【「本が好き!」レビュー】『菜食主義者(新しい韓国の文学 1)』ハン・ガン著
提供: 本が好き!「菜食主義者」というタイトルから、ベジタリアンを主人公にしたストーリーが展開するのだろうと考えてはいけない。この本は、そんなに生易しいものではなかった。
韓国の女流作家ハン・ガンの「菜食主義者」は、「菜食主義者」、「蒙古斑」、「木の花火」の3篇で構成される連作集である。物語全体の中核に存在するのが、ある日突然肉食を拒否するようになった女性ヨンヘであり、「菜食主義者」は彼女の夫の視点、「蒙古斑」は彼女の義理の兄の視点、「木の花火」は彼女の姉の視点で描かれる。
ヨンヘが肉食を拒否するようになった理由は、まったく定かではない。本人は「夢を見た」と言うばかりだ。一切の肉、魚を拒否し、わずかばかりの野菜と穀物のみを食すようになった妻と、理由がまったくわからずに困惑する夫。ヨンヘの両親や姉弟たちに相談してみるが、彼女は親姉弟の説得にも耳を貸さない。そして、姉夫婦の新居に家族一同が集まったところで事件は起きる。娘の行状におもいあまった父親は激高し、娘を殴った上に無理やりに肉を口に押し込めて食べさせようとする。これに激しく抵抗したヨンヘは、自らの手首をナイフで切りつけ病院に運ばれることになる。(ここまで「菜食主義者」)
「蒙古斑」では、売れないアーティストであるヨンヘの義兄の視点で物語が描かれる。創作に行き詰まり日々悶々と苦悩するばかりの彼は、あるときから義妹であるヨンヘをモデルにした映像アート作品を作りたいと思うようになる。彼女の裸体にペイントを施し、彼女が激しく寝乱れる姿を撮影したい。そう思うたびに、彼の性欲は激しく高ぶるのだ。義兄は、彼女にモデルを依頼し、自らの欲望を果たす。しかしそれは、彼自身の崩壊でもあった。(ここまで「蒙古斑」)
精神を病んだ妹とほとんどレイプのようなやり方で関係をもった夫と別れた姉インヘは、さらに精神を深く病んでいく妹を見守りながらも、次第に壊れていく家族の姿に苦悩する。彼女の生活は、夫や妹の崩壊に合わせるように崩れ去ろうとしている。精神病院に入院している妹は、より一層肉食を拒否し、ついには食事自体を拒否するようになる。病院側が施そうとする点滴などの治療にも全力で拒絶するようになり、彼女は確実その生命を終わろうとしていた。インヘは、なぜ食事をしてくれないのかとヨンヘに問う。このままでは死んでしまうと。だが、ヨンヘは静かにこう言うのだった。「なぜ死んではいけないの」(ここまで「木の花火」)
物語の全編を貫くのは狂気と恐怖だ。肉食を拒否し精神を病んでいくヨンヘの存在が、夫や姉、義兄、両親など周囲の家族たちの生活を壊していく。狂気がもたらす崩壊の恐怖が読んでいてゾクゾクと背筋を寒くする。
ヨンヘの菜食の変遷も怖い。彼女はまず肉食を拒否する。次第にやせ細っていく妻に夫はなすすべもない。それでも、姉の家で手首を切って入院して治療を受けたあとは若干の回復も見せている。「蒙古斑」の中では、アイスクリームを食べているシーンもある。だが、義兄に犯される事件が彼女のさらに深みへと落とし込んでしまう。最後は一切の食事を拒否するのだが、そのとき彼女は水と光を求めている。つまり、菜食の究極として自らが植物を化してしまったのだ。
エスカレートしていく精神の崩壊とそれをきっかけにしてガラガラと壊れていく家族関係や人間関係。なによりも理由がわからないということが恐怖を高めている。現実では考えられないような話のはずなのに、一歩間違えれば自分の身にも起こり得るのはないかという想像の恐怖も掻き立てるように感じた。
著者のハン・ガンは、本作によって2016年に「国際ブッカー賞(マン・ブッカー賞)」を受賞した。韓国人としては初の快挙だという。作品を読むのは本書が初めてだったが、読んでいる途中から非常に印象深く心に刺さってくる作品であった。2016年10月には新しい翻訳作品「少年が来る」も刊行されているので、そちらも機会があれば読んでみたいと思う。
(レビュー:タカラ~ム)
・書評提供:書評でつながる読書コミュニティ「本が好き!」