謎だらけの古代日本。在野研究者が考える「史料」との向き合い方
古代日本ではどのようなことが起きていたのか。
文献や資料がほとんどないからこそ、私たちの興味をかきたて、そして様々な議論や思索をもたらしてくれる。
730ページに及ぶ『邪馬臺国と神武天皇』(幻冬舎刊)は、日本の古代史を巡る考察を経て、「神武天皇」の正体と「邪馬台国」との関係について解き明かしていく一冊だ。
日本の古代史に深く潜り込んでいくことの意味とは何か。本書の著者であり、医師でありながら在野で日本の古代史の論稿を執筆している牧尾一彦氏にインタビューを行った。
(新刊JP編集部)
■古代日本史へのアクセスは「人類起源史を見据えつつ、史料の虚構を暴く観点を堅持する」
――まずは牧尾さんのお話からうかがわせていただきます。牧尾さんの本職は医師でいらっしゃるそうですが、その中で、古事記・日本書紀を中心とした古代史の研究を始められた経緯について教えていただけますか?
牧尾:まずは簡潔に私について説明をさせていただきます。もともと東京大学に入学した当初は理科III類(医学部進学課程)にいたのですが、2年次で受けた医学部の教授の特別出張授業が循環器学で、しかも偏微分方程式を用いた流体力学の話で、「偏微分方程式」なるものからして理解できず、ショックを受けて数学科に転入することにしました。理Ⅲの人間が進路を変えたのは前代未聞のことだったらしいのですが、夜も眠れないほどに悩んでいた当時の私としては安心できる唯一の選択でした。
実はこのとき、数学を修めたのちに医学を学んでも遅くはないだろうと軽く考えていまして、学部卒業時、医学部への転入を打診したのですが、受け入れていないと言われ、落胆します。大学院に進学するものの、数学の研究目的を見失ったままでした。
1973年1月に東北大学の数学科に助手として赴任、1976年に結婚をしますが、その年の暮れに妻の承諾のもと希望退職し、ここから文筆業の道へと入っていきます。もともとは私小説の類を書いていましたが習作の域を出ずにいました。そして、自室に引きこもり、恋愛小説を一つ、最高傑作を書いてから死のうと思っていました。
恋とはなにか、愛とはなにか、人間とはなにか、考えながら私小説の世界から脱出し始め、自己の井戸の底から世界を見る目を回転し、世界から自分を見、世界の外から世界を見る術を学ばなければならないと悟ります。そこで当時出会ったのが高群逸枝の『恋愛論』『日本婚姻史』といった書であり、そこからエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』、モルガンの『古代社会』といった基本的文献です。これらを通して、世界は遥か悠久の彼方から、想像を絶する転変を重ねて現代に連なっていることを改めて認識しました。
そして、人間とは何かという哲学上の根本問題すら、人類起源史・家族制度史を自然科学的、社会科学的にさらい直すことによって解くことができるに違いないと悟りました。「人間とは何か」という問題とともに、愛とはなにか、恋とはなにか、という問題についても、当然のことながら、同じ地平で解かれるべき問題だと思ったのです。では、その原始共同体社会とはどんな社会であったのか。小説を放り出して、人類史と日本古代史学へ、踵を転じました。そこで私は、死ぬのを少し先に延ばそうと考えたのです。
――それが牧尾さんを日本古代史学へと向かわせたきっかけだったのですね。
牧尾:そうです。以後、人類史を常に射程に入れながら、日本古代史を研究することとなり、「古事記」の研究、「日本書紀」の研究、「続日本紀」の研究などに入り込むこととなりました。
ただ、次第に古代史学に専念する限り、文筆業で身を立てる可能性はいよいよ消滅してきたと感じます。商業ベースに乗るようなものはとうてい書けないであろうと何となくわかってきたのです。
山形大学文学部で川副武胤先生の「古事記」に関する特別講義の聴講生半年を終えた後、人類史を本格的に研究するのに大脳生理学が役にたつはずとの考えと、その習得と将来の生活の自立を求める考えとから18歳の初心に立ち返る決意を固めて、医学部に入ることにしました。丸1年受験勉強に専念しました。他郷での下宿などは経済的に無理でしたので、自宅から通える医学部として東北大学医学部に入りました。1988年、41歳のときです。
1995年には東北大学病院精神科に入局し、医師免許を得て、研修医となりました。2016年に総院長を務めていた病院を退職し、その後は妻の介護をしながら日本古代史研究に専念しています。
――牧尾さんは以前から「古事記」や「日本書紀」についての著作を出されています。そうした「古事記」「日本書紀」に対して、どのようなテーマ、問題意識を持って思案を巡らせてきたのでしょうか。
