だれかに話したくなる本の話

子どものやる気を奪う結果も「無理してがんばらなくていい」に潜むリスク

「無理してがんばらなくていい」
「我慢する必要はない」
こんなことがあちこちで言われる世の中になった。

本当に嫌なことに耐えかねて何かを途中でやめた人を「逃げた」という冷ややかな言葉で一様にネガティブに評価する社会ではなくなりつつあるのはいいことなのだろうが、その一方で「がんばらなくていい」の行きつく先を考えると、なにやらうすら寒さを感じる人もいるのではないか。

進学にしろ就職にしろ、仕事にしろ、少なくとも今のところは他者から一定の評価を受けないことには受け入れてもらえないし、お金を稼ぐこともできない。「努力」や「鍛錬」と呼ばれるものなしにそれができる人はほとんどいないわけで、となると誰もが一定の時期はがんばらなければいけないし、人生を通じて多かれ少なかれがんばり続けなくては生きていけない。

■「がんばらなくていい」を額面通り受け取ってはいけない

そもそも「がんばらなくていい」も「我慢する必要はない」は「これまでがんばってきた人へのいたわりの言葉」とするのが『どうしても頑張れない人たち―ケーキの切れない非行少年たち2―』(宮口幸治著、新潮社刊)だ。

「あなたはもう十分がんばってきた。だから(もう)がんばらなくていい」が、「がんばらなくていい」の真意。だから、まだがんばっていない人やこれからがんばらなければいけない人が額面通り受け取ることにはリスクがあるとしている。

分かりやすいのが、小学校で勉強している子どもたちです。いつも学校で勉強をしていますが、それは子どもたちが“勉強が好き”“勉強したい”“学問を楽しみたい”という気持ちで勉強しているというよりも、“親から怒られたくない”“先生に叱られたくない”“友だちに負けたくない”といった動機づけが先にあることがほとんどでしょう。ですので、もし勉強嫌いな子どもであれば、さぼれる口実があればいくらでもさぼり始めます。(『どうしても頑張れない人たち―ケーキの切れない非行少年たち2―』より)

この世代への「がんばらなくていい」という安易な言葉がけは、今その子が直面している課題を先送りにする結果にしかならない場合があるのだ。

そして本人の気持ちもある。
「勉強が苦手な子」はかならずしも「勉強が嫌いな子」とは限らない。今は周りに後れを取っていても、いつかは追いつきたいと思っているかもしれない。こうした子に対して、親や教師が「みんなちがって、みんないい」的な価値観から「無理にがんばらなくていい」というメッセージをあたえると、せっかくの子どものやる気の芽を摘んでしまうことになってしまう。

ただ、子どもにしても大人にしても、自発的にか、あるいは周囲のはたらきかけによって、「がんばれる人」もいれば、「どうしてもがんばれない人」もいる。後者の人に対する世間の目は冷たいものになりがちだが、社会として本当に手を差し伸べるべきはこれらの人々ともいえる。

あるいは「やればできる人」がいるのと同様に「がんばってもできない人」もいる。前者と後者の違いは、よくいわれるように「がんばりの方向性と方法」だけの問題なのだろうか?

「がんばれない人」はなぜがんばれないのか?
「がんばってもできない人」はなぜできないのか?

子育てにも教育にも直結するこの問い。本書をお伴に考えてみてはいかがだろう。

(新刊JP編集部)

どうしても頑張れない人たち~ケーキの切れない非行少年たち2

どうしても頑張れない人たち~ケーキの切れない非行少年たち2

「頑張る人を応援します」。世間ではそんなメッセージがよく流されるが、実は「どうしても頑張れない人たち」が一定数存在していることは、あまり知られていない。彼らはサボっているわけではない。頑張れないがゆえに、切実に支援を必要としているのだ。大ベストセラー『ケーキの切れない非行少年たち』に続き、困っている人たちを適切な支援につなげるための知識とメソッドを、児童精神科医が説く。

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