日本の証券市場の歴史を総まとめした『証券市場誕生!』 日本取引所グループに編纂の裏側を聞く(後編)
経済の象徴であり、景気不景気のバロメーターとして扱われる「株価」。
その「株価」が決まる日本の証券市場が一体どのような歴史を持っているのか、皆さんは知っていますか?
実は、世界最初の公設先物取引所は日本で誕生しました。
時は江戸時代。1730年、8代将軍徳川吉宗が大坂に堂島米会所を設立。それが世界初の公設先物取引所だったといいます。当時、堂島米会所は日本最大の米市場でしたが、現在の証券取引所が有する様々な制度と遜色ない制度を有していた取引所でもあったそう。
それから現代に至るまでの約290年の証券の歩みをまとめた『証券市場誕生!』(鹿島茂監修、集英社刊)は、まさに「証券市場の歴史」の決定版。
著者は東京証券取引所の親会社である株式会社日本取引所グループ。豊富な史料とともに、証券市場の紆余曲折を辿りながら、証券に詳しくなくても、近現代の経済の流れを学ぶことができる一冊です。
今回は本書の編纂にあたった金融リテラシーサポート部の石田慈宏さんにインタビュー。後半では江戸時代に現れた天才相場師のエピソードから、兜町という金融街、そして日本人の金融リテラシーについて語って頂きました。
(取材・文:新刊JP編集部)
■「相場は危ない」というイメージは江戸時代の天才経済人たちから生まれた?
――この本の編纂を通して気になった人物について田中平八の名前をあげていただきましたが、もう一人、気になった人がいらっしゃるということで教えていただけますか?
石田:江戸時代の相場師である本間宗久ですね。彼は日本最大の相場師といっても過言ではない人物だと思います。
――本書でも本間宗久とその甥の光丘について触れています。「二人の偉大な経済人」と評していますが、どんな人なのでしょうか。
石田:本間家は、今の山形県酒田市を中心とした庄内地方の地主でした。その中興の祖と言われているのが、本間光丘です。彼の手腕によって本間家は莫大な財産を持ち、それは藩主の財力を上回るほどだったといいます。
ただ、私は、彼ではなくその叔父にあたる宗久の方に注目しています。
宗久は米相場で財を成した人ですが、調べてみると、テクニカルチャートを発明した人という情報も出てきて、最初は「なるほど、テクニカル分析の元祖か」くらいにしか思っていなかったんですよ。
でも、私の大学院の先生が、宗久はテクニカルチャートとはまったく反対の、ファンダメンタル情報の分析や、今でいうところの行動経済学を非常に重要視していたという指摘をされていたんです。そして、調べるとまさにその通り。最先端の情報を仕入れ、米の価格が大坂と酒田が連動していることも知っていた。とにかく情報を大事にし、相場の価格の上下という分析に活用して、そこから利得を引き出そうとしていました。
ただ、宗久は甥の光丘とそりが合わず、酒田を離れて江戸に出ます。そこで再び米相場に乗り出すわけですが、失敗しているんです。江戸は規模が大き過ぎて、まったく違う世界があったからでしょう。故郷に戻った宗久は、お寺で座禅修行に努め、「投機家の心理」について考えるようになりました。
その後、再び米相場に身を投じ、堂島で大儲けします。彼は江戸での失敗から大衆心理や市場心理を学び、人の心理が相場の変動に大きく影響するということを行動に落とし込むわけです。だから、彼は含蓄深い語録をたくさん残していて、非常に興味深いんです。
――一般的なイメージとして、宗久はあまり良く思われていないところがありますよね。光丘は上杉鷹山の財政再建を支援するなど様々な功績が伝わっていますが。
石田:宗久は投機家だったんです。彼の代で地方の一大商家に過ぎなかった本間家の財産を10倍くらいにしました。ただ、彼の父親は投機的なことが嫌いで、堅実に信頼を育てて家を少しずつ大きくしていくタイプだったんですね。だから周囲からは宗久のしていることが不安視されていました。
光丘も宗久の父親のタイプです。だから光丘は本間家で神様と讃えられているわけですね。宗久にとって光丘の存在は不幸なことだったかもしれません。全くタイプの異なる天才的な経済人が2人、同じ時代にいた。しかもそれが叔父と甥だったというのはね。
おそらくですが、光丘のような堅実なタイプは信頼できて、宗久のような相場師は怪しいという価値観はその辺から始まったのかなと思います。それが今でもそれは残っているというのは興味深いですね。
――続いて「土地」についてお話うかがいたいのですが、日本の金融街といえば「兜町」です。普段働いている兜町とこの本の編集を通して見えた兜町の姿の違いは何かありましたか?
