【「本が好き!」レビュー】『新訳 リチャード三世』ウィリアム・シェイクスピア著
提供: 本が好き!本作はプランタジネット朝、またはヨーク朝最後のイングランド王リチャード3世を主人公とした戯曲です。
腹黒く邪悪なリチャードが親類縁者を奸策を用いてぶっ殺し、王位に就くもののみじめに殺されるというシェイクスピアの有名作です。まず読んでいて第一に浮かんだことですが・・・。
こいつそんなに悪いヤツか?ということ。
たしかに様々な権謀術数をこらして邪魔者を排除してゆくその様は非道そのもの、しかし彼にとっての「悪」とはなんだろう。
リチャードは冒頭の独白を真に受ける限りではけして美男でも精悍でもない、ぱっとしない風采の男のようです。しかしそれらをコンプレックスとして抱え込むでもなく、いや、さんざっぱら抱え込んだ挙句に達した境地かもしれないけれど、それをさらりと笑い飛ばします。
『ところで、このおれときたら、そんな遊び事にはからきし縁がない。/色気づいて鏡とにらめっくらする気にもなれぬ。/おれという男は、生まれついてのできそこない、/(中略)/こんなおれだ、笛や太鼓にうかれるこの太平の世の中に/いったいどんな楽しみがあるというのだ。/せいぜい日向で自分の影法師でも眺めて、/うぬのぶざまな姿に皮肉をとばすしかあるまい。』
自分の醜さ、欠陥を「受け入れる」ことのできる人間はままあるがそれを「皮肉り、笑い飛ばせる」人間はなかなかいない。
リチャードは人並み以上に相対的な感覚、客観的な感覚を身に付けた男だったのではないか。そんな強い相対的・客観的感覚を持ち合わせるリチャードにとって世の善男善女の抱く善悪感になにほどの価値を見出せただろう。
そしてリチャードの餌食となるイングランド王家の人間たちだってそうそう善人とは言い難い人間ばかりである。
登場人物たちはそれぞれに結構「自己中」であり、被害者である人々のなかに同情に値する人間は正直そんなにはいない。強いて言うなら運悪く王家に生まれたばっかりに殺されてしまう子供たちぐらいなものである。
あわよくば権力にありつこうとやっきになるくせに立場が危ういとなると血筋だの忠義だのというお題目を持ち出して相手を口汚く罵り、相手より自分の不幸の方がいかに深刻かという不幸自慢を並べ立てて自己憐憫に耽る。はっきり言って本作中で醜悪なのはこれらの善人たちである。
まあそもそも仕方のない話ではあると思います。忘れてはならないのはこの時代が王権をめぐる乱世であること。下手な真似をしては命の保証はないというこのご時世、そりゃあ自己中になるのもむべなるかな。しかしだからこそそんな事態を招いた当事者たちである彼・彼女らを「悪い人じゃないから」というだけの理由で同情する気にはなれないのです。
そんな中途半端な自己中たちがうごめくイングランド王家の中にあって、自らの悪を自覚・自認し悪を行うリチャードは悪の魅力に満ちている。いやこの際「悪」「悪」というクドい形容詞もいらない。とにかくリチャードは清々しい。どうせ狂った時代に咲いたアダ花だけど、もっとも強くて、なんなら美しいアダ花である。
そんなリチャードもリッチモンド公(のちのヘンリー7世)率いる軍勢に攻められるに及んで少しだけ軸がブレます。かつて殺した人々の亡霊に苛まれ、忘れ去っていた良心の呵責を感じ始め、読者に「おいおい」とツッコませますがそれはそれで人間としてのリアリティを感じます。誰だって本当に自分の身が危うくなれば弱気にもなるというもの。
リチャードもその例外ではなく、独白にて自身の弱みを曝け出しますが、それでも最期に至るまで「悪のカリスマ」として死んでゆきます。
最期に発するリチャードの言葉。
『この一戦にかけたこの命、/どんな目が出るか、知ったことか、生きるも死ぬも運次第だ。/リッチモンドがこの戦場には六人もいるらしい、/五人までは討ちとったが、本人じゃなかった。/馬をかせ、馬を!馬はないか、褒美にこの国をやるぞ。』
この台詞を読んで思ったのはリチャードの野心は王冠が欲しいという政治的野望ではなく自分を単純に悪人として忌み嫌う「善良で自覚のない自己中」たちへの敵愾心から成っていたのではないかということ。時勢柄「それ」が王位への野望というカタチをとっただけで、周囲の有象無象をやっつけたかっただけで、王国や王冠なんてほんとはどうでも良かったのではないかということ。
『良心なんて臆病者の使う言葉だ、/強いやつをびくつかせるためのおどし文句にすぎぬ。/力がおれの良心だ、剣が法律になるのだ。』
ラストのヘンリー7世の善良丸出しの演説中にもリチャードの「そんなんムリムリ」という高笑いが聞こえてきそうです。
(レビュー:barbarus)
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