSそのものを題材にした小説も多いですが、完全に小道具で使っているというか。
伊与原:若い人は分からないですけれど、僕自身は、SNSは小説の小道具にしづらいと思っていたんです。ただ、東京の話ですし、今の男女がコミュニケーションを取るうえで避けて通れないものかなと思いまして。
――「エイリアンの食堂」は研究学園都市・筑波を舞台に、食堂を営む親子と不思議な雰囲気を纏った女性の宇宙を巡るお話です。
伊与原:はい。女性のニックネームもプレアさんですからね。このプレアさんに関してはモチーフはいなくて、想像でつくりました。面白い人を造形しようと思っていたら、ああいう人物像になりました。気に入っています。
――そして、この短編集の着想にもなった「アンモナイトの探し方」。
伊与原:先ほど言ったような経緯がありまして、タイトルが先に決まりました。そして、アンモナイトのコレクションをしている研究者のおじいさんが浮かんできて、あとは僕の中で北海道でアンモナイトを採掘しているシーンが夏と結びつくというか、夏っぽいなと。だから、舞台を夏休みにして、都会から来ている子どもとおじいさんの話、と。
――その2人はいずれも、心にもやもやしたものを抱えています。
伊与原:書き始めの頃は子どもとおじいさんの爽やかな出会いみたいなことも考えていましたが、短編集の全体のテーマが固まってきたときに、それぞれの人生に屈折があったほうがいいと思ったんです。おじいさんにも子どもにも悩みがある。子どもなりに人生の局面に向き合っているという状態、ということをストーリーに織り交ぜました。
――地質にまつわるお話ですが、伊与原さんは子どもの頃から地質学がお好きだったんですか?
伊与原:特に鉱物少年とか、化石が大好きというのはなかったです。ただ、科学は好きで、漠然と物理学がやりたいと思っていましたし、フィールドワークにも憧れがありました。
――全編を通じて読んでいない人にも説明しやすい小説だと思いました。
伊与原:確かにそうかもしれません。僕自身はうんちくが入っている小説が好きで、こんな面白いことがあるんだよということを、いかに説教臭くなく上手く散りばめるかということは書く上での課題にしてきたのですが、今回はそのうんちくの要素を減らしつつ、科学の知識が出てくる必然性を考えながら書きました。そういった感想をいただけたということは、それが上手くいったのだと思います。
(後編はこちらから)
■新潮社ウェブサイトにて、本書収録の「月まで三キロ」「星六花」を1月31日まで無料公開中。
https://www.shinchosha.co.jp/tsukimade3kiro/info.html