だれかに話したくなる本の話

【「本が好き!」レビュー】『宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)』イヴォ・アンドリッチ著

提供: 本が好き!

作者の人生については、本書の訳者あとがきで詳しく述べられていますが、彼の祖国の歴史同様、ここで簡単に要約できるものではありません。ただ、第二次大戦勃発直前の1939年4月にベリリン駐在特命全権大使に任命され、1941年3月のユーゴスラヴィアの日独伊三国同盟への加盟、その直後のユーゴスラヴィアのクーデターによる反ドイツ政権の樹立、それに反発したドイツによるユーゴスラヴィア侵攻の時期にいたる1941年11月まで、ユーゴスラヴィア政府の要職にあったことは意識しておきたいものです。その後は、政治の世界を離れ創作に没頭しましたが、書いた作品は戦後まで一切発表しませんでした。戦後は公職にも復帰し、1945年にはユーゴスラヴィア作家協会会長、そしてボスニア・ヘルツェゴヴィッチ共和国議会の議長にも選出されました。つまり、政治や歴史と大きな関わりを持った人生を送ったわけです。

もっとも、本書収録作品は、そういう経験を直接語っているわけではありません。ただし、いずれの作品も、過去の時代を背景に設定し、善と悪、その差は何なのかというテーマを扱っているようです。そういうところに、作者の経験を感じることができます。収録作品を簡単に紹介します。

•『宰相の象の物語』★★★★
本書表題作で「権力は無邪気に行使される」と帯に書かれている通りの内容ですが、「どんな真実よりもはるかに真実味がある(中略)オリエントの嘘の話」と、わざわざ冒頭で断ってあります。

オスマン・トルコ帝国に支配されていた時代、ボスニアのトラーヴニク地方に、新しい宰相が任命されます。彼は着任早々、主だった貴族、指導者、市長ら40名をスルタンの勅命として、首都トラーヴニクに招集します。そのうち13名は、理由をつけて出席しませんでしたが、出席した者はその場で処刑されたり、拘束されてイスタンブールに送られてしまいました。

人びとは、この新しい宰相を怖れます。ほとんど人前に姿を現さない物静かな彼の趣味は、世界各地の筆の収集でした。そして、アフリカ象の子供をペットのつもりなのか、一頭トラーヴニクに連れてきます。この子象、無邪気なだけに、かえって始末が悪く、市中を散歩しては、あちこちで「悪さ」を働きます。市民は困るのですが、表立って宰相に苦情をいうわけにもいかず(そういうことを夢想する者はいましたが)、結局象の散歩の時に、象の好きな食べ物にヒ素や砕いたガラスを交ぜて、与えます。そうしているうちに、象は次第に弱っていきます。そして、宰相の政治生命も尽きようとしているのでした。

ちょっと不思議な話です。先に述べたように、善と悪の境界線の話ですが、この不思議さは、おそらく作者の語り口から来ているものが大きいのだろうと思います。クライマックスやカタルシスを拒否しているような印象なのですが、かと言って淡々としているわけでもないのは、事物や人物の細密な描写のせいでしょう。この、ちょっと特異な第三者的視点は、他の作品にも共通していて、あまり類似の作風を思いつきません。同じ題材を扱っても、例えば、ガルシア=マルケスなら、まったく違うテイストのものに仕上がるはずです。

•『シナンの僧院に死す』★★★★
皆の尊敬を集めた高僧アリデデが死の間際、最後の2分間に記憶に蘇ったのは、10歳の頃に見た洪水で流されてきた若い女の白い死体、そして25歳の頃、ある晩何人かの男に追われ僧院の門のところで気絶してしまった服を切り裂かれた女の姿でした。二人とも、翌朝には姿が消え失せてしまい、何の痕跡も残していないのでした。そして、彼の死をみとった者は「アリデデの死は奇跡的に神聖」だったと感じるのでした。

二人の女の肉体の描写が、生々しくエロチックな作品です。

•『絨毯』★★★★
1878年、オーストリア軍が侵攻し、ボスニアがオスマン・トルコ帝国の支配からオーストリアの支配下へと変わる時、逃げ去ったトルコ人たちの家からの略奪を断固として家族の者に許さなかった老婆の話です。

この話が面白いのは、第二次大戦中のドイツによる占領と敗退を連想させるからです。作者の善悪観がよく出ています。

•『アニカの時代』★★★★★
町中の男たちが家の前に一目その姿を見ようと集まるも、ごくわずかの男しか客に取らなかった類まれな美人娼婦アニカをめぐる話です。どんな男にも「所有」されない美しい娼婦という題材が題材なので、面白さという点では本書で一番ですが、善悪の境界線の物語、カタルシスのなさという点では、他の作品と共通しています。

しかし、こうしてアンドリッチを読みながら思うのは、やはり1990年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争です。彼が生きていた時代は、他国の支配に脅かされる時代であったり、比較的オープンな独自路線を歩んだユーゴスラヴィア時代であったりして、同一地域での民族間対立はあったことはあったでしょうが、あまり表面沙汰にはならなかったことは事実でしょう。共産党一党体制がくずれ、民族を代表する党の間での争いが激化する結果となったのは、なんとも皮肉であり、辛いことです。

ところで、本書全体を通してですが、決してすらすら読める作品ではありません。おそらく、それは原文のなせるわざが大きいのだろうと思いますが、一種独特の語り口は、それでも魅力的です。とっつきにくいかもしれませんが、一度そのリズムに乗ると、すらすら読めることは強調しておきたいです。

(レビュー:hacker

・書評提供:書評でつながる読書コミュニティ「本が好き!」

本が好き!
宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)

宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)

恐怖政治を布く強大な権力者が、ふとした気まぐれから一頭の仔象を飼いはじめる。

街中を無邪気に暴れまわる象は、人々の憎悪を集め―権力への民衆の忍従と抵抗を描いた表題作はじめ、ノーベル賞作家アンドリッチが自らの「小祖国」ボスニアを舞台に紡いだ4作品を収録。

この記事のライター

本が好き!

本が好き!

本が好き!は、無料登録で書評を投稿したり、本についてコメントを言い合って盛り上がれるコミュニティです。
本のプレゼントも実施中。あなたも本好き仲間に加わりませんか?

無料登録はこちら→http://www.honzuki.jp/user/user_entry/add.html

このライターの他の記事