石田:難しい質問ですね。私は1990年から兜町にいるので、多少ですが昔のにぎわいを知っています。それを思い出すと、寂しくなったというのが正直なところです。
ただ、今は金融の中心が兜町でなければいけないという必然性はなくなっていますし、それが金融の本来の姿なんです。つまり、取引されることに物理的な場所にこだわる必要はないということなんですね。
以前は兜町にいることで分かる情報がたくさんありました。でも、金融の世界における情報の対称性に問題があって、そこにいる人だけが情報を知っているってフェアじゃないですよね。なるべく情報がオープンになり、日本株のことを、兜町にいても、アフリカにいても、同じくらい情報を得られるということが大事です。世界中で日本株の売買が行われればいいわけですから。
一方で兜町を昔のような金融センターとして残したいと活動されている方もいます。金融の機能はなくりつつも、歴史的な価値は残るわけですから、日本の金融市場の象徴的な場所としてあってほしいとも思いますね。
――本書にも出てきますが、バブル期の頃のにぎわいは相当なものだったようですね。
石田:そうですね。毎日が押し合い圧し合いでした。ただ、時価総額でいえば、現在よりもバブル期の方が小さいんですよ。株価については、バブルの頃は日経平均で3万5000円という価格がついていましたけど、時価総額は当時ピークで590兆円でしたから、今の700兆円よりも市場規模は小さいんです。だから、市場の厚みはかなり増えていますし、上場企業の数も多くなりましたね。
――日本人の金融リテラシーについてうかがいます。日本人は金融リテラシーが低いということも言われていますが、金融リテラシーを身に付ける重要性についてどのようにお考えですか?
石田:そちらを説明する前に、金融リテラシーにはいろいろな見方があることを知ってほしいです。日本人の金融リテラシーは低いと言われていますが、実はアメリカ、ヨーロッパと比較して一概にそうとは言えません。『証券アナリストジャーナル』にも出ていましたが、実は日本もアメリカもリテラシーのレベルはそこまで変わらないという調査結果があります。
ただ、そうは言っても、一部上場企業の社員が確定拠出年金を掛けるときに、安定した収入があるにも関わらず、貯蓄型を選ぶという傾向もあります。
私たち自身がもう少しリスクを取り投資をすることは、世の中にとって必ず良い方向に影響を及ぼします。私たちの民主主義は投票でしか自分の意志を示すことはできません。ですが、もう一つ自分の意志を示す方法があります。それが投資です。
投資をすることで良い企業を応援し、市場を動かしていく。応援されない企業はもちろん淘汰されていきますし、実は政治家を動かすよりも、企業を動かす方が社会ははやく変わります。その意味では、社会がマーケットファーストになっている中で、金融リテラシーを身に付けるのは必須ではないかと思いますね。
――では最後に、本書の編集を通して石田さんはどのようなことを学ばれたか、教えて下さい。
石田:歴史的に見ても、日本の金融は世界の最先端をいっていました。江戸時代の商人たちが考えていた金融システムは非常に精緻で、世界的に見てもレベルの高いものです。だから、日本人に金融的な素養が薄いと言われるのは疑問なんです。
もしかしたら、どこかのタイミングで金融システムが欧米の借り物になってしまっているかもしれない。自分たちが構築してきた金融システムを失ってしまった出来事があるかもしれない。だとしたら、どこか。
少なくとも戦後、高度経済成長に入っていく直前までは市場が重要なファクターになっていたことは事実です。ただ、その後、人々が市場をあまり見なくてよくなったのと、そもそも銀行などに比べて証券は危なっかしいという意識が働いたのかもしれません。
でも、歴史を見渡して、どの業界も最初は危なっかしいところから始まるんです。最初に渋沢栄一たちが資本主義を日本に根付かせようとして、1878年に東京株式取引所を設立するわけですが、これは実は恐るべきスピードで、明治に入ってからすぐに「取引所が必要だ」と思わなければ、こんなにはやくできませんよ。
そして実際に設立され、財閥以外の企業はそこに上場することで、株主から支援を受けて事業を拡大してきた。そうやって新しい産業が成長する受け皿をつくってきたのが、証券界です。そう見渡してみると、証券界にいる一人の人間として、誇りに思いますね。
(了)