だれかに話したくなる本の話

欧米では地位の低い「翻訳者」 日本でリスペクトされる理由

出版業界の最重要人物にフォーカスする「ベストセラーズインタビュー」。 2009年にスタートしたこの企画も、今回で100回目です。

節目となる第100回のゲストは、アメリカ文学研究者であり翻訳家の柴田元幸さんが登場してくれました。柴田さんといえば、翻訳書だけでなく自身が編集長を務める文芸誌「MONKEY」ででも知られています。

今回はその「MONKEY」のお話を軸に、お仕事である翻訳について、そして研究対象であるアメリカ文学についてお話を伺いました。今回はその第三回です。(インタビュー・記事/山田洋介)

■日本は翻訳者へのリスペクトが強い国

――翻訳家という職業についてもお話を伺いたいです。日本では翻訳家はかなりリスペクトされていますが、欧米ではそうでもないということを「MONKEY vol.14 絵が大事」の号で書かれていました。

柴田:欧米の翻訳者のエッセイなどを読むと、ほとんど愚痴しか書いてないですよ(笑)。自分達がいかに無視されているかという。

日本の場合、明治以来の伝統として「西洋は進んでいて、日本より高いところにある」という価値観があります。その進んでいるところのものを日本に紹介する橋渡し役ということで翻訳者がリスペクトされるようになったんだと思う。

――確かに、日本で翻訳者はクリエイターに近い扱いをされますからね。

柴田:本当にそう思います。「誰が翻訳したのか」にまで読者の目が行くというのはすごいことです。

ただ、日本語はほかのたいていの言語とずいぶん違っていて、英語からフランス語みたいに機械的にできる部分はほとんどないから、今も昔もひどい訳は本当にひどい(笑)。そういう翻訳書も少なからずあるから、翻訳者に目が行くというのもあるんだと思います。他人のことを言うのは簡単ですが。

さっきお話しした「西洋は進んでいる」という価値観は訳し方にもあらわれていて、原文に対するリスペクトは欧米の翻訳者よりも日本の翻訳者の方が強いです。だから、英語の原文には忠実だけど日本語としては不自然というケースがどうしても多くなる。

逆に日本語を英語に訳す時は、「日本文学だけど、英訳するならもうそれは自分達のもの」という感じです。だから、日本語には忠実だけど英語としてはちょっと、という訳文はまず編集者が通しません。欧米では「翻訳のように見えない」というのが翻訳の理想なんです。

――アメリカ文壇については常にチェックされているかと思います。個人的に注目している作家について教えていただきたいです。

柴田:一番はやはり自分が訳しているブライアン・エヴンソンやレアード・ハント、ケリー・リンクの三人です。

自分が訳している作家以外だと、松田青子さんが訳しているカレン・ラッセルかなあ。『紙の民』を書いたサルバドール・プラセンシアなど次の世代も出てきていて、そのあたりは藤井光さんがよく訳しています。

「新しい作家は藤井さん、既存の作家は自分」という棲み分けがあるわけでは全然なくて、もっと大人気なく競い合いたいのですが、今まで訳してきた作家の新作を追っているだけで時間が経ってしまって、なかなか新しい作家を勉強できないのが悔しいところです。

――英訳されたらおもしろいと思う日本の作家はいますか?

柴田:一番は町田康さんですね。文章のトーンがころころ変わるので英訳するのはすごく大変ですが、若手に誰を訳したいか聞くと、まず町田さんの名前が出ます。

普通、文章にはある一貫したトーンがあって、そこがしっかりしているからこそ色々なことが自由にできるわけです。そのトーンを文体とかスタイルと呼ぶわけですが、町田さんは、一貫したスタイルを絶対に持たないことをスタイルにしている。

あとは津村記久子さんや小山田浩子さんもいいですね。小山田さんは昨年イベントで一緒にニューヨークに行ってもらったんですが、エヴンソンと意気投合していました。どちらも夢や妄想を捕まえるのがすごくうまい作家ですから、通じるところがあったんだと思う。

――アメリカ文学のメインストリームを担っているのはどういった作家ですか?

柴田:少し前だとジョン・アップダイクやソール・ベロー、今だとドン・デリーロだとかジョン・アーヴィングですかね。でもデリーロなどは「文壇のボス」という感じではなくて一匹狼の世捨て人のようにふるまっていますから、中心という感じの中心はないのかもしれません。

――いずれも幻想や妄想というよりはリアリズムの作家ですね。

柴田:そうですね。以前、ニューヨーク・タイムズの記者と話していて、日本ではジョナサン・フランゼンよりポール・オースターの方がずっと売れていると言ったら、「そんな馬鹿な!」という反応でした。あれだけ自由な国ですけど、こと小説に関しては「人生を忠実に写し取るべきだ」みたいな風潮は根強くある。

対して、日本文学の方が現実と幻想が地続きになっているような作品が古くから多くあります。村上春樹さんについて「アメリカ文学のポストモダニズムの流れの中に位置づけるより、『雨月物語』のような幻想世界と現実が地続きになった日本文学の伝統の中で考えた方がいいのではないか」と言った人がいましたが、その通りだと思いますね。

ただ、アメリカでも現実世界と幻想世界の継ぎ目がないような作品を書く人が出てきていて、ケリー・リンクやエイミー・ベンダーなどを読むとアメリカ文学も変わってきたなと感じます。

――その部分では日本文学がアメリカ文学よりも先行している。

柴田:日本文学からの影響があったという話ではなく、あくまで「見た目」の話ですけどね。

最終回 ■「As if there were no tomorrow.」というつもりで につづく

第一回 ■「MONKEY」創刊は「魔が差した」 を読む
第二回 ■「誰もが高度なことをやっていた時代」1950年代アメリカ文学の凄み を読む

MONKEY vol.15 アメリカ短篇小説の黄金時代

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特集 アメリカ短篇小説の黄金時代

1940年代から60年代にかけて多くの短篇小説を発表したジョン・チーヴァーの作品を中心に、短篇の魅力を考える一冊。

この記事のライター

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山田洋介

1983年生まれのライター・編集者。使用言語は英・西・亜。インタビューを多く手掛ける。得意ジャンルは海外文学、中東情勢、郵政史、諜報史、野球、料理、洗濯、トイレ掃除、ゴミ出し。

Twitter:https://twitter.com/YMDYSK_bot

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