「文学的失語」に見舞われた芥川賞作家 6年ぶりの新作を語る(2)
作家は、大きく分けて2種類いる。
速ければ年に数作ものペースで新作を量産できるタイプと、一つの作品を仕上げるのに長い時間を要する寡作なタイプである。
8月に『岩塩の女王』(新潮社刊)を刊行した諏訪哲史さんはまちがいなく後者。2007年に『アサッテの人』で群像新人文学賞と芥川賞を受賞し、華々しくデビューした諏訪さんだが、前作『領土』を2011年に刊行して以降、実に6年もの間、小説の発表がなかった。
この「沈黙の6年」をどのように過ごし、新作『岩塩の女王』を書き上げたのか。そしてデビューから10年を経た今の心境はどのようなものか。前回につづき、諏訪さんにお話をうかがった。(インタビュー・記事/山田洋介)
――諏訪さんは、作家としてかなり寡作な部類に入ると思いますが、小説を書いていない時はどう過ごされているんですか?
諏訪:異常なほど本ばかり読んでいます。読んで文学や思想を味わいたいということもあるのですが、一方では書いていないことの罪悪感を読書で紛らわせているところもあるんですよね。「今日は小説は書けなかったけど、たくさん読書したから少しは仕事をした」という気持ちになれるので。中高生が、テストが近づくほど読書が進む心理と一緒です(笑)。
だから一日六時間くらい読書をしていますが、そうやっていると逆に「これだけ読んだのだから、タダでは終わらせられない」という気になるんですよ。幼少時からの読書の積み重ねがあるから、いざという時は、まだ何とか言葉が出てきてくれているんだと思います。
――究極的には、書くことより読むことの方が好きなんですか?
諏訪:そんなのもちろんです。十年前、衝動的に応募した群像新人賞をいただいてデビューしましたが、そのご縁がなかったら、サラリーマンをしながら読書人として静かに一生を過ごす気でいました。そうしておけば僕ももう少しまっとうな人間だったかもしれない。
――音や聴覚への意識が強いということで、音楽にも関心が強そうです。普段よく聞いている音楽がありましたら教えていただきたいです。
諏訪:詩吟や謡曲好きな父の趣味もあって、雅楽の越天楽や能楽、浄瑠璃や民謡など、子供の頃から耳に親しんでいました。ロックやジャズ、クラシックやボサノバ、フレンチ・ポップスやキューバ音楽も好きですが、ここ十年くらいは主にノイズ音楽を聞いています。個人的な好みでいえば、音楽でなくても何かの音であればよくて、電話が通話中の「ツーッ、ツーッ」とか、町工場のカッシュン、カッシュンという音はもっと好きです。
ノイズ音楽はフリー・ジャズから派生して、インダス(工場系)といわれる現実音のサンプリングに、別のエレクトロニックな人工の電子音を被せたりして作為的に音楽にしたものなのですが、そういうものを孤独にヘッドフォンで聴くのが至上の悦び……というと何だか変態みたいですが、そういう音楽があって、本書の「無声抄」にも出てきます。
――多方面に豊富な語彙を持たれているため、様々なことに関心を持っている方なのではないかと思ったのですが、最近の関心事がありましたら教えていただきたいです。
諏訪:若い頃から政治的なことには絶対に触れないで人生を終えようと思っていたんですけど、最近あまりにも政治状況が不穏ですよね。
だから、エッセイなどで政権への批判めいたことや、レイシズム批判のようなことを書くこともあります。哲学科では存在論や倫理学以外に、マルクスなどの社会思想も学んだので、いまの民主主義や資本主義の矛盾があまりにもひどく目についてきてしまいました。
――政治的なことについて書くようになったきっかけのようなものはあったのでしょうか。
諏訪:僕は文学的には「観念的アナーキズム」の立ち位置にいたいと思ってきました。本当の意味のアナーキズムというのは、「徒党を組まない」という点にのみ本質があって、バクーニンやクロポトキン以降の社会主義化したアナーキズムは実は純粋状態ではないんです。アナーキーとは「自分自身も含め各個人それぞれが国家であって他の誰にも統治されない」という状態を指します。それは簡単に言えば衆を束ねる社会支配がない状態なわけで、だからこそアナーキズムは「無政府主義」と訳され、無意味の芸術、ダダとも接近するわけです。
これが僕の文学的理想に近いのですが、一方で僕は現実生活において社会に従わざるをえません。つまり、アナーキズムを理想としつつ、どこかから印税はもらい、資本主義社会の中で生きているという矛盾がある。これがある限り、いくら文学でアナーキズムをやっているといっても、机上の空論に過ぎない。でもその机上の空論をこそ僕は愛するのです。
ただ、この矛盾を何とか自分の中で決着させるという意味でも、現実社会に何か言葉を投げつけてやらないと気が済まないと最近は思いますね。
――先日、芥川賞が沼田真佑さんの『影裏』に決まりましたが、新人賞受賞作がそのまま芥川賞を受賞したという点で、諏訪さんの『アサッテの人』とも共通点があります。当時のことを憶えていますか?
諏訪:とにかく忙殺されたというのを覚えています。一種の躁状態になってしまい、医師からたいそう心配されました。取材はたくさん受けましたが、頭の中は二作目を書かなきゃということばかりで、心ここにあらずといった状態でインタビューに答えていました。
――新人賞の受賞挨拶でパフォーマンスをしたり、芥川賞の授賞式で歌を唄ったりといったことも話題になりました。
諏訪:そういうことが好きなわけでは決してなくて、引っ込み思案な人間が自己紹介に悩んだ挙句に「窮鼠猫を噛む」というか、せっぱつまって逆に攻撃に出たという感じです。もっとクールにご挨拶申し上げたかったんですけど、なにせ病的な躁状態ですから(笑)。
――そんなデビューから10年が経ちました。今後の抱負をお聞かせ願えますか。
諏訪:やれることを、時間をかけてでもやっていこう、ということだけです。
この先、文学というものがどうなっていくのか、たとえば自分がやっているような、物語で胸を打つよりも、それ以上に文体や言葉そのもので読み手の胸を打つような小説が、これからも文学的価値のあるものとして市民権を得ていけるのかというのはわかりません。
必要とされなくなったら淘汰されるのみですが、自分のやっていることがどこまで許容されるのか、自分のような二十世紀までの文学的アーカイヴしか持っていない昭和育ちの作家にいつまで活動期限が残されているのかということには僕自身興味があって、だからこそ時代の流れにおもねってはいけないと思っています。
そこは自分との苦しい我慢くらべになるわけですが、時代におもねらない代わりに、自分の信じる文学的な「自由」や「立体性」はとことん追及して、とにかく中途半端なものは出さない、自分で完全に納得したものだけを出すということは自分に課しています。時間はかかりましたが、今回の『岩塩の女王』で、ついにそれができた、と思っています。
次回の小説が何年後になるかわかりませんが、「あの諏訪が書いたのなら仕方ない、読んでやるか」ということで買ってくれる読者の方々がついてきてくれるように、これからも妥協せずに苦しみながらやっていきたいですね。 (インタビュー・記事/山田洋介)