牧尾:基本的には人類起源史を見据えつつ、史料の虚構を暴く観点を堅持して今に至っています。
「古事記」については、上古の天孫・天皇系譜を初めて虚構した書物として、そして古代史の真実を暴くための証拠を秘める書物として、極めて貴重な史料であろうと考えています。
最初の拙著『古事記の解析』では、古代の日本土着民族、いわゆる日の神族が、継体天皇以後、次第に大和に復権し、その心・詞を体現する書物として書き上げたものが「古事記」であろうと考え、無分別にも大いに「古事記」を敬仰していました。しかし、今では壬申乱前後史を生きた、特殊な才能を持った人物が天武10年紀以前までに、分注を含めてほぼ全体を書き上げたものであろうと考えています。そして、その「特殊な才能を持った人物」は稗田阿礼ではないかと考えているのです。
また、寓意文字を知り、それら寓意文字の数々が構築する寓意の構造を読み解くことで、「古事記」の虚実を弁別するという観点が極めて重要であろうという認識を持っています。更に言えば、この観点を抜きにして「古事記」の研究は有りえないとすら考えています。
「古事記」の寓意の構造は、壬申乱前後史を生きた作者が壬申乱前後史を念頭に置きながら寓意を構築していますので、古事記の寓意の構造論の研究は壬申乱前後史の研究と表裏をなすものと言えます。
「日本書紀」については、これが「古事記」を敵視しつつ編まれたことはまちがいないのですが、この「日本書紀」を史料として用いる場合には、「日本書紀」が成立した当時の奈良時代初めにおける朝廷内派閥抗争史を認識しておくことは極めて重要です。
「古事記」と「日本書紀」の対立関係に注目しつつ、「日本書紀」成立当時の派閥抗争史については拙著『国の初めの愁いの形――藤原・奈良朝派閥抗争史』で解説をしています。「日本書紀」が諸氏の祖先等を語る口調に明瞭な党派性があり、反藤原不比等派の氏族の祖先に関してはその功績を陰に陽に抑制する筆致に終始しており、逆に親不比等派の氏族の祖先に関してはその功績を顕彰する筆致を窺うことができます。
「日本書紀」を資料として扱う場合に更に重要なのは、わが国では、持統4年紀(690年)以前は、顓頊暦に随伴していた一年下った古いタイプの干支紀年法(旧干支紀年法)を公用していたのに、「日本書紀」は新しい干支紀年法(現行干支紀年法)で編年しており、そのために編年上の無理矛盾を多く含んでいることを見抜くことです。
この驚くべき事実に関しては拙著『6~7世紀の日本書紀編年の修正――大化元年は646年、壬申乱は673年である――』(幻冬舎)に述べていますので、参照していただければと思います。旧干支紀年法の公用史実は、拙著の主題である天皇祖族の出自問題と不可分な事実です。
――「あとがき」にて、本書には旧草稿があり、その一部(序章、第一章)を先行出版したものと書かれています。今回の『邪馬臺国と神武天皇』の論稿ができたのはいつ頃のことでしょうか。
牧尾:2003年頃に旧草稿の構想を立て、2006年から執筆に取り掛かったという記載が日記にあります。そして、本論第18節の補論7の冒頭にも記したように、2009年正月にはその序章と第1章、つまり拙著の草稿段階のものですが、それを考古地理学者の小野忠凞先生に送っているので、このころには最初のものが出来上がっていたと思われます。その後、「魏志倭人伝ノート」を加えたり、本論第18節の補論を加えたりしたものがこの『邪馬臺国と神武天皇』です。
――本書のタイトルにもなっている通り「神武天皇」と「邪馬臺国」はこの論稿における核の部分になります。まずは「神武天皇」の正体について牧尾さんはどのように推測し、辿っていったのでしょうか。
牧尾:『古事記の解析』の段階では、神武天皇は崇神天皇の神話化であろうと考えていましたが、1992年に私家本として出版した『古事記考』の段階で、カモ祖族系譜の虚構構造を解明した時点で、オホタタネコの亦の名が豊ミケ主であることに気付き、これが神武天皇の幼名、豊ミケヌと同じであるため、豊ミケ主を素材にして神武天皇が作られたのではないかと考えるに至っています。
実際こう考えれば、壬申乱紀に神武天皇陵が登場して、大和平定戦の戦勝祈願にこの陵が拝祭された理由が判然としますし、またこの陵の位置が、ミワ君の祀る三輪山とカモ君の祀る葛󠄀木山を結んだ中点にほぼ一致する地点であることもこの考えを支持するものとなりました。
神武天皇は、カモ祖族を初め虚構5代、尾張連祖族、天皇祖族、物部連祖族ら、孝霊天皇から崇神天皇までの4世代にほぼ並行する世代のものたちを含む天皇祖族連合軍による、邪馬台国連合に対する侵略伝承を一身に引き受けて語り出された架空の大王と考えられます。
(後編に続く)