進化し続ける新幹線。その技術者たちの挑戦を追うノンフィクション
2018年3月10日、JR東海が東海道・山陽新幹線の新型車両「N700S」を公開した。現在、東海道・山陽新幹線を走るN700Aから主要な部分をすべて新設計しており、東海道新幹線では13年ぶりのフルモデルチェンジ車両となる。営業開始は2020年を予定しており、鉄道ファンならずとも待ち遠しいだろう。
さらに、その先には「リニア中央新幹線」が控えている。最高速度はなんと時速500キロ超。東京と名古屋の間を約40分で結ぶ。開業は2027年を予定されている。
進化し続ける新幹線だが、その歴史は1964年10月の東京オリンピック開催に合わせて開業した0系新幹線からスタートする。「団子っ鼻」の愛称で国民から親しまれ、30年以上の長きにわたって第一線で走り続けた。0系は最高速度210キロだったが、今や最高速度320キロ、営業最高速度は285キロとなった。
そんな新幹線開発の変遷を膨大な証言をもとに追いかけたのが『新幹線を航空機に変えた男たち』(前間孝則著、さくら舎刊)だ。本書は、新幹線誕生から時速320キロ突破までの鉄道マンと航空機、技術者の挑戦を追ったノンフィクションである。
新幹線の最高速度があがっていく過程で、問題となるのが騒音と振動だ。
たとえば、300キロでトンネルに入った場合、微気圧波による大きな爆発音が発生し、深刻な騒音公害を引き起こしてしまう。この爆発音を発生させないための最適の先頭形状はどうすればいいのか。空気抵抗やそれに伴う振動、空力振動を扱う「航空分野」が新幹線開発の大きな力となったのだ。
新幹線は、鉄道マンと航空機の技術者が力を合わせて技術向上してきた歴史がある。
戦前、実は飛行機屋と鉄道屋の交流はほとんどなかった。当時、飛行機屋が「航空機の技術は最先端を走っている」という自負から鉄道を見下していたのに対して、鉄道屋は「長い伝統と蓄積があって、安全第一の鉄道には、性能優先で信頼性が低い軍用機の技術は危なくて使えない」と否定的だった。
しかし、太平洋戦争での敗戦でその状況はガラリと変わる。GHQから「航空の研究・生産の一切の禁止」が命令され、戦時中、陸海軍で軍用機の研究・開発・生産に従事していた優秀な技術者たちが行き場を失い、路頭に迷ってしまう。
そんな逆風下で手を差し伸べたのが、鉄道研究技術研究所に入り、後の新幹線車両に振動問題で活躍した松平精だ。こういった経緯から、国鉄は数百人規模の航空技術者を受け入れたのである。
そして、航空で培った経験と能力を鉄道の研究に思う存分活かすことを求めたのが、「新幹線をつくった男」島秀雄。
明らかに進んでいる航空機の先端的技術や理論を取り込むことで、経験主義に凝り固まりがちなこれまでの鉄道技術に新風を吹き込もうとした。
ただ、その後も鉄道屋と飛行機屋の対立は続いたのだが、昭和30年代の半ばになると、状況は変わってきたようだ。欧米で200キロを超す車両実験に成功したというニュースが報じられるようになり、電車を高速化するために、両者の知恵と技術と経験を合体し、協力し合うことが求められるようになった。
こういった鉄道マンと航空機の技術者たちの歴史があり、両者の共同開発のもと、東海道・山陽新幹線でいえば、300系、500系、700系、800系、N700系、N700A、N700Sと進化をさせていったのだ。
さらに航空と鉄道の技術の結びつきは進んでいる。
リニアの先頭車両では、三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所の航空機部門が全面的に参画している。これは、これまで以上に航空機開発の分野が重要だったからである。
歴代の新幹線の先頭車両の顔を見ると、超流線形をしたさまざまな相貌を持っている。こういった車両は、鉄道先進国といわれる欧米諸国においても見当たらず、日本ならではのオリジナリティーだという。
新幹線はどのように誕生し、進化してきたのか。新幹線の歴史を紐解いていくと、鉄道マンと航空機技術者をはじめとしたプロフェッショナルたちが挑戦してきた姿を追うことになるだろう。
(新刊JP編集部)