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はじまりはささいな喧嘩?日本史上の「戦」はなぜ起こったか

日本の歴史の中で起きたさまざまな合戦や争乱は、初めは些細な「喧嘩」に過ぎないこともしばしばだった。いかにその喧嘩は戦禍に発展していったのか。日本史上のさまざまな喧嘩を取り上げて、その争点は何だったのかを見ていくのが『喧嘩の日本史』(本郷和人著、幻冬舎刊)である。

■日本史に残る激戦「川中島の戦い」はいかに起こったか

本書では、東京大学史料編纂所教授、文学博士の本郷和人氏が、弟・義経との小さな行き違いを大騒動に発展させて権力を手にし、鎌倉幕府を確立した源頼朝や上杉謙信と武田信玄の戦いなど、平安時代から幕末までの10の「喧嘩」を実証的に、かつ想像力を駆使して解説する。

戦国時代の最大のライバル同士である上杉謙信と武田信玄。この両雄が天文22(1553)年から永禄7(1564)年のおよそ10年にわたって、5度の争いを繰り広げたのが川中島の戦いだ。とくに永禄4(1561)年の4界目の戦いが、最も激戦だったと言われている。

では、上杉と武田の「喧嘩」はどちらが勝ったのか。上杉と武田の喧嘩は、上杉謙信と武田信玄の単純な個人同士の喧嘩というわけではない。それは上杉家と武田家という集団同士の合戦だ。それぞれの思惑があって、川中島の戦いは北信濃をめぐって争われることになる。

合戦の仕方でおさえておかなければならないのは、合戦を仕掛けた側と仕掛けられた側、攻め手がどちらで、守り手がどちらだったか、これらをその目的とともにきちんと理解しなければならない点だ。すでに武田信玄は北信濃を含む信濃国のほぼ全域を制圧していた。なので、その北信濃を奪いたいと攻めてきたのは上杉謙信のほうになる。攻め手は上杉謙信、守り手は武田信玄となる。そのように考えると、川中島の戦いの目的は明確になる。上杉謙信は北信濃を手に入れたい。反対に武田信玄は北信濃を奪われないようにすればいい。こうしておよそ10年にわたって繰り広げられたのが、川中島の戦いだ。

第4回合戦の戦況としては、午前は上杉の勝ち、午後は武田の勝ちとされ、現在の歴史学の通説としては「引き分け」と考えるのが一般的になっている。ただし、川中島の戦いの目的は、北信濃の領有権を得ること。川中島の戦いで、最後まで戦場となった北信濃に残っていたのは、武田軍であり、この地を諦めて撤退したのは上杉軍だった。この戦いののちも、北信濃10万石は武田信玄の支配下にあり続けた。上杉謙信は北信濃の領有に失敗し、春日山城に逃げ帰ったということになる。となれば、川中島の戦いにおける上杉謙信と武田信玄の喧嘩の勝敗に限って言えば、北信濃を守り抜いた武田信玄の勝利だと著者の本郷氏は述べる。

源頼朝と義経の兄弟喧嘩や織田信長と明智光秀、吉良上野介と赤穂浪士など、いかに喧嘩が起こり、どのような戦いへと発展し、どんな結末に至ったのか。「喧嘩」から日本の歴史を紐解いてくのも面白いかもしれない。

(T・N/新刊JP編集部)

喧嘩の日本史

喧嘩の日本史

弟・義経との小さな行き違いを大騒動に発展させて権力を手にし、鎌倉幕府を確立した源頼朝。抜擢されたことで激務に追われ、上司・信長への不満を溜めていった明智光秀。日本史の転換点となった対立・戦いのもとをたどると、日頃、誰もが経験するような「喧嘩」であることが多い。些細な喧嘩が、なぜ大きな戦いにまで発展してしまったのか。権力者は小さな火種をどう利用してきたのか。戦いを避けられる「もし」はなかったのか。平安時代から幕末までの10の「喧嘩」を、実証的に、かつ想像力を駆使して検証する。

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T・N

ライター。寡黙だが味わい深い文章を書く。SNSはやっていない。

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