【「本が好き!」レビュー】『定本 日本の秘境』岡田喜秋著
提供: 本が好き!著者の岡田喜秋が自らの足で昭和三十年代の日本の僻地を歩いた記録である。だが、単なる紀行文とか昭和の記録とか言うだけでは表せない魅力に満ちている。
縮尺五万分の一の地図を手に、時には使われなくなった古い山道にまで分け入る喜秋。一歩間違えば遭難するのではないかと心配になるような山行をさらりとこなす山男っぷりに、そしてその健脚を誇るでもなく淡々と行程を語る穏やかな文体に、まず私はすっかり魅了された。読み進めていくうちに、豊富な地学の知識、土地の人々や風土に注がれる温かな視線、大袈裟さのないごく自然な筆で描かれる風景の美しさを、しみじみと味わうことができた。
雪に閉ざされた地での暮らしの厳しさ、ランプのあかりしかない山小屋の暗さ、湯治客でいっぱいのひなびた温泉のあばら屋、海難事故と隣り合わせの漁、発展途上の開拓地の貧しさ…。昭和三十年代当時の秘境の生活は現代では想像もつかないようなもので、今では当地でも失われているであろう暮らしの様子を記録したという点でも、この本によって為された仕事の大きさを感じる。
とりわけ私が心に残ったのは、秘境を生きた人々の姿だ。スキー初心者の素人が遭難したために捜索に出た息子を亡くした八甲田の酸ヶ湯の宿の主人、白戸さんのエピソードには胸を打たれた。
他にもたくさんの山小屋主人や、漁師や、開拓民
など、当時を懸命に生きたであろう無名の人々の痕跡が忍ばれる。こうして喜秋が記さなければ、現代の誰も知ることも思い返すこともなかったかもしれない人生の片鱗。そこに想いを馳せずにはいられなかった。
棚マルフェアに合わせて駆け足で読んでしまったが、またゆっくり時間をかけて読み返したい本である。フェアのPOPを書くためにこの本を手に入れたのがちょうど真夏の頃だった。夏の特別列車に乗りに行く機会があり、その小さな旅に持っていって、山深い田舎町を車窓に眺めながら、電車に揺られて読んでいた。途中の駅で記念スタンプをこの本に押してきたので、私にとっては夏の旅の思い出の本ともなった。都会の生活の中で読んでももちろん楽しめるけれど、旅の空の中で好きなところをパラパラ読むのにも向いている本だと思う。喜秋のように秘境を旅することは私にはとてもできないが、またこの本とともに、静かな山間や川のせせらぎやひなびた田舎道を辿る旅に出たいものだ。
(レビュー:ちょわ)
・書評提供:書評でつながる読書コミュニティ「本が好き!」