川上未映子が『春のこわいもの』で書いた逃れられないオブセッション
劣等感や恐怖、過去の失敗への後悔や虚栄心。
どんな人にも、思考や行動の隅々にこびりついて、暗に人生の筋道を定めているようなオブセッションがある。それらはあまり人に言えるようなものではなく、心に秘めたままでいることも多い。自覚していないこともある。
川上未映子さんの新刊『春のこわいもの』(新潮社刊)は、何歳になっても、人生の状況が変わっても、決して逃れられない個人的なオブセッションを様々な人の視点から書いた作品集だ。今回は川上さんにインタビュー。この本で書いた「こわいもの」について語っていただいた。
■川上未映子が『春のこわいもの』で書いた逃れられないオブセッション
――『春のこわいもの』はさまざまな人々の日常を書いた作品集ですが、タイトルの通りどの作品にも不気味さや不穏さがあります。なかでも「コロナ禍」をうかがわせる描写がこの本全体にうっすらと影を落としている印象だったのですが、この作品のスタートとしてはパンデミックがあったのでしょうか?
川上:作中では「コロナ」という言葉を使わずに「感染症」と書いているんですけど、感染症って、たとえば地震のような自然災害とは違いますよね。始まりも終わりもはっきりとはわからないし、場所も特定できません。それでも全員が当事者になる可能性があるという状況です。
ただ、今回の本ではそういう状況そのものよりも、わたしは「前の日」と呼んでいるんですけど、今の毎日を一変させてしまうような出来事が起こる直前のこと、明日起きる大きな出来事をまだ知らなかった時の状況を書きたいという気持ちがありました。
――たしかに、この本から感じる不穏さは感染症が流行しているというよりは、感染症がこれからやってくる不穏さです。
川上:そうですね。まだみんなそこまで現実としてとらえきれていない、ちょっと他人事だと思っている雰囲気です。
――まさに「前の日」ですね。
川上:子どもの頃から、何かの出来事が起きる前の写真なんかを見ると「この時のこの人は、まだ何も知らなかったんだな」と思うことがよくあったんです。そういう時間の捉え方やものの見方が作中に出ているのかもしれません。
――「もしその時に戻れたら、明日起きることを教えてあげるのに」というような感覚ですか?
川上:そうすることができればいいんだけれど、それはぜったいにできない、という感覚のほうが強いですよね。もう一つつけ加えると、当時「人と会わないように」とか「ステイホームで」とか、禁止事項が多くて、ワクチンもまだ目処が立っていませんでした。いろんな情報が錯綜して、これからなにがどうなっていくのか、専門家のあいだでも意見がわかれて、確かなことがなにもないような異様な雰囲気でした。そういう状況下で、現実の違いや、格差がありありとみえた。ぜんぜんみんながおなじつらさを味わっているとは思えなかった。リモートで仕事できる人と、そうでない人。パンデミックでお金を儲けた人と、仕事が消滅した人。それと同時に、普段はフタをして意識していない人間のオブセッションのようなものがせり出してきている感覚もあったんです。人それぞれが抱えている、逃れられないオブセッションです。そのなかには、お金を持っていてもいなくても、感染してもしなくても、おまえはかならず死ぬんだよ、と指を突きつけられるような事実も含まれていると思います。
たぶん、それは今のコロナ禍が終わっても変わらないように思いますし、人によってはもっと顕著になるかもしれません。その深刻さや顕在化を書くというのがこの本を書く動機としてあったように思います。
――今おっしゃった「オブセッション」というのは「あなたの鼻がもう少し高ければ」で書かれている「容姿への劣等感」や「今の自分への違和感」のようなものも当てはまるかと思います。この作品ではその対処法として美容整形に傾倒する女性が書かれていますが、なかなかに過酷な世界だなと感じました。
川上:そうですね、人によっては楽しめている人もいるけれど、そうでない人もいますよね。今は美容整形そのものへの見方が変わってきているのも感じます。以前のように、後ろめたいものではなく、整形を重ねて自己変革を成し遂げた「サバイバー」を称えるような、共感や価値観も出てきています。そうやって美容整形への見方が変わってきている一方で、ルッキズムについて真剣に考えてみようという流れもあります。一見、このふたつは相反するようにみえるけれど、人の思いは複雑です。このままの自分でいられる強さを求める気持ち、でも人の目を気にしてしまう気持ち、どうしようもなくあこがれる思い、そこに流行だって、気分だって、からんできます。自分の不安定さや達成感や欲望がどこからくるのか、それにどう対処していけばいいのか。いろんなことが同時にあるんですよね。
――「今の自分への違和感」というところで、川上さんご自身が「自分は自分でいいんだ」と思えた瞬間がありましたら教えていただきたいです。
川上:わたしの場合は、若い時から働いてお金を稼がないといけなかったので、そういう自意識を育てる時間がなかったんですよね。14歳くらいから、年齢をごまかして工場で働いていました。春休み、夏休みとか、まとまった休みはぜんぶ。高校に入ってからは、ずっと働いています。
――中学生時代から働いていたとは…。当時はどんな子どもだったんですか?
