恐山の禅僧が説く「後ろ向きの人生訓」とは
人間関係や仕事の悩みなど、生きていればつらいことは多い。そんな心の重荷を軽くしてくれるのが、『苦しくて切ないすべての人たちへ』 (南直哉著、新潮社刊)の著者である恐山菩提寺院代(住職代理)、霊泉寺住職の南直哉氏の人生訓だ。
本書では、「仕方なく、適当に」「万事を休息せよ」「死んだ後のことは放っておけ」「プラスでもマイナスでもないゼロ思考」など、心の重荷を軽くする南直哉氏の後ろ向き人生訓を紹介する。
■恐山禅僧の「人生が楽になる後ろ向きな人生訓」
南氏がどうしても苦手で馴染めない言葉が「プラス思考」だ。「ポジティブ」「前向き」といった言葉も、我が物顔に言われると辟易してしまうという。
「プラス」でも「マイナス」でもない「ゼロ」の思考。「ポジティブ」でも「ネガティブ」でもない「ニュートラル」な在り方。「前向き」でも「後ろ向き」でもなく、そこに「止まる」こと。定期的にこれらが必要というのが南氏の考え方だ。
ゼロ思考は、何も考えないことではない。損得でものを見ないこと。自分の見たいものを見ようとしないこと。そのものを「見る」のではなく、そのものが「見える」ようにすることだ。その先を行けば、物事を自分への問いかけと受け止めて、安易に答えを出さず、そこにとどまることである禅門で言う「非思量」の境地がある。
「ポジティブ」でも「ネガティブ」でもなく「ニュートラル」であるには、「いい加減」にしておけばいい。手を抜けということではない。火加減や水加減が難しいように、加減には注意深さと手間が要る。結論を急がず、様子を見る、時期を待つことも立派な加減の策なのだ。
「前向き」も「後ろ向き」も通用しないときは、止まる以外にない。止まらない限り見えない風景があり、それは足元であり、現在地。行く先を選ぶには、止まるしかないということだ。
ゼロ思考、ニュートラル、止まるをまとめれば、「休む」ということになる。南氏は「生きていることは素晴らしい」とは言わない。楽しく嬉しく愉快な人生を送っている人は、仏教などどうでもいいし、仏教の方も彼らはどうでもいいという。仏教が手を伸ばそうとするのは、苦しくて切なくて悲しい思いをしている人たちで、その人たちのためだけに仏教はある。誰も生まれようとして生まれてこないし、生まれたい時に、生まれたいところに、親を選んで生まれたいように生まれてこない。一方的に体と名前を押し付けられて、「自分」にさせられる。不本意なまま、予め人生は始まってしまり、それは重荷である。もう生き始めた最初から大仕事なのだ。その重荷を投げ出さずに、今まで生きてきた事実だけでも大したもだと、南氏は述べる。
心がモヤモヤするときは、本書から南氏の人生訓を読んでみてはどうだろう。ポジティブであること、プラス思考であること、人生を楽しむこと、常に成長し続けることを強要されるような現代に辟易している人にとっては救いとなる一冊だ。
(T・N/新刊JP編集部)