文明に小説家は必要か 作家が語る「小説家の役割」
出版業界の最重要人物にフォーカスする『ベストセラーズインタビュー』。 第91回目となる今回は、新刊『カタストロフ・マニア』(新潮社刊)が好評の島田雅彦さんが登場してくれました。
太陽フレアによる電源喪失と未知の病のパンデミックによる、人類の「大淘汰」。その裏側には何者かの不気味な意思が……。そこに描かれているのは、私たちにとってあまりにも記憶に新しく、どこか身に覚えのあるディストピアです。
この作品によって島田さんが問いたかったものは何だったのでしょうか?ご本人にお話をうかがいました。(取材・記事/山田洋介)
■小説家は文明の余剰物。でも…
――新刊『カタストロフ・マニア』の舞台は2036年、今から約20年後です。作中ではAIが人間を凌駕し、天災や病気の流行によって人類の淘汰が起きますが、これは島田さんが抱く20年後のイメージとある程度近いのでしょうか。
島田:天災や病気はともかく、AIについては今専門家が立てている予想よりは早く発達するだろうと考えています。
現在、何度目かのAIブームが来ていて、特化型AIの開発が盛んにおこなわれていますが、今回の作品では汎用性AIのスタンスで書きました。投資を活発にしたい産業界からは「こんなネガティブなものを書いて」と怒られてしまいそうですが。
――汎用性AIの能力が人間のそれをはるかに超えていて、人類を操作するという、あまり考えたくない展開です。
島田:ある意味そう思いますが、一方でAIと人間のもっとも理想的な共生についても考察しています。
――人間による不完全で不平等さの残る社会と、人間を凌駕するAIが人間を平等に管理する社会との対比は、SF小説の普遍的なテーマです。このテーマについての考えを教えてください。
島田:思慮に欠けた施政者が政治を行うことでカタストロフに向かうということは、日本に限らず、アメリカでもヨーロッパでも人々の共通認識になっていると思いますが、こんな状況では「政治なんてAIに任せた方がマシ」という意見が出るのも当然だと思いますし、私もそう思います。
ただ、仮に本当にAIに政治を任せたとしても、あるいはこのまま人間が政治を司っても、どこかの段階で「選別」が行われるのは避けられません。ある大きな出来事なり変化が起きて、「この先、生き残るのは誰か」を決めることになる、という選別は、これまでのディストピアを書いたSFでもテーマになってきました。
小松左京の『日本沈没』もそうでしたし、安部公房の『方舟さくら丸』もそうですよね。
――『カタストロフ・マニア』でも「選別」は行われます。個人的には、選別される側に「小説家」がいたのは意外でした。作中の選別基準をクリアする小説家とはどのような人物なのでしょうか。
島田:文明全体について深い認識を持っていて、多様なライフスタイルについての素養がある人でしょうね。さらに言うなら、宇宙飛行士のように予期せぬ状況を勇気と叡智で打開していくタイプではない人、どちらかというと「オタク」っぽい人ではないかと考察します。
――となると、文明のなかでの小説家の役割についての考えもお聞きしたくなります。
島田:特に貢献できることはありません。文明において小説家は余剰物で、必要不可欠な存在とはいえません。
ただ、知性というものはいつ何時役に立つかわからないというのも事実で、小説家が知性を持った人々だとすると、環境が激変したり、状況が悪化している時に、その知性が意外な形で生きることがあるかもしれません。その意味では、文明の「保険」のようなものではないでしょうか。
――この作品からは「種としての人間」への警鐘のようなものも読み取れます。どのような問題意識を持って書かれたのでしょうか。
島田:生物としての人間の進化というのは、もう二万年くらい前から頭打ちですが、文明はその後も進化を続けました。
文明とは基本的には技術の進歩で、その進歩に合わせる形で人間はライフスタイルを変えてきました。農業革命、次に産業革命、そして情報革命というように、どんどん発達するテクノロジーを活用してどういう生き方をするかが問われてきたわけです。
ところが、テクノロジーの発展に浴しすぎた結果、これまで全部自分でやっていたことを機械や電脳に委託する形になってしまいました。そして、気がついてみたら古代人と比べてはるかに退化してしまっている、というのが今の状態だと思います。
退化したというのは身体能力もそうですが、自分の頭で考えたり、誰も頼れない中で道を切り拓いたりするための思考能力や知性もそうです。そして、カタルシスばかりをやたらに求めるようになってしまった。
ここからのリハビリは簡単ではありませんし、時間もかかります。ただ、やってできないことはないですし、実際に始めている人もいる。たとえば、第一次産業に回帰する人というのは、少なくとも退化を自覚しているのではないかという気がします。
――作中にモロボシ・ダンと名乗る、「選別」された側の人間として地下シェルターに入る資格があるにもかかわらず、それを拒否して野性的に生きる人物が出てきます。何か危機的なことが起きた時、彼のように強く生きるためのアドバイスをいただきたいです。
島田:危機の時代をどう生き延びるかの研究は、昔から時代ごとに行われてきましたが、実際に大きな危機を経験した人というのは、ある意味幸いだと思います。
逆説的ですが、東日本大震災を経験した人は多くのことを学んだはずで、それをきっかけに生き方を改めた人も多かったと思います。必要に迫られてではありますが、それまでとは違う生き方の可能性を摸索したぶん、被災しなかった人よりも、今後生き残るための知恵が身についているはずです。
「震災ユートピア」という有名な言葉がありますが、「助け合い」というのは人の持つ本能としてあって、一人で生き抜こうとするよりも周りの人と助け合った方が有利というのはまちがいありません。その本能すら壊してしまったのが資本主義ですが、震災をきっかけに、私利私欲に走って行動するよりも、協力して、助け合って生きる方が生き残る確率は上がるということを、改めて学んだ人は多かったのではないでしょうか。
――作中に登場する、老人ばかりの集落がいい例です。自分のできることや得意なことを担当して、効率的に分業していたのが印象的でした。
島田:あの集落の暮らしの描写は、震災体験がなければ生まれなかったでしょうね。その意味では、この作品は「震災文学」と捉えていただければと思います。
――いざ誰かと集団生活をするとなった時に、何か役立つことができるかというとまったく自信がないです。
島田:震災がなくても、今あたりまえに送っている生活ができなくなることは考えられます。要は完全停電してしまえば、私たちが普段使っている道具や機械の多くは使えなくなってしまうわけですから。
この本では「太陽のしゃっくり」と呼ばれる、太陽フレアによる磁気嵐で電力供給がストップしてしまうのですが、これはありえない話ではなくて、現に先日フレア爆発による磁気嵐の影響で、比較的緯度の低い地点でオーロラが見えたというニュースがありましたよね。
何らかの理由で電力が失われた時に、どれだけ充実した生活を確保できるかというのは、教養であり、素養だと思います。 (後編につづく)