邪馬台国論争「魏志倭人伝」から導き出された新説とは
歴史には謎がつきもの。 史料や証言から「その時なにがあったのか」に思いを巡らせるのが歴史の醍醐味の一つだが、古代となると史料は限られ、想像は難しい。
江戸時代から論争になっている「邪馬台国の場所」はその最たるもの。日本最古の書物とされる「古事記」でさえ書かれたのは8世紀であり、邪馬台国があったとされる3世紀のことを書き記した書物は日本にはない。
『魏志倭人伝と大和朝廷の成立』(藤田洋一著、幻冬舎刊)は当時のことを知るための唯一の手がかりである「魏志倭人伝」を紐解いて、邪馬台国の場所と日本のルーツについての新説を提唱する。今回は「邪馬台国は大和にあった」とする自説の着想について、著者の藤田洋一さんにお話を伺った。
■「邪馬台国論争」で「魏志倭人伝」から導き出された新説
――『魏志倭人伝と大和朝廷の成立』は日本史の長年の謎への新たなアプローチがされていて刺激的でした。藤田さんが弥生時代末期から大和朝廷成立までの時期に関心を持たれたきっかけをお聞きしたいです。
藤田:私は今沖縄で生活しているのですが、沖縄の人は本土のことを「ヤマトウー」と言うんです。それを聞いて「これは邪馬台のことを言っているのではないか」と考えたのがきっかけです。
――最初は「ヤマトウー」という音がきっかけだったんですね。
藤田:そうです。そこから、当時のことを知る唯一の手がかりといっていい「魏志倭人伝」を読むようになったのですが、その過程で、「ヤマトウー=邪馬台国」という発想と結びつく別の発見がありました。
「邪馬台国」の「台」の字は、江戸時代以前は旧字の「臺」だったのですが、実は「魏志倭人伝」のオリジナル版では「壹」が使われて「邪馬壹国」と書かれているんです。この文字だと「豆」が入っているので「ヤマトウ」と読めますよね。だから、邪馬台は「ヤマトウ」がオリジナルで、それが変化して「ヤマト(大和)」になったのではないかと考えています。
――どのような過程で「壹」が「臺」に変わったと考えているのでしょうか。
藤田:昔は書物を残すためには「写本」しかありませんでした。本を書き写す過程で写しまちがえたり、あるいは意図的に文字を変えたりということがあったのかもしれません。
――当時朝鮮半島の南端が倭国の一部だったというのは初めて目にする意見でした。この考え自体は一般的なものなのでしょうか。
藤田:一般的かどうかはわかりませんが、「魏志倭人伝」にははっきり朝鮮半島の南端にあった「狗邪韓国」が倭国の北限だと書いてあります。どうして倭の一部が朝鮮半島にあったのかはわからないところがあるのですが、「魏志倭人伝」を見ると、弥生時代の日本はまだ文明が発達していなかったわけです。
――原始人と変わらないような生活をしていたようですね。
藤田:ところが古墳時代になると石室をともなった広大な古墳が突如出現する。文明の発達度にかなりギャップがあるんですよ。でも、当時から文明が進んでいた朝鮮半島との間に交流があって色々なことを学んでいたと考えると、朝鮮半島の一部が倭だったというのはありえるのかなという気がします。
――邪馬台国の場所については「九州説」と「畿内説」が有力とされてきましたが、本書では畿内でも大和にあったのではないかとしています。大和にあったと仮定すると、すべての辻褄が合うのでしょうか。
藤田:元々大和であったものを中国人が現地の人の発音からヤマトウーと書いたわけで、後で勝手に「邪馬台国」などと読み直して問題を複雑にしただけだと考えています。その辺りはこの本の中で全容を解説していますので読んでみていただきたいです。
――個人的には「魏志倭人伝」の中の邪馬台国の場所についての記述の解釈が面白かったです。朝鮮半島から現在の福岡県のあたりにあったとされる不弥国にやってきた魏の国の使節団が船で「南に二十日」、そして「船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く」ことで邪馬台国に至ったとあるのですが、「南に二十日」が嘘で実は「東に二十日」だったのではないかと本書では仮説を立てています。ただ「嘘の行程が書かれている」という可能性を入れてしまうと「邪馬台国九州説」を否定できなくなります。この点についてはいかがでしょうか。
藤田:「船で二十日+十日航行した」と書いてあること自体が嘘と考えるならそういうことも言えると思います。ただ、方向は別にしても「船で移動した」とは書かれています。徒歩で移動しているなら「歩いて何里」と書いたはずです。実際にその前の訪問地についての記述ではそのように書いているので。
それに、彼らは朝鮮半島に帰らないといけませんから、船を放置して長い移動はできません。だから、船で移動したこと自体はまちがっていないのではないかと思います。「九州説」はこの船での移動について説明ができないのです。
――あくまで「方角」のところだけ嘘をついた、ということですね。
藤田:そうです。福岡にあった不弥国から船で「南に二十日」だと沖縄の方に行ってしまってどこにも辿り着きません。ただ「東に二十日」とすれば日本海を東に向かって航行し、その後「船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く」で近畿地方に着くことが想像できます。
あまりにも事実と異なる嘘を書いてしまうと、記録書としての意義がなくなってしまいますから、方角のところだけを事実と変えたのではないでしょうか。
――それなら確かに邪馬台国が大和にあったという可能性も出てきます。ただ、なぜ嘘を書いたのでしょうか。
藤田:それは当時の大陸の勢力図を考える必要があります。日本列島から海を挟んで西にあった呉の国は魏と競合していたため、倭の存在は魏にとっては都合がよく、呉にとっては脅威だったはずです。それもあって、魏は倭の場所をできるだけ知られたくなかったのではないかと想像できます。
(後編に続く)