「反省をしない」森の民が突きつける、私たちの社会への問い
私たちは集団で社会生活を送るために、不文律を共有している。例えば「他人に迷惑をかけてはいけない」だとか、「何か問題や失敗が起きた時は反省をする」といった行動の規範はそれに当てはまるものだろう。
また、モノは必ず誰かが所有していて、貸せば返す義務が発生する。また、お金であれば貯めるほど「良い」とされる。所有しているものによっては個人の持つ力を示すこともできる。
こうした「当たり前」と言える現代の日本人の持つ価値観と遠く離れたところにいるのが、インドネシアとマレーシア、ブルネイにまたがるボルネオ島に住む狩猟採集民「プナン」である。
プナンの言葉には「ありがとう」に該当するものがない。反省もしない。ものを借りても返さない。私たちが普段やっている当たり前のことを彼らはしないのだ。
この森の民・プナンの生活に入り込み、フィールドワークを行った立教大学教授の人類学者・奥野克巳氏による『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房刊)は、私たち読者に戸惑いと新たな視座を与えてくれる一冊だ。
■「反省をする」とは一体どういうことか?
「反省しない」というプナンの人々の特徴を聞いて、「反省をしなかったら同じ失敗を繰り返すのでは」と思うだろう。しかし、ここで考えるべきことはほかにある。それは「反省しないとはいったいどういうことか」ということだ。
それは裏返せば「反省するとはいったいどういうことか」という問いでもある。 奥野氏はプナン語に「反省する」という内容にズバリ対応する言葉がないことを指摘し、もし問題が発生しても問題を起こした当の人間の責任を追及するわけでもなく、「それぞれが気をつけよう」というなあなあな結論で終わらせていたことをつづる。
この「反省をしない」もしくは「反省をする」とは何かという問いは、奥野氏を突き動かす。その答えを知るために、カントやフィヒテといった哲学者の文献をあたるが、確かな理解は得られない。脳科学や自然科学にも手を出すが、答えは見つからない。一通り調べたが、「何も分かったとは言えない」だった。
■プナン人が「反省をしない」のはなぜか?
戻って、「反省をしない」とはどういうことか。プナン人はなぜ反省をしないのか(もしくは、しないように見えるのか)。奥野氏は2つの理由を推察する。
ひとつはプナンが「状況主義」だということをあげる。万事うまくいくこともあれば、場合によってはうまくいかないこともある。そこでくよくよ後悔したり、後悔を反省へと階段を上げても、何も始まらないということをよく知っているというわけだ。
もうひとつは、プナンの時間の観念のありようだ。私たちは直接的な時間の中で、未来をより良くするために、反省をしながら同じ失敗を繰り返さないよう学習することが大事であると考える。しかし、プナンにはそういった時間感覚とそれをベースとする精神性はない。狩猟民的な時間感覚は、近代的な「よりよき未来のために生きる」という理念ではなく、「今を生きる」という実践に基づいて組み立てられている、と指摘するのだ。
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奥野氏は述べる。プナン社会には自死や精神的なストレスというものが「ない」とは言い切れないが、顕在化していない、と。
おそらく、この本を読んでいると、反省をせずに生きてみたいという気持ちが沸いてくるだろう。それだけではない。プナン人たちの考え方の中に真似したいと思えるものもある。しかし、私たちが生きているのは日本であり、日本の社会の中で生きているのだから、それはかなり難しい。
しかし、多様性の時代と言いながら、自分は周囲を「当たり前」という価値観で抑えつけていないだろうか。自分が「当たり前」だと思っていることは本当に正しいのだろうか。文字通り“頭がひっくり返る”一冊だ。
(新刊JP編集部/金井元貴)