川上:そこは今とおなじで、詩的なものが好きな少女でした。本当に、星を見て泣くようなところがあったんです、儚さと途方もなさを同時に感じて、でもいま、この胸にこみあげてるものを言葉にできない、みたいな(笑)いま思うと、ちょっと繊細な子どもではあったと思います。誕生日がくると「一歩死に近づくのに、どうしておめでとうって言うの?」と聞いたり、お母さんとかおばあちゃんが死ぬ前に自分が死にたいと思っているような子でした。世界の「初期設定」みたいなものを恐れてつづけていて、自分が何かにならないといけないとか、人に認められないといけないというようなことを考えたことはなかったように思います。
――読んでいると記憶が刺激されて、作品の内容と関係のあることもないことも含めて色々な思い出が浮かんでくる作品集でした。最初の「青かける青」は短い作品ですが、手紙を書いている「私」と相手の距離が近づいたり離れたりしているような不思議な作品で、本全体の雰囲気を決定づけていますね。
川上:「青かける青」はこの本に収録されている作品の中では最後に書いたのですが、本では最初に入るイメージができていました。最後の六行の世界観をとおして、この本が始まるといいな、と願うような気持ちでした。ボリューム的にも内容的にも「娘について」は最後になりました。最初と最後が定まったら、順番は自然に決まりました。
――「淋しくなったら電話をかけて」と「ブルー・インク」はフリオ・コルタサルみたいで格好よかったです。
川上:ありがとうございます。「淋しくなったら電話をかけて」は、散文なんですけど、どこかきりっとした韻文の雰囲気で進んでいけたような気がします。二人称がもつ、独特の厳しさもありますよね。
――個人的には「ブルー・インク」が『春のこわいもの』の中で一番こわかったです。特に消えた手紙への「彼女」の執着です。自分が理解できないことに対する理由不明な他人の執着は、考えてみるとこわいです。
川上:そうそう。たまに、ぜったいに電話でしかやりとりしてくれない人がいるの(笑)。ちょっとしたことを質問しただけなんだけど、メールじゃあれなんで……って言われて、新鮮だった。この彼女も、よくわからないけど、自分の書いたものが残ることがいやな人。いろんなオブセッションがありますよね。
――記録されることへの恐怖ということでしょうか。手紙を探しに学校に忍び込んだ場面でも、かつて学校で起きたという死亡事故について「彼女」は独特な意見を持っていました。
川上:この短編では、ある出来事が起きたとして、どうやってそれを、誰がそれを、事実だったと認定するのか、みたいな話にもなっていきますよね。一人しか目撃者がいなかったら事実かどうかわからないし、複数の人々が見ていても、記録が残っていても、意見が食い違うこともある。歴史がずっと問われている問題ですよね。
――「娘について」は母娘関係の業のようなものに触れていますが、自分の親ではなく他人の親を書いているのがおもしろいですね。
川上:そうですね、母娘問題についての物語は色々な人がたくさん書いていて、かなりの蓄積があるんです。だから、今書くなら、これまであまりなかったようなねじれや感情や関係を書きたいな、と思いました。
――この作品はラストがこわいです。主人公が友達への負い目を清算するためにとった行動にはどきりとしましたが、人間の本質を見た感じもしました。
川上:自分がしたことについて友達がどこまで知っているのかわからない。ふだんは存在していないのに、思いだそうして初めて、思いだすことのできる事実もあります。人は自分のされたことは覚えているけれど、多くの人は自分のしたことを忘れてしまう。もちろん逆もあります。記憶が、過去が、どんなありかたをしているのか。書くことで迫りたいなって思うけど、いつも「つぎはもっと」という思いが残るばかりです。
(後編に続く)