だれかに話したくなる本の話

「未開の地・群馬」を芥川賞作家が書くと…

出版界の最重要人物にフォーカスする『ベストセラーズインタビュー』!
 第77回となる今回のゲストは、昨年12月に新刊『薄情』(新潮社/刊)を刊行した絲山秋子さんです。
 『薄情』の舞台となっているのは群馬県高崎市。その地での暮らしぶりや季節の移り変わりが丹念に描かれていくなかで、地方都市に暮らす人ならではの葛藤が浮き彫りになっていきます。「暮らし続ける人」、「戻ってきた人」、「移住してきた人」、同じ場所で暮らしながらそれぞれ異なった背景を持つ登場人物たちの出会いと再会の後に起きた出来事とは?
 この作品の成り立ちについて、絲山さんにたっぷり語っていただきました。

■「余所者」には「良い」か「悪い」かしかない
――絲山さんの新刊『薄情』は、群馬県の高崎市を舞台にした、いわば「土地」に根を張った作品です。まずは、この小説がどのように着想されたのかというところからお聞きしたいのですが、やはりご自身がこの地で暮らしているということが大きいのでしょうか。


絲山:もちろん、自分が住んでいるからというのはあります。これまで、小説の中であちこちの地方都市を書いてきたのですが、多くは「余所からその土地に来た人」の話でした。
ただ、群馬に関しては実際に家を建てて暮らしていて、町内会の活動にも参加しています。方言で話しますし、知人も増えましたしね。それもあって、私自身は東京出身なのですが、群馬を舞台にするのであれば「その土地で生まれ育ってずっと暮らしている人」のことも書けるのではないかというのがありました。前に書いた『ばかもの』も高崎が舞台でしたが、『薄情』はそれをもう一歩進めた形で書きたいという気持ちでしたね。

――「土地」ということでいうと、「生まれてからずっとその土地の中にいた人」と、主人公の宇田川や蜂須賀のように「一度出てから戻ってきた人」、鹿谷さんのように「外からきた人」が作中に登場しますが、それぞれ土地との距離感が違っていて面白かったです。

絲山:自分自身、高崎には会社員時代に2年いて、その後で住みついたのですが、アパート暮らしの時と、家を建ててからでは周りの人との親密度が変わったように感じます。余所者かどうかということでいえば、この先もずっと余所者なのでしょうが、それでも少しずつその土地だとか土地の人との距離感は変わってくるものだと思います。同じように、生まれた時からその土地にいる人でも、家族が代々そこに住んでいるという人と、親の代で移り住んできた人とでは、ものの見方にしても故郷の捉え方にしても少しずつ違ってくるはずです。

――群馬といえば、その「田舎」ぶりがインターネット上でネタにされていたり……

絲山:群馬の人ってそれを知っていて笑いのネタとして、自虐的に話すんですよね。本当は群馬が好きなのにわざわざ自虐に走ってしまう。「未開の地 群馬」と言われたりしますけど、そういうことでも、話題として楽しんだりします。この小説では、そういう群馬の人の気質も含めて、他の人が書いていない群馬の話を書きたいと思っていました。

――東京との距離が絶妙ですよね。遠いは遠いですが、地方とまではいきませんし。

絲山:方言にしても、イントネーションは東京と同じで、昔の「江戸っ子」の言葉に近いんです。「おまえ」が「おめえ」だったり、「はいった」が「へえった」だったり、落語みたいに聞こえるかもしれません。

――ただ、宇田川は登場人物の中でもはっきりと東京との距離を感じていますね。

絲山:宇田川もそうですが、群馬は「地元意識」が強い人が多いと思います。そこは埼玉の人との違いかもしれません。埼玉の場合、東京に通勤していたりするので、独自の地元意識はあまりないという人が多いのですが、群馬は地域によって特色が違いつつも全体で「俺たちは群馬」という意識があります。
おもしろいのは、群馬の人は東京のことを「都内」って言うんですよ。おそらく無意識に使っているのだと思いますが、群馬は東京の外側なんだから「今日は東京で仕事」でいいはずなのに「今日は都内で仕事」と言う。でも埼玉や長野のことは「他県」と言うんです(笑)。だから埼玉を飛び越えて東京に親近感を持っているんだと思います。

――『薄情』を書くうえで、気をつけていたことがありましたら教えていただければと思います。

絲山:宇田川という架空の人物を設定していますが、彼については自分の現実生活での友達のような感じで「あいつ今どうしてるかな」という風に考えていましたね。
作中の時間の流れの中には私自身の生活があって、でも私小説ではありません。私と同じものを見ているんだけれど、私とは違った感じ方をする人を書こうと思っていました。

――「薄情」というタイトルと深く関わってくる「弱い毒」や「薄い毒」という言葉が印象的でした。これは「余所者に対する土地の人の無意識の悪意」というように読み取れますが、群馬で暮らしていてこういうものを感じたことはありますか?

絲山:実際には感じてはいないものの「いつか起こり得るリスク」として考えることもあります。
結局、「余所者」には「良い」か「悪い」かしかないんですよ。私は群馬にたくさん友達ができましたし、本当に良くしてもらっていますし、ラジオ番組も持たせてもらっています。でも、絶対にそんなことはしませんが、たとえば私が飲酒運転で捕まったり、何か許されないような事件を起こしたとしたら、結構なリスクがあるんじゃないか。つまり、その時に私は「余所者」に戻るんじゃないかという気がしています。そういうリスクへの危機感が反映されているのが、作中の「鹿谷さん」の事件だと思います。

――鹿谷さんの事件は、土地や集団が持つ圧力を感じるという意味で印象的でした。平穏に暮らしているうちは、「外から来た人」と「ずっとその土地にいた人」の間に特に問題はないのですが、ひとたび何か起きると「あの人はやはり外の人」ということが急に表面化します。このあたりはヨーロッパなどの移民社会にも共通することだと思いますが、絲山さんとしては、群馬を舞台にした物語を書くことで、もっと大きな何かにつなげる意図はあったのでしょうか?

絲山:そういう意図はなかったですね。でも、「内と外」っていう考え方は昔からあって、ある土地で何か事件が起こると、代々そこに住んでいる人たちとそうでない人たちの間で「あいつの先祖はどこそこの出だから」と「内と外」を区別するような話がどうしても出てきます。その「内と外」とは何か、どこに境界があるのかということはずっと考えていました。
群馬県内では道祖神がまだ結構残っていて、道祖神の内側が本来の「町」だという人もいますし、旧市街地では「川向こう」「駅向こう」「電車向こう」というような言い方をして、それらを除いたごく狭い中心部だけが本当の高崎だという人もいます。もちろん、こういうことは高崎に限ったことではないと思いますし、「どこまでが自分の縄張りか」あるいは「どこまでが生活圏か」っていう感覚は人間心理としてありますよね。

――生活圏や行動圏の境界は普段あまり意識しませんが、考えてみると面白いですね。

絲山:「うちの場合はこう」というのは皆さんあるんじゃないかと思います。東京なら電車の路線の影響が大きいですよね。東急線沿線とか西武線沿線とか、路線ごとに文化が違いますから。

第二回「無理に先を書こうとしてもうまくいかない。でも、待っていると 『今だ!』という瞬間がやってくる」 につづく

この記事のライター

山田写真

山田洋介

1983年生まれのライター・編集者。使用言語は英・西・亜。インタビューを多く手掛ける。得意ジャンルは海外文学、中東情勢、郵政史、諜報史、野球、料理、洗濯、トイレ掃除、ゴミ出し。

Twitter:https://twitter.com/YMDYSK_bot

このライターの他の記事